抽象化と具象化のトレーニング!? : 大学にしかできないことは何か? 苅谷剛彦先生との対談をとおして

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 先だって、ある仕事で、オックスフォード大学の苅谷剛彦先生(社会学)とお話する機会を得ました。

 苅谷先生は、僕が学生時代に(勝手に!?)最も影響を受けた先生のお一人で、このたびは10年ぶりくらいにお話させていただく機会を得ました。貴重な時間をたまわり、心より感謝いたします。ありがとうございました。
(学生時代、僕は全然出来の良い学生ではありませんでしたが、僕の名前を憶えていてくださったのは、まことに嬉しいことでした)

 約20年前と全く変わらない、先生の「シャープな思考」と「パッションあふれる語り」を前に、改めて、自分が学部生であった頃の「初心」を思いだしました。

「しゃん」として襟を正さねばならぬな、と(勝手に!?)、日々の雑念を反省した次第です。ごめんなさい。。。

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 苅谷先生とのお話は、どれも非常に示唆に富むものでしたが、最も印象深かったのは、

「大学にしかできないことは何か?」

 というお話です。

 大学の入り口(高校から大学へのトランジション)と出口(大学から仕事へのトランジション)の境界が、グローバル化・情報化の影響を受けつつ、揺れ続ける中で、先生からいただいた問題提起には、とても考えさせられました。

「大学にしかできないことは何か?」

 苅谷先生によると、究極的に「大学にしかできないこと」とは、「抽象化と具象化の思考」を身につけることにあるといいます。
(ICレコーダーの音声をおこしたわけではないので、ご発言は一字一句そのとおりではありません。あしからずご了承下さい)

 ここで「抽象化」とは、ある「ドロドロの現実ワールド」や「経験則的世界」から、一般的で抽象的な「原理」「概念」を導くことをさしていると思われます。
 そして「具象化」とは、一般的で抽象的な「原理」や「原則」の世界から、「現実」や「経験」を照射することをいいます。

 苅谷先生によれば、「大学以前の他の教育機関」や「現実と経験の支配する仕事世界」では、「帰納」や「演繹」を循環する知的トレーニングを行っていくことは難しいとおっしゃっておりました。

 教育機関といっても、様々ありますので、一概にはいえないのですが、現象の世界から原理を導いたり(抽象化)、概念の世界から現象を考察し、行為する(具象化)ことの円環的な頭の働かせ方をなすことは、確かに、確かに大学が「得意とするところ」のひとつであると思います。

「それって教えられるのって大学だけなんだよね」とおっしゃっておられたことが、とても印象的でした。

(機能分化が進んでいる大学において、大学という一般名詞でその役割を一概に話すことはできないことを敢えて捨象した上で、今日は話を単純にしてお話をいたします)

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「抽象化」と「具象化」ということについては、個人的には、考えさせられることが多々あります。

 世の中・・・特に人材関係の言説空間には「経験こそがすべて」「現場こそがすべて」「経験もしてないくせに、何を語るんだ」「現場にいないくせに何がわかる」といったような「経験至上主義」的論調、「現場原理主義的言説」が蔓延っております。

 確かに「経験」も「現場」もパワフルなことには違いはないのですが、しかし一方、もし、人が「経験」と「現場」だけによってしか学んだり、考えたりしかできないのであれば、人はひたすら「現場をドロドロと這い回り、経験にまみれること」になります。そして時に「経験至上主義」は「経験した人にしか何かを語ることを許さぬ排他的世界」を構築します。

 そこで求められるのは「抽象化の知性」です。世の中で起こっている出来事を総括しつつ、一般的な概念や原理を生み出しうることが求められます。

 一方、「一般的な概念」や「原理」だけで物事が進むかとおっしゃいますと、それが行きすぎた場合には、それらは「机上の空論」に堕していきます。

 最悪の場合には、「概念としては言いたいこともわかる」し、「洗練」もされている。しかし、それを照射する「現実」がない、という奇妙な事態が生まれます。新しく生み出した概念(変数名)は、イニシエの概念(変数名)とは、確かにちょっと違う。でも、その違いは「現実」とは乖離している。そんな事態が生まれます。

 これは個人的にいつも思っていることですが「方法なき思想」や「実践なき概念」ほど空しいものはありません。そこでは原理・原則を現実に照射し、実践をつくりだしていくことが求められます。ここで駆動するのは、いわゆる「具象化の知性」でしょう。

 結局、高度に発達した知識社会を渡り歩いていくためには「抽象化」と「具象化」の「円環的思考と実践」を、個人が自ら回していけることが重要なのだと思います。
 そうした思考をトレーニングする場としての大学というのは、まさに「我が意を得たり」という感じでした。

 このことは考えてみると、それほど「奇をてらったこと」ではないのですが、ともすれば、忘れ去られがちな視点だな、と思いました。

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 やおら教員などを、10年以上続けておりますと、様々な人々を目にします。

 このあたりは自戒を込めて申し上げますが、「経験ドロドロ、現象ヌルヌルの世界」を「至上」のものとし、概念化が不得意な学生。
 一方、「概念」ばかりが先に立ち、「イキイキとした経験や現象」の世界に飛び込むこと(Jump in)を戸惑う人々。

 そうした「抽象と具象の片道切符」しか持たない状況を、円環のムーヴメントに導くことが、僕の仕事のひとつなのかな、と思いました。

 そして人生は続く

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 苅谷先生の授業で、僕が、もう「脳に刻み込まれるほどのレベル」で、20年たっても忘れられない授業の一コマがあります。
 それは、ピエール・ブルデューの「再生産」の中の「象徴的暴力」の概念を教える授業です。人文社会科学の研究において、このあまりにも有名な「再生産」の第一テーゼ、すなわち「教育の暴力性」を教えるために、苅谷先生は何をなさったか。

 それは、下記のあまりにも難解な「再生産」の第一テーゼを、英語で、しかも、自ら突然教室にあらわれ、自ら「苅谷剛彦教授」であると名乗ることなく、これを黒板に書き付けることでした。

「およそ象徴的暴力を行使する力、すなわちさまざまな意味を押しつけ、しかも自らの力の根底にある力関係をおおい隠すことで、それらの意味を正統であるとして押しつけるにいたる力は、そうした力関係のうえに、それ固有の力、すなわち固有に象徴的な力を付けくわえる。」
(ブルデュー・パスロン「再生産」)

 誰ともしらぬ人(単なるオッサンかもしれぬ)が、勝手に教壇にあらわれ、この難解なテーゼを、しかも英語で、黒板に書き付けたとき、100人以上いる東大の受講生のあいだに起こった現象とは何であったか? それこそが、「象徴的暴力」の概念の意味を考え得るきっかけなのです。
 そこにあわられた現象は・・・・何ら「根拠なきテーゼ」ーしかも意味のわからない難解なものーを、自らのノートに静かに書き留める、という東大生の集団的行為でした。

 そして、この一斉に発露した根拠なき集団的行為こそが、「象徴的行為」を考え得る最初のきっかけになったことなのです。苅谷先生は問いました。

 君らさ、僕のこと、誰だと思った?
 何も言ってないよね? 僕、教壇に立っていただけれども。
 僕、教師だとも、ひと言も言ってないよね?
 誰も、名乗っていないよね?

 でも、君ら、ノートに書いたよね?
 なぜ、君らは、誰かわからぬ人が、勝手に英語で板書した、意味のわからないテーゼを、自分のノートに書こうと思ったの?
 なんで? 
 そこにはどんな力が蠢いてた???

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 いやー、しびれるね、20年たっても、この授業は(笑)。
 僕が20年たっても忘れられない授業とは、こういう授業です。
 20年たっても忘れ得ぬ授業に、心より感謝いたします。