先行研究をたくさん読んでも、いいアイデアが浮かばないのはなぜか!?

 先だって、ある大学院生の方から、ご質問を受けました。曰く、

「先行研究をたくさん読んではいるのですが、研究のアイデアや仮説が思いつかないのです。どうしたらいいのでしょうか?」

 この方は、僕が折りにふれて、主に自分の指導大学院生に向けて書いている下記のような記事をお読み頂き、このようなご質問を寄せていただいたようです。ありがとうございます。

先行研究をまとめる5つのプロセス、陥りやすい3つの罠
http://www.nakahara-lab.net/blog/2011/10/post_1803.html

先行研究の探し方:レビュー論文には「過去への入口」と「軸」と「これからの課題」がある!?
http://www.nakahara-lab.net/blog/2013/10/post_2101.html

 思うに「研究のアイデアを思いつくこと」、要するに「ひらめき」は「神のみぞ知る的なところ」がありますので、どういう諸条件が存在すると「神が降臨するか」は僕にはわかりません。また分野の違いもあるので、一概には言えません。

 ただ、ほんの「ひと言」だけアドバイスをさせていただくとすると、

「先行研究をたくさん読むこと」は「誠によいこと」なのですが、「自分の頭」で「考えぬいて」いますか?

 ということになります。実は「先行研究をたくさん読むこと」には「落とし穴」があるのです。
 それは「先行研究をたくさん読むこと」が「自己目的化」していき、そうした作業に没頭するあまり「自分の頭で仮説を考えぬくこと」を、ついつい忘れてしまう、ということです。一生懸命やれば、やればやるほど、この「作業」が「知的なこと」に見えて、満足感を得てしまいがちなのです。おれ、勉強してんじゃん。

 先ほどの問いかけを、逆にすると、こうなります。

「先行研究をたくさん読むこと」に集中してしまい、そういうものを整理するような「作業」に気をとられていませんか?

 これは本当に、よくある誤解なのですが、「先行研究をたくさん読むこと」は「よいアイデアを思いつくこと」とイコールではないのです。むしろ、それは「よいアイデアを思いつくこと」の「土台」、その「前提条件」に近いのですね。要するに「たくさん読んであたりまえ」。それ以上でも、以下でもありません。

 思うに「先行研究をたくさん読むこと」は、「魚群探知機」に似ています。
 小生、最近、ルアー釣りにこっておりますので、こんなメタファになって恐縮ですが、実際、似ているように思うのだからしょうがありません(笑)。

 要するに、「先行研究をたくさん読むこと」は、

「あっ、ここらあたりに研究者が誰も手をつけてない"穴"がありそうだぞ。しめしめ、ここには魚が一杯泳いでいるではないか?」

 という「なんか、魚釣れそうじゃん、という海域をおおざっぱに探すこと」に似ているのです。やたらめったら、あたりかまわず、棹をたらすよりも、そうした場所を見つけた方が効率的でもあります。
 しかし、「広大な海域」をおおざっぱに探しあてたとしても、それだけでは、魚は釣れません。それは「ここらへんに、魚おりそうだっぺ」と知っただけの話です。
 魚を釣るためには、実際に棹をなげて、ルアーを海に投げ、試行錯誤しなくてならないのです。魚を釣るのは魚群探知機ではありません。研究者本人なのです。
 要するに、自分の頭で考え抜く。考え抜いたうえで「オレはこれがやってみたい!」と思い切って、ルアーを投げなければならない。でもね、簡単にいうけれど、これは辛いんです。だってね、寒いんだよ、冬の海は。手が凍えるんだよ。しかも、釣れるかどうかなんてわからない。そういう厳しさがあります。でも、それが「ひらめき」のきっかけになるんじゃないだろうかと僕は思います。

 ちなみに、希代の文化人類学者 梅棹忠夫は、今日のブログに関連する、こんな名言を残しています。

どこかで誰かが書いていたんだけど、「梅棹忠夫の言っていることは、単なる思いつきに過ぎない」って。それは、わたしに言わせたら、「思いつきこそ独創や。思いつきがないものは、要するに本の引用。ひとのまねということやないか//学問とは、ひとの本を読んで引用することだと思っている人が多い。(梅棹忠夫)

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 今日は「先行研究をたくさん読むこと」の落とし穴について書きました。誤解を避けるために申し上げますが「先行研究をたくさん読むこと」は、研究者にとって言うまでもなく必要なことです。
 しかし、それに没頭するあまりに、「自分で考えぬくこと」を放棄してしまっていたら、それは残念なことです。なかなかさじ加減が難しいですね、このあたり。

 誤解を恐れずに述べるのならば、

 研究は「先行研究」から生まれない
 自分で「考え抜くこと」から生まれる

 ということになるのでしょうか。
 結論だけ見れば、どうしようもないくらい、アタリマエだのクラッカー的ですね(笑)。

 そして人生は続く