「好き」になっちゃうほど「データ」と向き合うこと!? : 現場の一次情報を読み解くために必要なものとは何か?

 ここ数日、朝はローデータ(現場で仕入れた一次情報:生声)を読み込む時間にしています。ローデータと向き合うのは、朝5時からの2時間。TAKUZOが起きてきたり、KENZOがウニョウニョ言い出す前、その時間が勝負です(笑)。

 あたっているローデータは、ここ数ヶ月にわたってやらせていただいたヒアリングの結果です。貴重な時間をかけて語って頂いた「現場の皆さん」の「生の語り」を、ここらで一気に整理し、まとめ、論文を書かなくてはならないのです。

 ところで、ローデータに関して、いつも思うことは3つあります。今日は、そのことを考えてみましょう。

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 まず、

 ローデータを読み込むのは「隙間時間」ではできない

 ということです。

 それを為すためには、どうしても「まとまった時間」が必要であり、10分や15分の隙間時間ができたとしても、なかなか読み込むことはできません。(昨日は総長選挙でしたが、投票は4回行われ、その合間は45分とかでした。ちょっと45分じゃ厳しいですね・・・)
 いいえ、読むことはできたとしても、そこから何かの発見やアイデアを着想することは難しいものです。

 そして、このことは、ローデータに対する、もうひとつの結論に帰結します。

 それは、

 ひとは、忙しくなり始めると、ローデータを読み込む時間を、最も「犠牲」にする

 ということです。

 いいえ、「犠牲にする」というよりも、それを読み込むためには時間がかかるのですから「犠牲にせざるをえない」というのが正しいことなのかもしれません。

 大学などに職を得て、職業研究者になり、次第に様々な学内業務・マネジメントにかかわっていく方々もでてきます。このあたりは自戒をこめて申し上げます。そうこうしているうちに、犠牲になっていくのが、「ローデータと向き合う時間」ではないかと思います。

 再び自戒をこめて

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 最後の点。
 それは、かくしてローデータと長いあいだ向き合っていると、

 ローデータが好きになりはじめ、そうなると、ごくごくたまに、アイデアが「降臨すること」がある

 ということです。

 データが好きになる

 というのは変な言い方なのかもしれませんが、やっぱりそうなのだから、そうとしかいいようがありません。これは量的な分析においても、質的な分析においても、少なくとも僕に関してはいえることです。
 数字を見ていても、文字を見ていても、長い間、そうした作業をしていると、僕の場合「データが好き」になります。逆に、変な言い方かもしれませんが、愛着みたいのがわかない場合というのもあります。そうした場合、どうしても、よいアイデアが生まれません。

 データに愛着が生まれ、好きになってくると、ごくごくたまに、アイデアが「降臨」することがあります。いつもではありません。100回読んでいて1回あればいいほうかもしれません。

「降臨」というのは変な言い方ですが、本当にそうなのだから、そうとしかいいようがないのです。

 突然、ひらめいちゃったりするのです。
 まさに

「キタ━(゚∀゚)━!、神、降臨」

 という感じですね。

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 今日は「ローデータと向き合うこと」について書きました。上記をまとめますと、ローデータは「長時間」自分とつきあい、自分を愛することを、研究者に要求します。
 
 ローデータと向き合っていると、

 ねー、ちょっと、みてみて
 これ、どう思う?

 と言われているような錯覚に陥ります
 僕の場合、ここ数年、好きになるほどローデータと向き合う時間がとりきれなくなりつつあることが、悩みの1つです。

 そして人生は続く