物語ること、学ぶこと、生きること : NPOカタリバの「人が動き、人が出会い、人が語る」事業

 全く個人的なことですが、「NPOカタリバ」という団体の理事をおおせつかっています。

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カタリバ
http://katariba.or.jp/

 NPOカタリバは、2001年より、子ども・若者への教育活動を行ってきたNPO法人であり、高校生へのキャリア学習プログラム「カタリ場」と、被災地の放課後学校「コラボ・スクール」の2つの活動を首都圏をはじめ全国で展開しています。最近では、その活動が認められ「認定特定非営利活動法人」として活動を展開しています。
 前者の事業では、高校生と大学生を対話させること、そして後者では、被災地の子どもたちにカタリバスタッフが向き合うことで学習支援を可能にしています。

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 僕の場合は、理事といっても、たまに理事会に参加したり、具体的案件をカタリバの方と議論したり、おもに学術関連のことをアドバイスするだけで、あまりお役にたっている気がしません。まことに心苦しい限りですが、そのようなかかわりです。
 ですので、これまで拙ブログでは、あまり、カタリバそのものついて、触れないできました。ソーシャルメディアなどでその活動の応援をすることはあっても、敢えて、このブログでは取り上げることはしませんでした。僕自身が「カタリバを語ること」は、何だか恐れ多い気がしていたのです。

 しかし、昨日、理事会に出席し、改めて、カタリバがもつ強みを考えさせられました。そして、それについて書いてみたくなりました。

 その強みのひとつは、今村さん、岡本さんらの執行部のリーダーシップのもと、カタリバのもつ「あらゆる活動の根幹」に「語ることによる学習」をあわせもっていることだと思います。僕が勝手に思っていることなので、様々な異論はあるでしょうけれど、とりあえず、拙ブログでは、この前提で以下を書き記します。


 語ることによる学習 - 大学生は、高校生に向き合い、自分の決断や進路、そして将来を語ります。そして、居場所をいったん失った子ども達にスタッフは向き合い、真剣に語り合います。
 もともと、「語ることによる学習」は、NPOカタリバに「カタリバ事業」しか存在しなかったことときから、その「根幹」にあったものでした。そのルーツを守りゆくことが、いかに貴重で、いかに難しいかを感じさせられました。

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 社会科学研究において、「物語ること」が語られるようになったのは、それほど長い歴史があるわけではありません。
 わたしはそれが「ど専門」というわけではないですが、1980年代あたりから、人間の根源的な活動として「物語ること」が取り上げられ、1990年代には学習研究、最近では組織研究をはじめとする、あらゆる社会科学研究に、その勢いは「飛び火」していると感じています。「Narrative Turn」という言葉が、誰もが知る言葉となったのは、この20年くらいのことでしょうか。

 その研究者のひとりである、Riessman(2008)は、近著において「物語ること」の7つの効用として、1)過去によるさかのぼることによって語り手がアイデンティティを形成できる、2)語り手が第三者の納得を引き出したり、議論するため、3)ストーリーの信憑性により第三者を説得するため、4)語り手の経験に第三者を誘うため、5)語り手が第三者を愉しませるため、6)時には第三者を欺くため、7)変革をめざして、他者を動かすため、であるとしています。

 これら7つは相互依存的であり、7つに分けられていること自体にあまり意味があるとは思えませんが、物語ることの可能性の豊かさを考える上で示唆的です。

 上記を眺めてみますと、「物語ること」とは、個で完結しない、極めて社会的行動であることが、まずはわかります。それは、「語り手」と「聞き手」に、程度の差こそはあれ、「変化をもたらす活動」であることがわかります。
 そして、寺山修司が下記のような言葉を記すように、物語は「人間が、厳しい世の中や現実を生きること」と深く根源的に関連していることも忘れるわけにはいきません。

「昔のことって、よく見えるものよ。あたしの人生の登場人物たちも、みな、退場したあとは、やさしい匂いがあふれていたものよ」
(寺山修司)

 人は「過去の哀しみや苦しみ」を物語とすること、語り直すことで、アイデンティティを刷新し、物事や自己を変え、何とか生きていこうとするものなのかもしれません。物語とは、そのためのリソースのひとつとしても位置づけられます。

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 このように「物語ること」は、「生きること」、そして「変わること / 変えること」、しいては「学ぶこと」と深い連関を持ちうるものであると考えられますが、ここに問題が生じます。

 問題は、「物語る機会」とは、多忙な現代社会において失われつつあるもののひとつであり、かつ、その実現には、それなりの「コスト」がかかるということです。
 多忙になればなるほど、ハイコンタクトなものは、真っ先にコストが高いものとしてカットされます。高度情報社会は、リアルな人々の接点を、ヴァーチャルなものに回収していきました。

 考えてみれば、私たちは「物語る」ために他者を必要とします。これは先ほど述べましたように、物語るという行為自体が、社会的な行為であることにリンケージします。しかし、今の時代は「他者と相対すること」自体が貴重な時代です。
 その上、わたしたちが安心して「物語る」ためには、その他者とのあいだに信頼関係やラポールといったものが成立していなければなりません。そうでなければ、物語ることは「危うい自己表出」と転化し、自らの最もヴァルネラブルな生の部分を「剥き出す行為」になりうるからです。

 こうした「他者」を募り、人材育成を行い、子どもたちと相対させること。そして、限られた時間の中で「信頼」を培うこと。しかも、くどいようですが、これらを限られた時間と予算とマンパワーの中で集合的に実現すること。1万人を超える子どもたちに、今日も1000人をこえるキャストがかかわり、安定的な品質を提供しています。それは、最初は、業界の人が誰もが「無理」と結論づける事業でした。それに果敢に立ち向かい、挑戦した若者たちがいました。これが、カタリバの「ルーツ」のひとつである、と僕は感じます。

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 今からもう5年ほど前になるのでしょうか。多くの高校生に対して、大学生や一般人が自らの進路選択や職業について「物語る」場面を、外部から、僕が見学させて頂いたときに、まっさきに感服したのは、その点でした。
 カタリバのスタッフの方々、キャストの皆さんが、ハイコストで、貴重な「物語る行為」を、様々なツールやノウハウを駆使して、集合的に実現している場面が印象的でした。
 僕は、そのときの感想を、代表の今村さんにボイスメールでお贈りしました。カタリバであるのだから、僕も「語ること」でお答えするのがよいだろう、と思ったのです。今から考えれば、冷や汗ものですが、本当に興味深い活動だな、と思いました。

 もちろん、断っておきますが、僕は、カタリバの提供する「語りの場」が唯一万能なものだとは思いません。
 しかし、異質な他者、社会で多くの経験(その中には葛藤や哀しみも含まれるでしょう)を積んだ人々と、高校生が向き合い、自らの将来について、考える「最初のきっかけ」をもつという点において、それは、圧倒的に「あった方が望ましいもの」であると、僕は結論づけましたし、今もその思いは変わりません。
 カタリバは、今日も、そうした「物語ることの最初のきっかけ」を提供しています。

 コストをなるべく押さえ(それでも経営的には厳しいと言わざるをえません)、一般の高校にでも利用できるかたちにまで洗練した点、さらにはキャストとしてかかわる大学生や一般の方に対しても「学習」を提供しようとしている点は、非常に興味深いと感じました。
 僕個人としては、そのような思いから理事就任をご依頼いただいたとき、応援したい気持ちで、それにお答えしました。

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 カタリバは、今やのべ15000人の中高生に対して、のべ5000人くらいのキャストが中心になり「対話の場」を提供するまでに成長しています。
 しかし、美点を、学術の「洗練された言葉」と「慣れた口調」で「解釈」するのは「容易」ですが、その運営は、まことに厳しいもので、余談を許さぬものです。
 とにかく、カタリバの事業とは、「人が動き、人が出会い、人が語る」事業なのです。おいそれと、その部分をコストカットはできないのです。この事業を応援してくださる方を、カタリバはいつも求めています。

 何とかかんとか、カタリバが展開するあらゆる事業においても、カタリバがもともともつルーツを大切になさってくださると僕は思っています。
 僕自身は、あまりお役に立たない理事ですが、そんなことを思いながら、また応援したい気持ちを強くし、昨日は高円寺をあとにしました。

 みなさま、そして、企業のみなさま、
 どうか、NPOカタリバを応援お願いいたします。

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 おっと、朝っぱらから熱くなってしまいました。
 暑苦しくて、すみません。
 でも、そろそろお時間です。
 そろそろTAKUZOが起きてきます。
 それでは、おいとまさせていただきます。

 そして人生は続く。