他人と向き合えない社会

 私たちの近くに「他人と向き合えない社会」が広がっているな、と最近とみに思います。他人と「向き合い」話をする。ひとつの物事に、他人と「向き合う」。他人と向き合い、思い切り遊ぶ。
 何かせわしなく、何か気もそぞろで、知らぬうちにマルチタスクを決め込み、パラレルなことをよし、とする。
 自戒をこめて申し上げますが、「向き合えてないな」「向き合っていないな」と思うことが、よくあります。

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 「他人と向き合うことの不全」は、もはや「絶望」に近い状況です。

 他人と「向き合っている」はずなのに、目は「手元の携帯」を見ている。子ども達同士で「向き合って」、遊んでいるはずなのに、意識はスクリーンの奥底に蠢くプレーヤーにある。お互いに「向き合い」歓談をしているはずなのに、時折、ブルブルと震える携帯電話には、仮想環境上でフローする、もうひとつの「会話」がある。

 物理的には「向き合って」いても「向き合って」はいない。これが両者の不全ーすなわち、物理的にも向き合っておらず、意識としても向き合っていないーのであれば、何ら非合理はありません。しかし、広がりつつある事態はそうではありません。
 問題は、物理的には向き合っているのにもかかわらず、「他人と向き合うこと」ができないことにあります。それを感じたとき、「底知れぬ孤独」を感じるのは、僕だけではあいますまい。人が想像する以上に、他人は「あなたが向き合っているのか、否か」を見ているものなのです。

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 今日は自戒をこめて「向き合うこと」について書きました。
 人間同士がどっぷりと「向き合えば」、予想もしえない興味深いことが起こる一方、当然、それなりに面倒なことも起こりえます。しかし、「向き合っている」のにもかかわらず、向き合えない状況を、やはり個人的には避けたいと思います。

 あなたが他人と「向き合おうとしないこと」は
 他人があなたの方にも「向き合おうとしない」状況を
 自らつくりだすこと、でもあります

 そして人生は続く