仮説は「命題」か「見通し」か?

 僕のような研究領域ですと、必然的に研究者は「仕事の現場」と「研究の現場」を行き来しながら、仕事をすることになります。

 ヒアリングや調査などを通して、仕事の現場におられる方々に話を聴かせていただく一方で、研究室に籠もり、あーでもない、こーでもないと分析を繰り返す。
 最近は、アドミニストレーションの仕事が増えておりますが、まぁ、日々、そんな生活を過ごしています。

 ところで、仕事の現場の方々から、話を伺っていると、ときに、ハッとすることがあります。
 ある用語が、研究の現場で用いられる用語と、少し異なる意味において、利用されているとき、一瞬、翻訳に時間がかかるのです。

 たとえば、「仮説」という言葉もそのひとつです。

 研究の現場では「仮説」とは、いろいろな定義があるのでしょうけれど、「ある現象を説明しうる命題で、真偽の判定を行いうるもの」という意味において使われます。
 ワンワードでいえば、仮説とは「YesかNoか」のジャッジが行える命題です。

 しかし、一方、仕事の現場においては、「仮説」は、これまたいろいろな用法があるのでしょうけれど、もう少し緩やかにとらえられています。

 たとえば、「僕は、ほにゃららな仮説をもって、あの事業にあたっているのですよ」という言葉の場合、それが指し示している内容は「ビジョン」や「見通し」に近いものであったりすることがあります。
 もちろん、場所によっては、研究の現場と同じ用法で「仮説」という言葉を使っているところもあります。ただ、総じて見ると、「仮説」とは「方向性」「ビジョン」「見通し」に近いものとして用いられます。

 ちなみに、そうした用法が間違っている、と断じて言いたいわけではありません。
 そうではなく、言葉ひとつでも、それがどのような意味において利用されているかについて、常にアンテナを立てていなければ、その方の、その文化圏は理解できない、ということが言いたいのです。

 たかが「仮説」という言葉ひとつのことですが、「仕事の現場」と「研究の現場」を行き来しながら、研究をするとは、そういうことです。

 それは用語や用法の異なる、2つの世界を越境しながら、知の生産に関わる、ということであり、その際に求められるのは、「フィールドワーカー」的な態度です。

 でも、面白いものです。
「世界は1つ」なのに、この世には、様々な「島宇宙的・文化圏」が存在する。今日はどんな言葉の用法に出会えるか。またまた1日を過ごすのが楽しみです。

 そして人生は続く