知識をがんがん、課題できゅうきゅう、参加者をひーひー言わせた研修は「モト」がとれるのか?

 仕事柄、研修(企業研修・教員研修・看護研修・管理職研修・新人研修など様々です)などを参与観察させていただくこともあるのですが、そんなことをおりますと、時折、関係者の、こんな言葉に出会います。

研修で、せっかく時間をとったのだから、「がんがん」、知識を詰め込むだけ、詰め込んで、「きゅうきゅう」に絞って、参加者を「ひーひー」、言わせた方がいいのではないですか?

 なるほど、このクソ忙しい中、業務を抜けさせて、時間をつくらせたのですから、時間を無駄にしてはもったいない。おっしゃる意味はよくわかります
 。せっかく時間をとったのだから、知識やスキルを「詰め込む」だけ詰め込み、参加者を課題責めにして、きゅうきゅう絞って、「ひーひー」、言わせる(書いてて、ものすごく、どSかつどMなシーンを不謹慎にも想像してしまいました)。そうすれば、かけた時間の「もと」がとれる、ということでしょうか。

 興味深いことに、こうした言葉は、関係者どころか、時折、参加者の方からも聞こえてくるときがあります。
 特に、強制的に呼ばれて受けさせられる悉皆の研修などで、参加者のあいだに、かなり「やらされ感」が漂っているときなどに、「がんがん、きゅうきゅう、ひーひー」メタファの言葉が、半ば怒りをもって、事務局側にぶつけられる場面を、これまで、何回かみてきました。

 皆さん「どM」なのかな、それともヤケクソなのかな、それとも「もとをとりたい」んでしょうか(笑)。
 いずれにしても、この「がんがん、きゅうきゅう」には、関係者が語るにしても、参加者が語るにしても、どこか「受験勉強」を彷彿とさせるものがあります。

 学ばせるとは「がんがん、きゅうきゅう、ひーひー」言わせることなのでしょうか?
 学ぶとは「がんがん、きゅうきゅう、ひーひー」言うことなのでしょうか?

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 さて、この場合、「関係者が(がんがん、きゅうきゅう、ひーひー)をやりたい」といい、「参加者もそうしてくれ」と望んでいるのならば、僕が何も横から申し上げることはありません。どうぞ、朝っぱらから「どS、どMの饗宴」を展開していただければと思います
「がんがん、きゅうきゅう、ひーひー」でも、その反対の「まったり、ゆるふわ、ダバダー」でも、どちらでもいいです。僕が学ぶわけでも、学ばせるわけでもないので(笑)

 ただし、これが研修であるのならば、最大のポイントは、

「学んだ内容が現場で実践され、成果を出せるかどうか? 変化が生まれるかどうか?」

 です。

 もう少し踏み込んで言うならば、学んだ内容を現場で実践するのは、関係者でも、ファシリテータでもありません。学習者です。

 そうであるならば、大切なことは、

「最後の最後には、現場のフロントラインに立つ人が、エンパワーメントされ、自分で何かを現場で立ち上がって、やろうと思うかどうか」

 です。

 究極、問われていることは「実践の実現性」「成果のだせる可能性」「変革の可能性」であり「現場の人がエンパワーメントされるかどうか」です。

 それが「がんがん、きゅうきゅう、ひーひー」であるか「まったり、ゆるふわ、ダバダー」のどちらによって実現されるのでしょうか。
 「がんがん、きゅうきゅう、ひーひー」にしても「まったり、ゆるふわ、ダバダー」は、あくまでそこに至る「プロセス」ですね。プロセスがどうでもいい、という気は全くないのですが、しかし、やはりそ「プロセス」を語る際には、「アウトプット」とからめて語られる必要があります。

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 今日は、研修にまつわるイメージと、プロセスとアウトプットの関係のお話をしました。アウトプットにからめてプロセスを語るとき、僕が講師にたつのなら「がんがん、きゅうきゅう、ひーひー」はしたくないし、もちろん「まったり、ゆるふわ、ダバダー」もいたしません。おそらく、どちらも「実践の実現性」「成果のだせる可能性」「変革の可能性」につながらないと思うし、おそらくは「現場の人がエンパワーメントすることができない」と考えるからです。

 じゃあ、どうするの?

 ということですね。
 僕には「第三の道がある」とは思いますが、その詳細は、現在、ひーこらひーこら執筆している書籍に書くことにします。
 ぜひ、皆さんもお考え頂ければ幸いです。

 あなたの研修は、「がんがん、きゅうきゅう、ひーひー」ですか?
 それとも、「まったり、ゆるふわ、ダバダー」ですか?
 それとも「第三の道」を歩みますか?

(今日のブログの記事は、そのまま執筆につながりますね。執筆というのはまことに辛い作業です。こうでもして、モティベーションをあげなければ、なかなか走りきることはできません)

 そして人生は続く