「基調講演」ならぬ「基調ワークショップ」?
今日は久しぶりの「出張」です。高知大学と愛媛大学に、それぞれ某学会の基調講演、パネラーとして旅立ち?ます。カミサンには、多大なるご負荷をおかけ申し候(すみません)。なぜ突然「ソウロウ」なのかは知りませんが、今、そんな気分です。
(現在子育て中につき、極力、出張を減らしています。)
▼
ところで、基調「講演」というのは、しょっぱなから大嘘をぶっこいたかもしれません。
小生「講演」は苦手ですので、関係者の方々に我が儘を申し上げ、今回は「基調ワークショップ」ということにさせていただきました(笑)。本当にありがとうございます。
「基調ワークショップ」というと、なんか「変なネーミング」ですね。でも、基調講演はこれまでにも経験がありますが、基調ワークショップ?はやったことがないので、緊張しております。どうなるか楽しみです。
▼
基調ワークショップ?、パネラーの内容は、両者ともに小生の専門、経営学習研究(Management Learning)についてです。短い時間ではありますが、最新の研究知見をまじえつつ、ご紹介させていただこうと思います。
特に、後者の看護管理学会の方は、小生は看護は全くのドシロウトなので、研究室・D1の保田さんに御協力をいただきました。保田さん、ありがとうございます。
ところで、講演では、ひとつスライドを提示させていただき、皆さんで一瞬、このスライドの意味をかんがえる的な、ジャブ的?エクササイズを用意しています。
(こちらのスライドは、アシスタントの阿部さんに無理を申し上げつくっていただきました。アシスタントの阿部さんがいなければ、中原のただでさえ低い生産性は10分の1になってしまうほど、阿部さんは、すごい存在です。いつもありがとう!)
そのスライドと申しますものがこちらなのですが、このグラフは何を指し示しているかおわかりになりますでしょうか。
このグラフは、学術データベース(EBSCO)で、「ある概念」の論文登場回数を年ごとに集計したものです。一見しておわかりのとおり、1980年代から、この「概念」の論文登場回数は、増加の一途をたどっています。いわば、バブルだね、バブル。
ちなみに、ヒント!
この概念は、1900年代にある哲学者の論考によってスポットライトをあびることになりました。1987年に、ある著名な本が出版され、さらに広まることになりました。1990年代には、多くの学術書に引用され、2000年代に爆発的に広がったものです。
答えは、また今度!(なんじゃ、それ)ということで、ここでは申し上げませんが、基調ワークショップ?やパネルでは、この概念について、掘り下げていきたいと思っています。
そして人生は続く
投稿者 jun : 2014年8月29日 05:41
悩める親のための読書感想文にわか指導法:長い文章を書くとはどういうことか!?:クララが立ち上がりましたが、味噌汁は僕も好きです!?
昨夜は、愚息・TAKUZOが、「夏の風物詩」ともいうべき、読書感想文の宿題に取り組んでいました。
読書感想文については、僕自身、ルサンチマン(怨念感情?)があり、これまでにも、何度かこのブログで論じて参りました。僕は、子どもの頃、読書感想文が死ぬほど苦手だったのです。
読書感想文とは、いったい「何」で、どのように書いたらよいのか?
http://www.nakahara-lab.net/2012/11/post_1894.html
嗚呼・・・それにしても、やっぱり「カエルの子はカエル」。古の人々は、間違ったことは諺に残さないものです。
TAKUZOの感想文の執筆を傍目で見ていて、その文章にクラクラと目眩がしてきました。
愚息の恥をさらすようで何なのですが、やや戯画的に、その状況を描き出すと、彼はこんな文章を書いているのです。
クララは、車いすから立ちあがったことに僕は感動しました。
あと、クララは、味噌汁が好きでした。僕も好きです。
・
・
・
トホホ。。。
要するに「複数の文をつなげで、ものを書くということが、全くわかっていない」のです。文と文がつながっていないがな。要するに、何のつながりもない文章が羅列されているだけです。
▼
このままでは埒があかないので、「にわか文章指導」をすることにします。「読書感想文」は、このさい、一切忘れてよろしい。それ以前のレベルから、即席、にわか指導です。やむなく・・・。
考えるべきは、そもそも「文をつなげて書くとは何か?」
・
・
・
あまりよい喩えでもないのですが、敢えて断言するなら、それは
「糊しろをつくりながら、折り紙を貼り合わせていく作業」
に似ています。
この場合、まず、文章とは「いろんな色の折り紙」である。
今、君は、たくさんある折り紙の中から、「似ている色同志」を貼り合わせていきたい。つまりは「文章の前後には、必ず、似ている文章がくる=似ている色同志の折り紙」。
そして、それをつなげるときには、必ず「糊しろ」がいる。一般的に、前後の文章の中には「共通するワンワード=糊しろ」が入る場合が多い。それが「糊しろ」である。
だから、先ほどの文章、
【文1】
クララは、車いすから立ちあがったことに僕は感動しました。
【文2】
あと、クララは、味噌汁が好きでした。僕も好きです。
は【文1】と【文2】のあいだがぶっ飛びすぎている。【文1】のあと【文2】には、【文1】の中にあるワードを説明したり、つけたしたりするワードがこないと、文章同士が、なかなかつながらない。
たとえば、
【文1】
クララは、車いすから立ちあがったことに僕は感動しました。
【文2】
長い間、車いすで生活していたクララが、「思い切って立ち上がること」が、どんなに勇気のいることか、と感じたのです。
とかなら、ありえるでしょう。
この場合「車いす」とか「立ち上がる」というワードが、文1と文2に共通する「糊しろ」になります。
僕がTAKUZOにした説明は、こんな感じでした。あんまりうまい説明ではないとは思いますが、とりあえず、少しは理解してもらえた気がします。もっとよい喩えがあったら、ぜひ教えていただきたいのですが、とりあえずは、これで逃げ切りました。
そのレベルかよ、という感じですが、お恥ずかしながら、「そのレベル」なんです。そして、僕自身も小学生の頃はそうでした。
悲しむべきは、字数はいまだ300文字。
制限文字数の800文字には、まだ500文字にもあるのですが・・・。
でもね、どんなに文章が長くっても、要するに、この繰り返しなのです。のりしろをつくって貼り付ける。似た文章を、いわば折り紙のように貼り付けていく。文壇のようなところで活躍するすごい文章なら別でしょうけど、少なくとも、僕らがふだん目にする文章というものは、この繰り返しだと思います。
▼
以前もFacebookでボヤきましたが、最近、僕は
「いったい、人は、書くことをどのように学んでいるのか」
ということに、とても興味をもっています。研究的関心というよりは、子育て的関心から(笑)。
先だっては、アメリカのワークブックを書店で見つけて読んでみました。文章の「ジャンル=書き方の作法」を、かなり早い学齢から教えているのが印象的でした。
(米国の教育を万歳称揚する、僕には全く気はありませんし、本当にそう思っていません。しかし、そこには今後の日本が学ぶべきところがあると思っています。僕の子どもの世代、次世代がさらによりよく学ぶことができるためには、貪欲によいものを取り入れる姿勢を持ちたいと思っています)
▼
僕自身は国語教育とか作文教育とかは全くのドシロウトで、かつ、その領域の研究をすることはありませんので「無責任」に「独断」と「偏見」で言い放ちますが、本日に限らず、愚息TAKUZOの作文の様子を見ていると、「ホンマにこれでえーんかいな」という思いがフツフツとわいてきます。
えーわけないわな(笑)
クララは、車いすから立ちあがったことに僕は感動しました。
あと、クララは、味噌汁が好きでした。僕も好きです。
じゃ(泣)。
要するに読書感想文とか、それ以前。
「文章をつくること」に関して、あまりに「学んでいない」のです(これは愚息が悪いと思います)。
だから「思ったことを、自由にのびのび書け」「感じたことを、自由にそのまま書け」といわれても、彼は書けません。
「自由に書く」ためには、「書き方」や「方法論」が必要です。しかし、そうしたツールや枠組みをTAKUZOは全く学んでいません。
これには批判もあることでしょう。いっけん「ツールや枠組みを渡すこと」は「自由にそのまま書くこと」を阻害すると考えられがちだからです。
しかし、僕はそうは思いません。
「自由にそのまま書くこと」は「ツールや枠組みを渡すこと」とトレードオフではないはずです。子どもの頃、僕もTAKUZOと同じ苦い経験をしました。だから、僕はそれを渡そうと思います。
▼
ひるがえって考えるに、ホワイトカラーの仕事とは「文章」とは切り離して考えることは難しい場合が多いものです。
最近、文章が書けない、文章表現が苦手な経験の浅い社員がいるとのお問い合わせも、よくいただくようになってきました。
少しこういう視点から、いずれ、経営学習論(大人の学び)のフィールド、すなわち自分の研究でも、何か面白いことができないかな、と考えています。
そして人生は続く
ーーー
追伸.
昨日は幕張メッセで開催された「日本看護学教育学会」で講演をさせていただきました。それにしても、すごい椅子の数でした。「看護師さんってすごい人数なんですね」と言ったら、「10人に1人は看護師なんですよ」と、ある先生がおっしゃっていました。10人に1人は「就業人口の10人に1人」なんでしょうか。詳細はよく知りませんが、それにしても、すごい人数です。講演は拙いものでしたが、お役に立てたとしたら幸いです。
投稿者 jun : 2014年8月28日 06:21
「思考の囚われ」と「まなざしの歪み」を認知せよ!? 大学で学ぶことで身につけられるものとは何か?
大学に入って学んだものは、たくさん!?あるのですが、僕が大学で学んだものの中で、もっとも印象に残っているのは、「知識」でもなければ「スキル」でもなく、ましてや「プロジェクト」でもありません。
それが何かと申しますと、ワンワードで申しますと「思考の癖」です。「癖」というと、何だかあまり「よい言葉」のように聞こえませんが(笑)、別の言葉を用いるのであれば「習慣」といってもよいのかもしれません。
今から20年前、何人かの先生方にご指導いただき、僕は、今になっても用いることのできる「思考の癖」のようなものを身につけたような気がします。
▼
僕が会得した「思考の癖」はいくつかありますが、その中でもっとも印象に残っているのが「メタ思考の癖」です。
「メタ」というのは「より上位の」ということですので、「メタ思考の癖」というのを、もう少し日本語!?になおすと、「俯瞰的な思考」といってもいいかもしれません。
たとえば、こういうことです。
今、仮に、Aという事象に対峙し、それを「問題」だと認識している人々がいるとします。この場合、この方々は「Aは問題だ!」と思っているのですから、通常であるならば、この方々が、次に向かうべきは「問題Aに関する問題解決」です。
経済的合理性が求められるシャバの世界では、「問題の認知」は「問題への解決」への入口です。
問題がすでにわかっているのにもかかわらず、問題の解決に向かわない人は「悪」です。
しかし、何と言ってもいいのですが、いわゆる「メタ思考」は、このようにして「ダイレクトに問題解決」には向かいません。いいえ、「問題解決」に向かう前に、一寸だけ、「メタにあがり、問題を俯瞰する」のです。
かわりに何を問うのかと申しますと、
「Aという事象を問題だと認識したのはなぜか? なぜ、わたしたちはAという事象に"問題"のレッテル貼り(ラヴェリング)を行ったのか?」
を問います。
もう少しいうと、
「Aという事象を問題だと認識した、わたしたちが囚われている視座とは何か?」
「Aという事象を問題解決しようとする、わたしたちの認識のうち、歪みがあるものはないか? 本当は覆い隠されているものは何か?」
を問います。このように「問題A」のさらに上部にいったん「上がり(メタ)」、問題Aを見つめる自己、そして視座自身を問うのが、いわゆる「メタ思考」です。
▼
この「メタ思考」を徹底的に、かつ繰り返し、何度も何度も教えて下さったのは、学生時代、大変お世話になったK先生やS先生です。
「ふーん、中原君はAを問題だと思ってるんだ? それでいいと思うけど、でも、解決に向かう前にひと言聞くけど、いい? そもそもなぜ、君はAを"問題"だとかんがえたの? Aを問題だと認識する自分の前提は何?」
とK先生は事ある毎に、あまり出来の良くない学生であった僕に問われました。
S先生は
「"そんなの常識だ!"という心の声を聞いたら、メタに上がれ! ある物事を"常識"だと考えている囚われを問え! メタに上がれ!」
と指導してくださいました。
おかげさまで、声にだしていうことはありませんが、事ある毎に、僕は、このように物事をとらえ、物事を考える癖がついたようにも思います。
それから20年・・・K先生やS先生の学恩に答えられている気はまったくしないのですが(泣)、彼らの言葉をときに思いだし、今日も大学に通っています。
▼
僕が大学で学んだ「メタ思考の癖」は、おそらく「就職ウケ」も悪いし、「ほにゃららプロジェクトにゼミで取り組みました!」のように成果も見えにくいし、ましてやソーシャルメディア上に写真やら動画もアップロードもできません。要するに「わかりにくい」。
それはともすれば、「時代の変化」に怯えたり、「社会からの要請」に脅威を感じる「大学人」に「カタルシス」を提供する言説として機能するのかもしれません。
しかし、僕自身は、大学や大学院で学ぶことの意味は、こうした「抽象に向かう思考の癖」「メタに向かう思考の癖」を身につけることだと信じていますし、これからも、今後も、そういう風に学生の皆さんと対峙していきたいと考えています。
たとえ、それが、わかりにくく、カタチや成果が見えにくいものであったとしても。
さぁ、メタに上がれ!
そして人生は続く
投稿者 jun : 2014年8月26日 06:52
阿鼻叫喚、不眠不休、四面楚歌の研究室合宿!? : 先行研究レビューのブートキャンプトレーニング!?
今年の中原研究室の大学院ゼミは、数年ぶりの「源流合宿」となりました。「源流合宿」とは、研究室メンバーが、ある特定の学問的概念をひとつ選んで、その概念に関する歴史的経緯、言説の布置、先行研究のレビューを行う合宿です。「概念」の「源流」をたどり、読み込み、まとめる合宿なので、誰が名づけたのか「源流合宿」と呼ばれ、恐れられています(笑)。
▼
例えば、今仮に、参加者のひとりが「リーダーシップ」を選んだとします。その場合には、
そもそも「リーダーシップ」という概念は何か? いつ、なぜ、どのように生まれたのか?
「リーダーシップ」の先行研究には、どのようなものがあるのか? 何がわかっていて、何が課題なのか?
などなどについて、個人は、ひたすら論文・書籍を読み込み、それを数十ページのレビュー論文にまとめなければなりません。
合宿では、みんなでレビュー論文を持ち寄り、検討しますので、研究室全体では数百ページの「レビュー論文集」ができることになります。本当に一冊の本になります。びっくりするくらいの厚さの(笑)。
▼
「源流合宿」は、想像に絶するほど、ウルトラハードな準備が求められます。だって、参加するにはレビュー論文を1本書くことになりますし、もっというと、博士論文の1章の1節を書く合宿になるからです。
この1週間、研究室所属の大学院生の皆さんのFacebookをチラチラと垣間見ておりますと、阿鼻叫喚、不眠不休、四面楚歌の様子がよくわかります。
机は荒れ果て、人によっては家族の協力を得て、何とか原稿をまとめている様子が見て取れます(号泣)。まことにお疲れさまです。研究室に籠もっている方もいらっしゃったようです。
しかし、ちなみに、「この合宿をやろう!」と申し上げたのは、わたくしめではございません(最近、古典を読んでないね、くらいは申し上げたような気もしますが・・・)。大学院生のみなさまの方から「数年ぶりに源流をやりたい!」ということになりました。その心意気に小生は涙いたしました(笑)。
しかし苦労した分だけ、必ず、力になるのが「源流合宿」です。もちろん、これだけで先行研究をレビューする力がつくわけではないですが、自分の力不足を知る上でも確実によい経験になります。
ちなみに、大学・大学院のゼミ合宿というと、観光地にみんなで遊びに行き、社会的縁を温める「遊び合宿」が多いのかもしれませんが、これ以上の「インテリジェントな遊び」「社会的絆を強くする契機はございません(笑)。
合宿準備では、ナチュラルハイになるのは必至です。心ゆくまで「知的に遊べます」できます。Have fun!
また、また、このハードシップを皆で乗り切れば、乗り切った人々の間には、確実に社会的縁が生まれます。要するに「イニシエーション」です。
▼
というわけで、今年の合宿も、楽しみです。
ちなみに、源流合宿は、中原研研究室のメンバーにご縁のある方で(研究室メンバーの紹介でお願いしております)、かつ、数十ページのレビュー論文をお書きになれる方なら(この作業を共有いただける方のみ)、来年度以降ご参加いただけますよ。今年も何名か有志が挑戦なさっているようです。
来年度、我こそはと思う方がいらっしゃったらぜひ!
そして人生は続く
投稿者 jun : 2014年8月25日 05:30
「教えること」の知識・スキル・ストーリーを学びたい、すべての方々へ!? : 東京大学MOOC講座「インタラクティブティーチング」の紹介ビデオ公開!
今秋開講の東京大学MOOC講座「インタラクティブティーチング」の1min.プロモーションビデオが完成しました(山辺さん、小原さん、吉野さんをはじめとして、MOOC_LETチームスタッフの皆さんお疲れさまです!)。どうぞ下記のFBページをご覧いただき、「いいね!」をお願いいたします!
東京大学MOOC講座「インタラクティブティーチング」FBページ
(こちらでは制作の裏舞台を公開しています。どうぞいいね!をお願いいたします)
https://www.facebook.com/interactiveteaching.jp
プロモーションビデオでおわかりいただけるように、「インタラクティブティーチング」は、
1. 教えることの知識を学ぶ・・・ナレッジセッション
(栗田佳代子さん担当)
2. 教えることのスキルを学ぶ・・・スキルセッション
(藤田将範・渡辺修也さん担当 音楽座ミュージカル)
3. 教えることにまつわるキャリアストーリーを知る・・・ストーリーセッション
(中原淳担当)
から構成されています。スキルセッションは、プロの演出家・俳優さんにご登壇いただき、「インタラクティブな学びの場をつくる」身体技法について学ぶセッションがあります。
一方、僕が担当する「ストーリーセッション」では、
入江直樹先生(東京大学・准教授)
上田信行先生(同志社女子大学・教授)、
苅谷剛彦先生(オックスフォード大学・教授)
へルマン・ゴチェフスキ先生(東京大学・准教授)、
斎藤兆史先生(東京大学・教授)
渋谷まさと先生(女子栄養大学・教授)、
高木晴夫先生(法政大学・教授)
平岡秀一先生(東京大学・教授)
本田由紀先生(東京大学・教授)、
三宅なほみ先生(東京大学・教授)
山内祐平先生(東京大学・准教授)、
山邉昭則先生(東京大学・特任講師)
吉見俊哉先生(東京大学・教授)
加藤雅則先生(株式会社アクション・デザイン 代表)
菊池省三先生(北九州市立公立小学校教諭)
など、第一線で仕事をなさっている研究者・実践者の方々にご登壇いただき、それぞれの方々が、これまでのキャリアにおいて「教えること」にどのように向き合ってこられたのか、また「教えること」にどのような工夫をなさってきたのかを語って頂きます。その話題は、大学教育を中心に、初等中等教育から企業教育に至るまで展開されます。
第一線の研究者・実践者の方々は、自らの研究・探究に加えて「教えること」にもしっかりと向き合われています。その生の語りをお楽しみいただけるかと思います。
本MOOC講座は11月配信開始、9月2日より受講者申し込みを開始致します。受講者申し込みのお知らせは、東京大学MOOC講座「インタラクティブティーチング」FBページなどで行わせて頂きますので、どうか同ページへの「いいね!」をお願いいたします。
こちらのページでは、昨日からはじまっている収録の様子も公開しております。
東京大学MOOC講座「インタラクティブティーチング」FBページ
https://www.facebook.com/interactiveteaching.jp
今秋、インタラクティブティーチングでお逢いしましょう!
投稿者 jun : 2014年8月21日 06:01
「子どもの筆箱」に広がる「日常」、鉛筆を削りながら考えていること!?
7歳の長男TAKUZOが小学校に入学してからというもの、僕が続けている「密かな!?習慣」に、「子どもの筆箱をあけて鉛筆を削る」というものがあります。
TAKUZOは、小生に似て、根っからの「靴下ポイポイ野郎」「シャツ出し人間」「引出し開けっ放し男」なので(!?)、鉛筆などを毎日削って整えておくような習慣など、期待できるわけもなく。最初のうちはしょうがなく、やっていたのですが、だんだんとこれが僕の習慣になりつつあります。
▼
しかし、「子どもの筆箱をあけて鉛筆を削ること」を毎夜毎夜続けていると、そこには「鉛筆を削ること」以上の意味もあるような気がしてきました。
印象論で恐縮なのですが、「子どもの筆箱」の中には、「子どもの生活の様子」が暗に表現されやすいように思います。
たとえば、筆箱の中が荒れていて、鉛筆の芯も変な折れ方をしている。そういうときには、なんか胸騒ぎを感じます。
ケシゴムにいたずら書きがされているときもありました。そんなときは、友達と何らかの出来事があったようです。
鉛筆の芯の減りからも、その日、どの程度勉強していたのか、またどの程度ノートをとっていたのかがすぐにわかります。
TAKUZOは、もう7歳なので、「かっこわるいので、親に言いたくないこと」「恥ずかしいので、親には知って欲しくないこと」もでてきているように思います。そして、誰に似たんでしょうか、まことに「言葉が足りない」(笑)。
まぁ、「子どもの筆箱」を見て、そこから感じたことを、いちいち、本人にフィードバックするといったようなことは「全くない」ですし、僕が、こんな思いで鉛筆を削っているのは、TAKUZOは知りません。
しかし、毎夜毎夜「子どもの筆箱」をあけて、何かの今日はどんな出来事があったのかな、今日は本人にとって、どんな日だったのかなと想像しています。
▼
TAKUZOの夏休みも、もうすぐ終わりです。学校がはじまれば、僕の鉛筆削りも、また続きます。
そして人生は続く
投稿者 jun : 2014年8月20日 06:18
あなたが一番クリエイティビティを発揮する空間はどこですか?: 創造とは習慣である!?
「あなたが一番クリエイティビティを発揮する空間はどこですか?」
と仮に問われたのだとしたら、皆さんでしたら、何とお答えになるでしょうか。
昨今は「オフィスをクリエィティブにしよう」とか「イノベーションを生み出せるオフィスをつくろう」とか、そういう動きが多々あるようです。
そうした「理想的な場所=ある特定の活動に特化した理想的な空間」を用意できるのであれば、それにこしたことはないのかもしれませんが、先ほど問い「あなたが一番クリエイティビティを発揮する空間はどこですか?」に対する僕の答えは、これです。
・
・
・
・
・
・
・
・
・
・
・
・
・
・
・
僕の場合は、
「ズバリ、通勤電車の中」(笑)
「通勤電車の中で座りながら、ノートPCをあけて仕事をするとき、一番集中して、ものを生み出している(笑)」。
このブログも含めて、僕の論文・著書の大部分は、実は、通勤電車の中で書かれています。研究室でもなく、自宅でもなく、「通勤電車の中」(笑)。ちなみに我が家に僕の「書斎」はありません。で狭小マンションですので・・・(泣)。でも、もし僕の自宅に書斎があったとしても、書斎で椅子にそっくりがえっていても、眠たくなるだけのような気もします・・・僕の場合は。
▼
「クリエィティビティを発揮する場所が通勤電車の中」というのは、あまり「夢がない」ような気もしますが、いいところもあります。
最大のポイントは、
「通勤電車で過ごす時間は、1日に2回、それは否が応でも、やってくる」
ということです。
ということは、リズムをつくりやすい、ということを意味します。
「電車=執筆空間」と決めてしまえば、創作がリズム化するのですね。必ず1日に2回は、執筆活動に向かわざるをえない。
これはわたくしめの持論ですけれども、
「創造とは習慣」
なのです。
少なくとも僕の場合、突然、急にいきなりアイデアが生まれてくることは、まずない。
いいアイデアが出せるかどうかは、「日常的にどれだけ問題と向き合っている」か。「問題と向き合うこと」が「習慣」となっているかどうかに依存しているような気がします。よく学生の方でこうおっしゃる方がいらっしゃいます。
「いいアイデアが浮かばないんです」
それは、多くの場合、「いつも考えてないから」です。多くの場合はセンスでもなければ、才能でもなんでもない。時間が大切であるということです。
というわけで、「電車=創造空間」と決めてしまえば、これが習慣化しやすいことになります。
この場合、問題になるのは「騒がしさ」くらいでしょうか。でも、時に例外はありますが、通勤電車というのは、あまりうるさいものではありません。
皆さん、苦虫をかみつぶして、狭い車内に耐えていらっしゃるので(笑)、それほどうるささも気になりません。
ちなみに、僕の場合は、創造に向かっている時間は、完全に「自分のノートPC」以外の感覚はすべて遮断されます。耳には何も聞こえてこないし、他に何も見えない。
いや、聞こえているんだろうし、見えているんだろうけど、全く意識の中には入ってきません。気がついたら、終点まで乗り越してしまい、周りに誰も人がいなかったということは、日常茶飯事です。
これも、もしかすると「習慣」の中で培われた感覚かもしれませんけれど。
▼
現代人はとかく忙しいものです。「まとまった時間を定期的に確保すること」はなかなか難しい。しかし、「定期的に確保されたまとまった時間」を口をあけて待っていても、おそらく、誰も、つくってはくれない。
しかし、周りを見渡してみれば、まだ活用できるところもないわけではないような気もします。一番身近な「通勤電車の中」というものを、うまく「習慣づくり」に利用できたとしたら、いろいろ活用できるところもあるのかもしれません。
というわけで、そろそろ論文執筆に向かいます。
そして人生は続く
投稿者 jun : 2014年8月19日 07:18
「雑談のうまい人」とは「ゆるいつながりクリエーター!?」:会話、この非論理的なもの!?
夏休みを終え、久しぶりのブログ投稿です。まだ僕に夏休みボケの感は否めませんが、シャバ復帰、最初のお話は、軽く「雑談」についてのお話からすすめましょう。
▼
聞くところによると、最近は(?)、「雑談ブーム」らしいですね。「雑談力」とか「雑談をできる能力」というのがもてはやされているのとか。まぁ、何でも語尾に「ちから(力)」をつければいいってもんじゃないと思うけど、そんな話を、日頃から仕事でご一緒している、某編集者の方から伺いました。
「雑談」について僕は1ミリも研究をしたことはないし、そんなデータももっていないのでので、「雑談とは何か?」「雑談をするためにはどうすればいいか?」を語る資格はあいにく持ち合わせていません。
しかし、仕事柄、よくヒアリング&テープ起こしというのをやりますので、そのデータを見ていると、興味深いことがわかります。
ヒアリングさせていただいた方の中には、おー、この人よく話が進むわな、という方、すなわち「雑談に長けている方」がいらっしゃって、そういう方の、文字おこしされたヒアリングデータを見ていると、「雑談がうまいとは何か?」を考えるヒントがすこし少しだけわかってきます。ほんのすこしだけど。
▼
まず大前提にしなければならないのは、
人間の会話とは「論理的」なようでいて、全く「非論理的」であることの方が多い
言葉を換えて申し上げるならば
人間の発話間には、あまり「つながりがない」
という事実です。
要するにですね、テープおこしされた発話データを見ていますと、人間の会話の「前の話」と「あとの話」はつながっているようでいて、「あまりつながっていないことの方が多い」ということなのです。
誤解を恐れずにいうならば、
人は「適当」に喋っている
要するに
「多くの会話は、言いたい放題!?」
なのでございます(笑)。人間の会話は「適当」だし、「言いたい放題」なんだけど、日常の生活においては、「ちょっとくらいの脱線」は、あまり問題にはなりません。会話とはそういう「いい加減な側面」を持ち合わせています。
しかし、そうはいっても、全くの「適当パンチ」「新春大放談」というのでは会話にならない。じゃあ、どうするか?
いわゆる雑談のうまい人というのは、まず「自分の中に話のレパートリーをたくさんもっている」。そのうえで、前におこった発話に「ゆるゆるでつながるような話」をさがし、接続詞や感嘆詞をうまく使いながら「ゆるいつながり」をつけていきます。
(前の話Aをうけて) へぇーそうなんだ。それってすごいよね。ところで、すごいっていうえばさ(全く別の話B)ってのがあってさ。
という感じです(笑)。
ここで重要なのは、AとBは、本人は「ところで、すごいっていえばさ」とつなげているようですが、実は、この話題間には「ほとんど関連がない」という事実です。
文字面をおえば、この「つながりのなさ」はすぐにわかるのですが、人が会話をしているときには、論理がこれくらい跳んでいても、あまり気にはなりません。
ヒアリングデータを見るにつけ考えるに、雑談のできる人っていうのは、まずAにつながるようなBやらCやら、様々な話題のレパートリーをもっている人。だから本を読むこと、他人の話に耳を傾けることは大切なのです。話題の束をもっていなければ、つながりをつけようにも、つながりがつけられません。
そういう場合、
「だりーよね」
「たるくない?」
結局、自分の身体や精神の状態を表現する発話のつながりにしかならないのです。
そして、その上で、自分のもっている話題に応じて、適切な接続、すなわち「順接」「逆接」などの関係をつけられる人、ということになります。要するに「雑談のうまい人というのは、ゆるいつながりクリエイター」なわけです。まぁ、こう書いてしまえばアタリマエなのですが。。。
▼
夏休み明けのブログは、のっけから、しょーもない話題になりました。これも「雑談」だと思って、真に受けないで、流してください(笑)
小生のブログ、
また、こんな感じで、続けていきたいと思います。
そして人生は続く
投稿者 jun : 2014年8月18日 06:16