組織開発と人材開発の「違い」とは何か?:「実践の不純さ」と「学問の先進性」!?

 先だって、某学術雑誌編集部から「組織開発論と人的資源開発論(人材開発)の違い」について論じて欲しい、というオーダーがあり、夜な夜なうーん、うーんと考えています。

 いや、わたくし、今、研究者ぶって、かっこつけました(笑)。
 ホントのことをいうと、英語の専門書を数冊寝室に持ち込んだはいいものの、専門書をひらいた途端に「おやすみ三秒、のびた君状態」になっているだけ?のような気もします。
 が、それでも、諦めず、しつこく、毎日「おやすみ三秒」していれば、少しずつわかっってくることが増えてきます(自爆)。

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 いっぱんに、組織開発論と人的資源開発論(人材開発論)は「違うセオリー」と考えられています。しかし、考えていけばいくほど、これらの違いは怪しくなってきます。

 誤解を恐れず、ざっと述べるならば、

・人的資源開発論は、もともと「個人」にフィーチャーしていたけれど(今もメインストリームはそうです)、1985年くらい以降は、実務上のニーズをうけて集団レベルの開発(チームの開発)、組織レベルの開発も、概念に含み混むようになってきている。つまり、定義のレベルで次第に概念拡張がなされており、いまや、この違いを論じることは難しい。人的資源開発論の観点からすれば、組織開発はその下位概念として位置づけられる傾向がある。

・組織開発論は、組織・集団レベルの開発(つまり、集団として、組織としてスムーズに働き、かつ、成果を残せるようになるってことですね)が着目されているが、そのルーツをさぐってみると、Deweyのexperiential learning(経験学習)に位置づく(NTL Handbookでそう明示的に書いてありますがな)。そして、Deweyの議論は、実は「個人」レベルで行われる学習の原理である。こののち、この「個人レベルの学習原理」が、Lewinの集団実験と出会い、実務的ニーズから、個人レベルから組織レベルに概念拡張される。誤解を恐れずに述べるならば、組織開発論とは、「組織を意識して、組織レベルでなされる個人の開発=経験学習」とも解釈できる。

 ここまで重ねてきた読書から、ざっと書けば、こんな感じです。ま、より詳細な議論は、1月発行の某学術雑誌に投稿しようと思っています。
 
 ここから思うことをひとつだけ(時間が無いので!きゃー!)。 
 どちらの概念も、強い実務的ニーズに基づいて、実践が先行し、様々に概念拡張され、場合によっては、その境界が曖昧になっていることが言えると思います。でも、それが「ダメなこと」かというと、学問上はNGなんだけど、僕は必ずしも、そう思いません。
 人的資源開発論にしても、組織開発論についても、「論」として成立しているだけではあまり意味がなく、「実践されて、役立てられてナンボである」と僕は考えるからです。

 だとすれば、わたしたちが為すべきことは、論の境界が曖昧で無化していくこと、すなわち学問的にNGであることを「嘆くこと」ではないように思います。

「実践」は「学問」のために存在しているわけではありません。 
多くの場合、「学問」が、ある朝、一夜にしてなくなったとしても、さしあがって「実践」は何事もなかったかのように「継続」します。
 経営学がなくなっても、経営はなされます。組織論がなくなっても組織が継続し、学習論がなくなっても、人は学ぶのです。

「学問」が「実践」をキャッチアップできていないのなら、反省するべきは、「実践」に「不純」というラヴェルをうつことではありません。反省するべきは「学問の先進性」であり、リアルをすくい取ることのできなかった愚鈍さでしょう。自戒をこめて申し上げますが、僕の研究領域に関して言えば、学問は常にリスクをとって前進し続けなければならないと思います。

 具体的には、私たちになしうることは「人的資源開発論」「組織開発論」ーいわゆる個人か、組織かーというダイコトミー(二分法)を見直し、それにかわるワンワードを生み出すことではないか、と思うのですが、いかがでしょうか?

 その分け方、いいけど、リアルじゃないんだよね。
 そして人生は続く

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追伸.
 この仕事を通じて、痛切に思ったのは、人的資源開発論についても、組織開発論に関しても、英語で定番と言われるハンドブックやテキストに関して、現段階で日本語で読める書籍は、ほとんどないことです。とはいえ、今の僕に翻訳する時間があるかっていうと、ほぼゼロなので、困ったものです。後者の組織開発論に関しては、ご専門の方が他に多数いらっしゃると思うので、きっと翻訳書が出てくると思うのですが、前者に関しては、思うところがあります。また考えます。