管理職から実務担当者への「逆トランジション」!? : 「定年きっぱり・管理職はアガリの世界」から「定年レス・管理職は役割の世界」への移行!?

 今年から、いくつかの新たな研究を仕込んでいます。そのすべてをここで紹介させていただきたいのですが、昨日夜、科研の〆切が5日後に迫っていることに気づき、発狂気味で、そのまま「ほぼワン徹」かましたので、40代を目前に迫った僕には、その気力がありません(笑)。というわけで、数ある研究の中から、ひとつだけをご紹介。

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 最近、M1の田中さんと一緒に仕込みかけているのが、

「管理職経験者が、様々な理由で、役職を離れて現場にプレーヤーとして戻らなければならないときに、いかに再適応するか / できないか。そこではどんな困難が待ち受け、それをどのように乗り越えることができるのか」

 という新たな研究です。

 まことに「エグエグの研究」なのですけれども、研究として成立しうるかしないのか、しないのかから、研究をはじめています。
 もし仮に成立するというのなら、この問題にどのように切り込んでいくか、田中さんとあーでもない、こーでもないと話し合っております。先だっては、某企業において、この施策を実行なさっていたKさんに貴重なお時間をいただき、ヒアリングをさせていただきました。いまだ研究のフィールドはありません。共同研究を行わせて頂ける会社もまだありません。すべてはこれからです。

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 ここまでの話を聴いて、組織論について勉強なさった経験がおありの方なら「ははーん」と思うでしょうが、実は、「実務担当者から管理職へのトランジション研究」でしたら、数は少ないものの存在します。
 しかし、今回、僕たちが目をつけているのは「管理職から実務担当者への逆トランジション」です。こうした研究は、全くないとは言わないまでも、あまり多くはありません。そもそも、そうした事態を、従来の人材マネジメントは、あまり想定していないのです。

 また管理職からの離職・転職の研究も存在します。しかし、今、僕たちが目をつけているのは、「組織内において現場のプレーヤーに戻らざるを得ない人々の適応」です。
 それが個人にとっても、組織にとってもハッピーなのか、アンハッピーなのかわかりませんが、ここ5年ほどでしょうか、そのような事案をよく伺うことが増えてきました。そうした問題に、どのように学問が接近できるのか、もう少し見極めを果たしたいと考えています。

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 これに、ゆるゆるに関連して、最近、自分事として思うことのひとつに、

 今後の社会では「仕事人生」と「人生」が
 限りなく重なってくるんだろうな

 と思うことことがあります。

 ここでいう「仕事人生」は、「生涯の中で仕事をしなければならない時間のこと」です。かつては、「定年」という制度が厳格に機能しておりましたので、仕事人生はたとえば60、人生生涯はたとえば75といった感じで、そこにはギャップがありました。

 しかし、生涯寿命や健康寿命が徐々に延びていることもありますし、また現状の社会福祉の心許ない状況からいっても、少なくとも僕個人は、自分の「仕事人生」がかつてよりも伸びてくることー 究極言えば、今後の社会は「定年レスの社会」に限りなく近づいていくのではないか、という予感がします。
「定年レス」という言葉が言い過ぎならば、定年の境界が「曖昧化」していくという意味で「定年曖昧化社会」といってもいいです。
(誤解を避けるために申し上げますが、そのような状況を、僕は手放しでよいと思っているわけではありません・・・あしからず。しかし、嫌が応でも、程度の差こそはあれ、そのような状況が生まれうるだろうなという予感はします。ですので、個人はそうした状況に備えておかなくてはならないということですね)

 このあたりは、僕の専門は、社会福祉や医学ではありませんので、全く根拠はありません。仕事柄、様々な企業を回らせて頂いておりますと、何となくそう思ってしまうのです。

 ワンワードでいえば「定年きっぱり・管理職はアガリの世界」から、「定年レス・管理職はひとときの役割」への移行が、何となく進んでいるような気がするのです。

 「加齢」はすべての人々が平等に負わなくてはならない「リソース減少」です。若く勢いあるときには、マネジメントやリーダーシップを発揮していた人も、長い仕事人生では、加齢に抗しきれず、その威力を次第に失って行かざるをえない局面が出てくるかもしれません。
 もしそうなれば、管理職から実務担当者まで、可能な限り、多様な仕事を経験し、生きて行かざるを得ない社会が生まれうるのだと思います。くどいようですが、それがハッピーか、アンハッピーかはわかりません。しかし、少なくとも言えるのは、組織も個人も、そうした事態の出現に、様々なかたちで「備え」を持たなくてはならない、ということです。

 でも、もし仮にそういう社会になれば、いったん管理職になったことが「あがり」ではなくなるし、成果を残せなくなればプレーヤーに戻るという状態が常態化します。
 あるいは、仕事やタスクによっては、管理職というよりも、プレーヤーとして仕事をするような状態が、これまでよりは生まれうるような気がしています。現代社会の問題・課題とは、まことに複雑怪奇です。こうした複雑な問題に、そのつど対処していくときには、ある問題に精通した人がリーダーシップやマネジメントを発揮し、そうでないときにはフォロワーに徹するという働き方の方が、よいのかもしれません。
(ここだけ聞くと、なんだ最初から現場にもう一度戻るなら、管理職になんてならなきゃいいんじゃないかと思うかもしれませんが、おそらく、僕の予感は違います。加齢したあとに現場で必要になるプレーヤーとは、かつて培った管理経験・リーダシップ経験・専門性を活かしながら、今は目標をもって現場で仕事をする人ではないかと思います)

 ま、このあたりは研究を仕込み始めたばかりなので、根拠レスなのですが(笑)。

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 今日は、研究立ち上げ期に特有の「言いたい放題」「新春大放談(もう秋ですが)」をかましました。つっこみどころ満載の記事になってしまい、恐縮です。

 でも、このように、曖昧模糊・不確実性あふれる現実から、大学院生と議論して、「何を問題とするか」を決めていく「研究立ち上げ期」というのは、本当に愉しいものです。そういう時間が長く続けばいいのにな、と時に思います。

 最後に、この研究をしていると、思わず、自分の未来に思いを馳せてしまいます。
 未来がどうなるかは僕にはわからないのですが、自分の仕事人生を考えたとき、

「中原さんは、もういい年だけど、何か、いつも愉しそうだよね」

 と言われる風に年を重ねたいな、と思ったりもします。

 そして人生は続く