アクティブラーニングやワークショップは「自由闊達な学びの場」ではない!?

 最近、僕が密かに細々と興味をもっていることのひとつに

「アクティブラーニング」と「権力」

 という問題があります。「アクティブラーニング」の部分を「ワークショップ」という言葉に代えても、そのことはあてはまると思います。この話題は、あまりにもマニアック過ぎるし誰にとっても1銭の得にもならないので、口にださないことのひとつでもあります(笑)。

 いうまでもなく、昨今の人材開発 / 学習業界では、アクティブラーニングやワークショップといったような「人々の相互作用の中から知識や知恵を生み出そうとする場や働きかけ」に対して、人々の興味関心が増しています。

 そうした言説空間では、こうした「新しい学習」の重要性を説得するため、ともすれば「伝統的な授業」と「対照」づけるかたちで、その魅力が語られる傾向があります。
 要するに「新しい学習の場や機会」を「理想視」し、「伝統的な授業」と対照づけられるかたちで、その優位が語られるということです。

 気になるのはそうした議論の前提であり、問題視したいものとは「学びの場に発動する権力」の問題です。
 一般に、「アクティブラーニング」や「ワークショップ」をめぐる言説の多くは、講師やインストラクターが、知識を「学習者」に「伝達」する形式の「伝達モデル」の「伝統的な授業」を「一方向的で、しかも、権力的な学びの場」だとして忌避し、それとは対照的に、「アクティブラーニング的なもの」「ワークショップ的なもの」をあたかも「権力が発動しない理想的な学習空間」であるように見なす傾向があると思うのは僕だけでしょうか。ここで筆者は「権力」を「他者に対して第三者が、何かを押しつける力」と考えます。

 世にある言説に曰く、

 アクティブラーニングでは、講師は、学生に何も強制しません。学生は自発的に勝手に学び初めて、すばらしい成果を生み出しました

 とか

 ワークショップではティーチングなどの押しつけは全くしてはいけません。学習者は、自分たちで相互に教えあい、自ら学んでいきました

 とかいう記述が散見されます。

 すなわち、ワンワードで申し上げますと、世にある言説では、アクティブラーニングという教え方や、ワークショップという学びの場を、「ゼロ権力の場」とみなすのです。
 そこは、教授者・講師・インストラクターによって押しつけられるものが全くない「理想の空間」とされる傾向があります。

 しかし、少し考えてみれば、この議論はいささか「短絡的」です。
 アクティブラーニングが自発性を前提にし、ワークショップが押しつけを忌避したい気持ちはわかりますが、だからといって、そこが「ゼロ権力」だというのは、論理矛盾です。
 むしろ、アクティブラーニング的な学びの機会や、ワークショップという学びの場が、どんなに学習者同士の相互作用を重視していようと、第三者の「権力」が発動しないことは断じてありません。

 たとえば、「何を学ぶか」に学習者がついて、講師・教授者・インストラークターはテーマ設定を行います。また「何を学ぶか」についてすら自由である場合においても、「何を学ぶかについて自由である」という「テーマの設定」を、すでに学習の提供側はおこなっています。すなわち、この遡及「無限遡及」です。

 また、教授者・インストラクター・講師がどんなに気配をゼロにしようと、そこに「存在している」という存在をゼロにすることはできません。彼がどんなに黙って、学習者同志のコミュニケーションを見ていようが、彼のまなざしがそこにあるかぎり、学習者に与える強制的影響力はゼロにはなりえません。
 また参加者同士にだって「権力勾配」が存在します。おおよそ、人が集まるところ、相互作用するところには、常に「権力」が行き交うものです。

 要するに、いわゆる研修であれ、アクティブラーニングであれ、ワークショップであれ、そこが「ゼロ権力の場」であると考えることには無理があるのです。どんなに頑張っても、もがいても、権力はゼロにはなりません。
 しかし、同時に、わたしたちは、そのことを過剰に「嘆く」必要は全くありません。なぜなら、おおよそ「学び」が引き起こされる場所には「ゼロ権力の場」は存在しないからです。
「ゼロ権力の場」が夢想したり、それを「理想視」したりすることが、いかに「ナイーブすぎるものの見方」であるかを、わたしたちはよく知っています。だから、そのことを「嘆く」必要はありません。正々堂々、権力を行使せざるをえないのです。

 しかるに、ここで求められる知性的な態度とは、

 アクティブラーニングやワークショップを「ゼロ権力の理想の場」とみなして、そこに発動する結果の責任を回避することではありません

 むしろ、

 アクティブラーニングやワークショップという、一見、「ゼロ権力」に見える場だからこそ、しっかりと自らが保持している影響力を直視して、自らの「権力」を内省し、適切に行使することです。
 むしろ、それが「一見、ゼロ権力に見えること」から、注意が必要です。そこには、権力に対して自覚的ではないインストラクターが、権力を過剰行使したりする余地があります。また、権力に対して自覚的な悪意ある第三者が、あたかも学習者が自発的勝つ自由闊達にものごとを選択したかのように、問題設定を行うこともできます。

 権力に対する内省を欠いたとき、

 「学習者の自発性にまかせた議論」という名の「丸投げ」

 とか

 「学習者の自由闊達な議論」という名の「大放談」や「つるし上げ」

 が起こります。

 インストラクターとは、他人前の眼前にたち、権力を行使することを許された存在です。だからこそ、彼 / 彼女の仕事は、内省の環の中にある責務があります。

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 今日は、アクティブラーニングやワークショップなどの「学習者同士の相互作用を重視した学び」と「権力」の問題を考えました。マニアックすぎる話題だったと思います。実は、もうひとつ、ひそかに思っていることのひとつに「倫理」の話題があるのですが、またそれは別の機会にでも!

 そして人生は続く

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追伸.
 このマニアックなネタに、こんなに多くの方々のコメントが集まるとは、正直、ほんとうにマジで思っていませんでした。ありがとうございました。以下は、皆さんのコメント等を読ませて頂いて思ったことを加筆します(2015年3月4日加筆)。

 要するに、僕が言いたかったことは、

1.「誰がセットした学びの場」には、必ず「場をセットする側」の「恣意的」な「意志」と「権力」が駆動するということです。それを「ゼロにすること」はできないし、また、そもそもゼロにする必要もないということです。それを「アクティブラーニング」と呼ぼうと、「ワークショップ」と呼ぼうと、「授業」と呼ぼうと、「研修」と呼ぼうと、そんなことは関係がありません。
(個人的に、それらのカテゴリーには、あまり興味がありません。学習は学習だろ、という思いがします)

2.「場をセットする側」は、どんなにゼロにしようとも、他者に対して「権力」を行使せざるをえません。そうした人材を「教員」と呼ぼうと、「インストラクター」と呼ぼうと、「研修講師」と呼ぼうと、「ファシリテータ」と呼ぼうと、なんと呼ぼうと、そんなことは問題ではありません。だからこそ、それらの人々には、自ら行使する影響力や権力に関して「自覚的」であって欲しいと願いますし、かつ、その仕事は「内省の環」の中にいてほしいということです。それが「人の前にたつ」ということです。

3.「人の世」というものは、「最も権力的だと見えないもの」が「権力的であること」はよく起こることです。アクティブラーニングやワークショップは「耳ざわりがよいロマンチックワード」です。ですので、それは、何となく「権力」という言葉からもっともとおいところに存在するように「見えがち」です。が、むしろ、そういう場であるからこそ、1と2が大切だということになります。そこに作動する権力に対する「内省」を欠いたとき、典型的な問題がおこりがちです。「学習者の自発性にまかせた議論」という名の「丸投げ」とか、「学習者の自由闊達な議論」という名の「大放談」や「つるし上げ」は、権力の暴走により生まれます。

4.「最も権力的だと見えないもの」は、「ロマンチック」に見えてしまうため、悪意をもって利用されてしまう可能性が高いということも、また事実です。最初から仕掛け手の意図をもって構成された場なのにもかかわらず、「おまえたちが話し合って決めたんだろ」とか「やりたいっていったのは自分だろ」という風に、学習者の「自発性とよばれるもの」や「主体性とよばれるもの」のせいにすることができるのです。「最も権力的だと見えないもの」は「もっとも権力が作動する場」に転換することは、ままあるものです。

5.しかし、矛盾するように思えるかもしれませんが、人の前に立ち教えようとするわたしたちは「権力」に自覚的、かつ、内省のループにいるかぎり、「権力」を恐れる必要はありません。正々堂々と、学び手と向き合うべきです。自信をもって行使できると思える権力ならば、行使するほかはありません。また、行使したくなくとも、行使せざるをえない場合もあります。くどいようですが、その場合には、自ら行使する権力に「自覚的」であり、かつ、そこに「内省のループ」が駆動することを願います。

 以上です。
 また、近い将来、ひまを見つけて、この話題について書いてみたいと思います。