「オレオレ」と「アクティブ」に疲弊する社会!? : パッシブよりアクティブ、他律より自律が求められる時代に刺さるうた:吉野弘詩集「生命は」「I was born」を読む!?

 先だって、山下津雅子さん(かんき出版)と渡辺清乃さんと打ち合わせをしていたときのことです。ふとしたことから、現代という時代を生きる人々が、日々の生活に追い立てられ、ついつい忘れてしまいがちな感覚がありますね、というお話になりました。

 僕は、ともすれば、現代社会を生きる人が、ともすれば忘れてしまう感覚として

「己は、他者に支えられて生かされている」

 という感覚があるよな、と思っています。
「他者に支えられて自己がある」という感覚。そして、ややメタフォリカルな物言いになってしまいますが「生きている」のではなく「生かされている」という感覚。
 自戒をこめて申し上げますが、これらは今を生きる人々にとって、忘れ去られがちな感覚なのではないかと思うのです。

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 一般に、世の中は、人々に徹底的に「アクティブさ」を求めます。
「パッシブよりはアクティブな方がいい」とされますし、「アクティブよりは、さらに前のめりなプロアクティブがよい」とされます。
 たとえば「アクティブラーニングなんてしょーもない。これからはパッシブラーニングだよね!」なんていう人を、僕は聴いたことがありません(笑)。

 また「他者に支えられる」よりは「自ら動き、自ら立つほうがよい」とされます。「他律よりは自律が望ましいもの」と評価されますね。「自律」というのは圧倒的なポジティブワードです。
 
 もちろん、自らの強い意志でどっしりと根をおろし、プロアクティブに物事や環境を探索することは、大切なことです。生きるためには、それは必要なこと。しかし、これがともすれば行きすぎてしまい、バランスを失うと

「オレが、オレが」を日々声高に主張し、他者を押しのけ
「アクティブ、プロアクティブ」に追い立てられる事態

 が発生します。

 そして、いつか自ら倒れてしまうか、人は他者を倒してしまうのです。
「オレオレ疲れ」と「アクティブ疲れ」が蓄積の果てに。

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 ここで大切なのは、「己は、他者に支えられて生かされている」という中に含まれる「自己を存立せしめる他者の存在」と「生かされている」という「受け身」の感覚です。

 人はオレオレとアクティブを常に駆動できるほど、強くはない。
 まことに、人は、フラジャイルです。
 だからこそ、あなたがおり、わたしがいる
 わたしたちは、他者を生かし、他者から生かされている

 僕は、どうやら、そういう「人間観」に深く共鳴するところがあります。
 その背景には、僕自身の自己イメージがあるのかもしれません。僕は自分が「弱い人間」であると思っているからです。意志もフラジャイル、体力もどちらかといえばフラジャイル!?
 そして、そんな人間観は、自己の学問、すなわち「人材開発研究」にもかなり色濃く反映されているような気がします。

 対して、人材開発の世界は、この真逆の人間観をよしとする傾向があります。そこにある人間観とは「積極的行動を常に為しうる強い自己・自我」です。
 もちろん、そういうのも大切なのはわかるけど、どうも、それは僕の描きたいものではないんだよなぁ・・・と思っています。他に誰か描く人がたくさんいそうで、敢えて、僕がやるべきことではないように感じるのです。

 フラジャイルな人間がいかに他者から生かされ、他者を生かしていくのか。

 究極には、おそらく、そこを描きたいのかなと思うのです。

 おそらく、そんなことを声高に自分が主張しても、「積極的行動を常に為しうる強い自己・自我」という支配的な人材開発の言説は、今日も、明日も、そしてあさっても、支配的でありすぎるでしょう。だからこそ、それとは真逆の人間観をもつ人材開発研究をなしたいなと思います。それが「永遠のカウンター」にしかならぬことを重々承知しつつ。

 まことに、人は、フラジャイルです。
 昨日の会議では、この話題に関連する詩人として、渡辺さんから「吉野弘さん」を教えてもらいました。

 吉野弘さんは、サラリーマンとして、詩人として生き、市井の人にもわかる平易な言葉で、人間の弱さや痛さを読んだ方です。「正しいことを言うときは少しひかえめにするほうがいい」という「祝婚歌」などの詩は、よく結婚式でも朗読されますので、ご存じの方もいらっしゃるかもしれませんね。

 いろいろウェブを検索してみますと、吉野さんの詩は、ここ数年、ブームになっておられるようですね。その要因のひとつには、「オレオレ」と「アクティブ」に疲弊した人々への救いがあるのかな、と感じました。

 下記の「生命は」「I was born」をどうぞご覧下さい。
 あなたは「オレオレ」と「アクティブ」に疲弊していませんか?

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生命は
自分自身だけでは完結できないように
つくられているらしい

花も
めしべとおしべが揃っているだけでは
不充分で
虫や風が訪れて
めしべとおしべを仲立ちする
生命はその中に欠如を抱(いだ)き
それを他者から満たしてもらうのだ

世界は多分
他者の総和
しかし
互いに
欠如を満たすなどとは
知りもせず
知らされもせず
ばらまかれている者同士
無関心でいられる間柄
ときに
うとましく思うことさえも許されている間柄
そのように
世界がゆるやかに構成されているのは
なぜ?

花が咲いている
すぐ近くまで
虻(あぶ)の姿をした他者が
光をまとって飛んできている

私も あるとき
誰かのための虻だったろう
あなたも あるとき
私のための風だったかもしれない

「生命は」吉野弘・詩集『風が吹くと』1977年より

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I was born
確か 英語を習い始めて間もない頃だ。

或る夏の宵。父と一緒に寺の境内を歩いてゆくと 青
い夕靄の奥から浮き出るように 白い女がこちらへやっ
てくる。物憂げに ゆっくりと。

 女は身重らしかった。父に気兼ねをしながらも僕は女
の腹から眼を離さなかった。頭を下にした胎児の 柔軟
なうごめきを 腹のあたりに連想し それがやがて 世
に生まれ出ることの不思議に打たれていた。

 女はゆき過ぎた。

 少年の思いは飛躍しやすい。 その時 僕は<生まれ
る>ということが まさしく<受身>である訳を ふと
諒解した。僕は興奮して父に話しかけた。

----やっぱり I was born なんだね----
父は怪訝そうに僕の顔をのぞきこんだ。僕は繰り返した。

---- I was born さ。受身形だよ。正しく言うと人間は
生まれさせられるんだ。自分の意志ではないんだね----

 その時 どんな驚きで 父は息子の言葉を聞いたか。
僕の表情が単に無邪気として父の顔にうつり得たか。そ
れを察するには 僕はまだ余りに幼なかった。僕にとっ
てこの事は文法上の単純な発見に過ぎなかったのだか
ら。

 父は無言で暫く歩いた後 思いがけない話をした。
----蜉蝣という虫はね。生まれてから二、三日で死ぬん
だそうだが それなら一体 何の為に世の中へ出てくる
のかと そんな事がひどく気になった頃があってね----

 僕は父を見た。父は続けた。
----友人にその話をしたら 或日 これが蜉蝣の雌だと
いって拡大鏡で見せてくれた。説明によると 口は全く
退化して食物を摂るに適しない。胃の腑を開いても 入
っているのは空気ばかり。見ると その通りなんだ。と
ころが 卵だけは腹の中にぎっしり充満していて ほっ
そりした胸の方にまで及んでいる。それはまるで 目ま
ぐるしく繰り返される生き死にの悲しみが 咽喉もとま
で こみあげているように見えるのだ。淋しい 光りの
粒々だったね。私が友人の方を振り向いて<卵>という
と 彼も肯いて答えた。<せつなげだね>。そんなことが
あってから間もなくのことだったんだよ。お母さんがお
前を生み落としてすぐに死なれたのは----。

 父の話のそれからあとは もう覚えていない。ただひ
とつ痛みのように切なく 僕の脳裡に灼きついたものが
あった。

----ほっそりした母の 胸の方まで 息苦しくふさいで
いた白い僕の肉体----

「I was born」吉野弘 吉野弘詩集

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追伸.
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