若い人が多い職場はどこか!?:「職場の年齢構成」と「人にまつわる課題」の話

 仕事柄、さまざまな職場にお邪魔させていただきますが、その際にはいろんなことを観察します。

 何歳くらいの人が、どのように働いているのか。
 机はどのように配置されているのか。
 掲示物には何がはられているのか。

 観察ポイントは枚挙に暇がないのですが、その中でも最も気になることのひとに「職場で働く方々の年齢構成」があります。年齢構成は組織によって多様です。そして、この「多様さ」には、いつも驚かされます。
 アタリマエだのクラッカー?かもしれませんが、組織によって、若い人がバリバリ働く職場もあれば、シニアの人がぐいぐいひっぱる職場もある。
 そして、この「年齢構成」によって、さまざまな「人にまつわる課題」が出現してきます。

 年齢構成は、シニア型、ピラミッド型、ふたこぶ型、若手型の4つくらいに、おおよそ別れるのですが、皆さんの職場は、どのような年齢構成でしょうか。

  ▼

 統計データを調べる時間がないので、個人の印象論で述べますが(笑)、シニア型は、歴史の長い組織、重厚長大系の企業などに多いかたちのように思います。シニア型とは、組織メンバーが年配者でしめられている組織です。
 こういう組織では、人件費の高騰やら、役職経験者の処遇やら、加齢に応じたモティベーションやパフォーマンスの低下、フリーライドの増加、技術継承などの問題、若手の離職などの問題が生じている場合が多いですね。

 最もバランスのよい?ピラミッド型は、あまり目にすることはありません。ポストバブルの時期でも、安定的に雇用を行っていた組織が、このかたちになる可能性がありますが、一般には、これを裏返したかたちになることが少なくありません。
 ちょうど現在ミドルエイジにさしかかっている方々は、ポストバブルの雇用抑制時期に採用になった方々だと思われます。

 よって、多くの組織では、本来ピラミッドの頂点にあるはずの人が、最も少ない事態が出現します。それが「ふたこぶ」型です。
「ふたこぶ型」の組織では、若年層の育成の問題、ミドルの方々のマネジメント力不足、年配者から若年層への技術継承などが問題になることが多い印象があります。

 ミドルの方々が若かった頃には、人数が少なく、しかも人材育成施策も整っていなかった。
 少し上の世代の人数が多いので、リーダーシップをにぎる経験は、なかなか得られず、また自分より下の世代は、雇用抑制によって、なかなか入社してこなかったので、メンターをつとめた経験もない。
 よって、マネジメントの基礎になるような経験を積むことがなかなかできなかった方々が、マネジャーの年齢にさしかかっています。マネジャーの年齢になるということは、若年層を育成する責任も、当然、この世代にかかってきます。
 すなわち、ミドルの方々のマネジメント経験の不足と若年層の育成は、切り離して考えることはできません。それは、実は、連動した問題であると考えられません。

 このように年齢構成に応じて、さまざまな「人にまつわる課題」も多様に出現します。皆さんの組織ではいかがでしょうか。

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 最後に、若手型の組織として、最も印象深いのは、皆さん、どこだと思われますか? つまり、若い人がものすごく多い職場、ということです。

 これは県や地域特性などの影響を受けますので(県によって年齢構成が異なります)、一概には言えないのですが、僕が住む首都圏ということになりますと、印象深い職場が、3つあります。

 若い人が圧倒的に多い職場、その代表は、教員(初等教育)・看護師・ベンチャー企業です。

 たとえば、小学校などにお邪魔するとしますね。そうすると、学校によってですが、教員の3分の1 / 2分の1は、経験5年未満の先生でしめられている学校もあります。
 こうした職場では、経験ある教員が圧倒的に足りていないので、若年層の育成問題が前景化しています。昨今の学校の課題というのは、保護者対応に代表されるように組織としての対応を求められる場合が多くなっています。こうした問題で若年層が適切な処置を行っていくことは、なかなか難しい課題です。

 看護師さんも大量採用の印象がありますね。病院によって一概にはいえませんが、首都圏の比較的大規模な病院ということになりますと、お会いする方、どのかたも、看護師さんたちが若い。そういう印象があります。

 ベンチャー企業は、そのまんまですね。まだ組織がそれほど大きくはないので、多くの仕事は機能分化していません。30歳に至らなくても、役職者になっている方々と、そしてまだまだ若い20代の方々が、働いている、印象があります。

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 今日は年齢構成と人事課題について、僕の印象を述べました。人事課題の発現は、年齢構成だけによって決まるわけではないので、今日のお話は、あてはまる組織もあれば、そうでない組織もあると思います。また、雇用統計を見ながらお話をしていないので、あくまで印象論だということをご承知置き下さい。

 ただし、一方で、年齢構成というものは「将来、どうなるかを予測できる可能性の高い情報ソース」であることも、また事実です。だって、「誰しも、1年に1歳、年をとるのですから」。それに応じて、中長期の視点で策を練る、ということも、また必要なことなのかもしれません。

 今のままの人員構成でいった場合、近い将来、5年後、10年後に、どのようなことがおこるかは、ある程度は、予測できることなのかもしれません。

 えっ、あんたの所属している大学はどうなんだって?
 あのー、それは、予測可能だと思いますけれども
 ・・・ただし、ここでは決して言いますまい(笑)。

 そして人生は続く。

投稿者 jun : 2013年10月31日 08:25


【参加者募集中】「社会のモンダイを遊びに変えるゲームデザインの考え方」

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「社会のモンダイを遊びに変えるゲームデザインの考え方」
フォーラム参加者募集中!:MCW特別公開セッション
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 東大駒場キャンパスで開講中の「メディア創造ワークショップ」
(藤本徹・中原淳)の一環で、11月12日(火)に特別公開セッシ
ョンを開催します。どなたでもご参加歓迎ですので、このテーマに
ご関心のある方、どうぞご参加ください。

趣旨:
近年、社会問題の改善のためにゲームの力を活かそうとするシリア
スゲームやゲーミフィケーションの取り組みに関心が高まっていま
す。社会問題を題材にして優れたゲームを企画し、デザインしてい
くには、普段の考え方やモノの見方と異なる切り口で社会問題を捉
え直すことが求められます。本公開セッションでは、ゲーム作家の
山本貴光氏をお招きして、ゲームデザイナーの問題を捉える枠組み
やアイデアの組み立て方など、実例を交えながら解説し、議論して
理解を深めます。

本セッションは、東京大学駒場キャンパスで開講中の「メディア創
造ワークショップ」の特別公開セッションとして開催します。
学外の方の参加も歓迎いたしますのでどうぞお申し込みください。

講師: 山本貴光 氏(ゲーム作家)

講師プロフィール:
ゲーム作家、文筆家。慶應義塾大学環境情報学部卒業。1994年よ
りコーエーにてゲーム制作(企画/プログラム)に従事し、2004年
からフリーランスとして活動。著書に『心脳問題』、『問題がモン
ダイなのだ』、『ゲームの教科書』、『デバッグではじめるCプログ
ラミング』『コンピュータのひみつ』など。最新刊はサレン+ジマ
ーマン『ルールズ・オブ・プレイ』(訳書)。ゲームの代表作は
『That'sQT』『戦国無双』『三國志VII』他。

日時: 2013年11月12日(火)18時30分~20時15分
   (18時より開場)

会場: 東京大学駒場キャンパス21KOMCEEレクチャーホール
(地下1F)
http://www.komcee.c.u-tokyo.ac.jp/access

参加費: 無料
定員: 100名

下記の参加申込フォームよりお申し込みください。

http://bit.ly/mcw2013-sp

主催: 東京大学 大学総合教育研究センター
教育課程・方法開発部門

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投稿者 jun : 2013年10月30日 14:07


子どもの成長を「記録」し「物語」として紡ぐ:小西貴士さん「子どもは子どもを生きている」を読んだ!

 清里で「森のようちえん」の活動を続けながら、そこに来る子どもたち何気ない「日常」を、ファインダーにおさめ続けている写真家に小西貴士(こにしたかし)さんがいます。愚息TAKUZOも、これまで、何度か清里にはお世話になりました。

kodomo_kodomo.png

 最近、小西さんの最新刊が出たとのことで、先日、ご献本いただきました。昨日、早速、TAKUZOと興味深く拝見しました。本当にありがとうございました。

「また清里の森、行きたいねぇ・・・」

 とTAKUZOは話しておりました。

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「子どもは子どもを生きている」と題された写真集には、森の中で子どもたちと遊びながら、小西さんが見た「そのまんまの子どもの姿」が多数収録されています。

 子どもの写真は、その多くが熱情的で、ユーモラスで、思わず、「ふっ」とほほえみがもれてしまうようなものですが、中には、人間としての意地や怒りや哀しみが、あふれ出ているものもあります。

 ポジティブな方向においても、ネガティブな方向においても、いい意味で、「そのまんま」なのです。今回の作品においても、子どもたちの「そのまんまっぷり」が非常に印象的でした。
 
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 写真には、いつものように、小西さんが写真をとりながら見聞きした、その子のストーリーが添えられています。
 
 カエルを背負って持ち帰った子どものこと。傘から水がこぼれて、おしっこのようにジョボジョボとこぼれたこと。
 
 語られているのは、「ほんの一瞬の出来事」です。そして、それを小西さんは見逃しません。

 1年前、東京大学に小西さんをお招きし、公開研究会を実施したときにも思ったことですが、こういうひとつひとつの「ほんの一瞬の物語」に一方で耳を傾け、紡ぎながら、写真を撮り続けるというところが、小西さんの魅力か、と思っています。

実践記録研究会
http://www.nakahara-lab.net/blog/2012/07/post_1864.html

 保育とか、幼児教育とかは、僕の全く専門外なので、専門としてそれがどういう意味をもっているか、ということは、僕にはわかりません。

 ただし「一人の学習者の成長(変化)を物語として記録する」という観点から、そして、ひとりの子どもの成長を見続けてきた親のひとりとして、小西さんの活動を応援しています。
 多忙な現代社会において、一人の人間の成長・熟達を「物語」として紡ぐという視点ほど、失われているものはありません。それは成人を対象にした研究においても、同じことです。

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 先ほど小西さんにご献本の御礼かねて、お電話差し上げました。できれば年明けくらいに、また都内で研究会ができるといいね、とお話さしあげました。

 最近、我が「内なる力」が枯渇してきています。
 森に、また、出かけたくなりました。

 そして人生は続く。
 

投稿者 jun : 2013年10月30日 08:43


コメンテータとは「コメントする人」ではなく、「つなげる人」である:話者の受容ー自分の土俵ー聴衆への問いかけ!?

 仕事柄、よくコメンテータとか、ディスカッサントというのを依頼されることがあります。コメンテータとディスカッサントの違いは、よくわかりませんし(笑)、あまり興味もないのですが、要するに、僕に社会的に期待されていることは、

「他のどなたかの発表やプレゼンを聴いて、大勢の聴衆の方々の前で、何らかのコメントをすること」

 です。具体的には、100名くらいの聴衆の方々がいらっしゃって、どなたか第三者がプレゼンをなさって、それに僕がコメントをさせていただくような場面でしょうか。たまにそうした場にお招きいただくことがあります。
 
 今でこそ、あまり緊張せずにできるようになりましたが、若い頃は、これが滅法苦手で、いつも自分のコメントの番が回ってくる度に、シドロモドロになっていました。
 だって、何を言っていいか、わからなかったんです。
 依頼者の方に聴いてみても

「そこは、中原さんが、自由に思ったことをご発言ください」

 とか

「中原さん、まだ若いんだから、自由闊達にバーン、ドカーンといきなさいよ」

 くらいしかアドバイスはなく(泣)。

「突然、自由に発言してもいい」と言われると、「急に自由に話ができなくなる」んですよね(笑)。で、あさってのことをしゃべって、引かれちゃったりとかして。まぁ、今でもそういうことはありますが、昔は、もっと、僕もそんな感じでした。

 ところで、ちょっと前のことになりますが、まだ若い駆け出しの研究者の方が研究質にやってきて、

「コメンテータってどうやるんですか? 僕、先日、ある会からコメンテータを頼まれたんですけど、何を話していいか、わからなくって・・・」

 という質問をいただきました。「うーん、どうするんだろうね、まぁ、悩んでよ」と思いつつも、「でも、僕も、以前は、悩んだことがあったな」と思いつつ、「数多くの修羅場で血みどろになって、何とかかんとか、自分で、つかんだコツ」を共有させていただきました。それが、それが今日の記事です。ま、血みどろのコツとかいっても、たいしたことじゃないよ。

  ▼

 最初に言っておきますが、コメンテータといってもいろいろなタイプがありますし、専門分野や会の趣旨による違いがあるので、下記の話は、僕の領域に関連するお話だとお考えください。また、僕のやり方はあくまで経験談で、絶対の方法だというわけではないので、あしからず。イメージとしては、100名くらいの実務をなさる方の前で、どなたか第三者があるプレゼンを行い、それに僕がコメントしなければならないといったコンテキストで、お話をすすめます。

 ともかく、僕が、時には血を流しながら、経験則でつかんだコメンテータとしての振る舞い方は、こうです。端的に述べると、

 コメンテータとは「コメントをする人」ではない

 ということにつきます。

 むしろ、

 コメンテータとは「つながりをつくる人」

 なのです。

 もちょっと具体的にいうと、コメンテータとは「話者の話題ー自己の専門性ー聴衆への問いかけという3つを統括する人」といっても過言ではありません。今日は、この仮説に基づき、コメンテータの役割行動を細分化すると、下記のようになります。

1.話者受容モード
 まずは話者を受けいれて、彼 / 彼女の言葉の要旨を、自分の言葉で、その要旨を言い直す

2.自分の土俵モード
 1を踏まえて、話者の内容に最も関連の深い、自分の専門分野の中の知識等を述べる

3.聴衆問いかけモード
 1と2を総合したうえで生まれてきた、新たな可能性や新たなものの見方を、今度は、聴衆に問いかける

 もう少し詳しく見てみましょう。
 まず、1は話者の話した内容を、まずは、徹底的に受容するモードです。ただし受け入れるわけではコメンテータにならないので、話者の話した内容を、自分の言葉で簡潔に、かつ、忠実に言い直してみることをこころみてみます。具体的にセリフをつくりますと、こんな感じでしょうか。

「○○さんのお話は、僕の言葉でいいますと・・・・話であったと思います」
 
 次に2の「自分の土俵モード」に入ります。ここで大切なことは、1をきっかけにして、「自分の専門分野の中の関連知識を述べること」です。この段で最も留意すべきことは「自分の土俵に引き込むこと」であり、「自分の土俵以外で相撲をとらないこと」です。
 このモードでは、自分の専門性に徹底的にこだわり、自分の専門分野の専門知識、関連知識を素早く検索し、1に関連づけて話します。たとえば、こんな感じになるでしょうか。

「これに関連する話としては、僕の領域ですと・・・・・や・・・・・がありますね。かつては・・・・なことも試みられていました」

 最後3の「聴衆問いかけモード」です。3では、1と2を総合して、新たな議論の可能性や、新たなものの見方を聴衆に返します。具体的に言葉にしてみますと、こんな感じでしょうか。

「○○さんのお話と、僕の話を総合して考えますと、新たに・・・・なこともいえそうですね。また・・・・なことも考えられそうですね。皆さん・・・・・に関しては、いかが思われますか? 皆さんの日常は・・・なっていますか?」

 要するに言いたいことは、コメンテータに求められていることは、「話者からはじまり、自分の味付けを語り、みんなに返すこと」だということです。あくまで経験即ですが、これを為したときが、もっともしっくりくる感じがいたしました。
 個人的には、コメンテータとは、「話者ー自己ー聴衆のあいだにつながりをつくること」「つながりをつくることを通して、問いかけること」が求められている、のではないか、と感じています。

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 今日はコメンテータの作法を述べてみました。
 
 よくシンポジウムなどでは、「罵倒系」とか、「ちゃぶ台がえし系」とか、「自慢系」とか、いろんなコメンテータを目にしますが、願わくば、みんなが気持ちよくなり、かつ、元気になるコメントをしたいものです。

インプロ(即興劇)の言葉に「Give your partner good time!」という言葉がございますが、願わくば、話者にとっても、聴衆の方々にとっても、「Good time!」を提案したいものです。
 まだまだ、小生も、修行中の身ではありますが。

 そして人生は続く

投稿者 jun : 2013年10月29日 12:22


組織の中の「種火」を消さない!?:世代を超えてスキルを継承することの難しさ

 「研究室」を運営していて、特に気をつけていることは、「種火を消さないこと」です。
 「種火を消さない」とは、「研究室のメンバーである大学院生が所有している、中原研で研究をするならば必要になるスキルセットを、研究室メンバーが世代をこえて、継承していくこと」です。それは、代々、少しずつ変容をとげながら、研究室の大学院生のあいだで継承されています。

 具体的には、統計ソフトウェアの扱い方、文献の調べ方、まとめ方、論文の書き方、英語論文の読み方、ヒアリングの仕方、ロジスティクス、ファシリテーションの仕方などをさすでしょうか。あげていけば、枚挙に暇がありません。場合によっては「マインド」や「価値観」といったものも含まれる場合もあります。
 とにかく、そうした「ノウハウ=種火」が消えてしまわないように、気をつけているつもりです。

 僕としては、あるとき、蓋をあけてみたら、「研究室のメンバーが、誰ひとり、そういうものを共有していなかった」「あとにはペンペン草も生えていなかった」という風にならないように、特に気をつけているつもりです。
 が、言うのは簡単、やるのは大変。これが、なかなかうまくいかないこともあります。中には継承できているものもありますが、火が消えかかっているものもあります。

 なぜか?

 最大の理由は、研究室とは「出入りの早い仮想共同体」だからです(一般の職場もそうでしょうけど)。
 早い人では修士で2年(就職活動もあるので、正味1年ちょっとですね)。博士までいったとしても、プラス3年+αくらいしか、研究室には在籍しておりません。
 これは研究分野にもよるから一概には言えないのですが、出入りが早いので、「ある人が属人化して所持している知識を、他の人が発揮できるまで」必要な時間がなかなか確保できないのです。

 結局、ここまで「スキルセット」と私たちが仮に読んできたものは、これも「仮想の物体」です。「うんとこしょ、どっこいしょ、と他の人の「頭」を開頭手術、そこから、別の人に、あたかもモノのようにスキルを移すことができたらいい」のですが(かなりホラーですね・・・メタファ)、一般にそうしたノウハウは「目に見えず」、また「手で触ること」もできません。

 だから、時折、野生の勘で「このままいくとヤバイな」、と思ったときには、上の世代と下の世代の研究室メンバーが密接にコミュニケーションし、協業する時間を確保するようなプロジェクトを、かなり意図的に立ち上げます(一般に、人文社会科学系の研究室は、研究室といっても、多くの場合、研究単位は「個」です。大学院生が個人でひとりひとつ研究テーマをもっているイメージです)。

 研究プロジェクトを立ち上げ、その中でメンバーが相互作用しながら、アカデミックな達成をめざすとき、そこには必ず方法論(ノウハウ)が必要になります。そうやって、ある研究室のメンバーが所持しているノウハウを顕在化させ、共有させていくのです。
 僕の研究室では、目安2年に一度は、こうした機会をつくらなければ、「種火」は消えてしまいます。感覚的なもので恐縮ですが。

(研究室を出て行く大学院生の中には、「先生、これ、マニュアル化しときましょうか?」と言ってくれる方もいます。まことにありがたいことです。中原研にはいくつかのことがマニュアルや映像になっています)

 ▼

 今日のお話は、研究室のみならず、一般の職場・組織でもある程度は言えることなのかもしれません。経営学の理論的にいえば、「組織学習論」を地でいくような内容でした。

 とにかく「種火」を消すと大変厄介なことになります。マッチをこすって新聞紙をたいて、「火」をおこすところからはじめなければなりませんし、そういうときに限って、突風がふいて、マッチすら火がつかないことがよくあります。いずれにしても、種火を消すと、大変な時間がかかります。
 経験的なもので恐縮ですが「種火を維持することにかかるコスト」は、「種火をゼロからおこすのに必要なコスト」の3分の1でしょう。決して、前者とて、「軽く」ないのが、頭の痛いところですが。。。

 「種火」を残すべく、どんな薪をくべようか、思案しています。
 そして人生は続く。

投稿者 jun : 2013年10月28日 08:08


オーケストラの「リハ」を聴き、「リーダーシップ」を考える!?

 先だって、"オーケストラに聴くププロフェッショナルの学び"という、全く実験的な世界初!?のワークショップが開催されました。

 このワークショップは、坂口慶樹さんと山岸淳子さんが中心になって企画なさったもので、日本フィルハーモニー交響楽団の全面的な協力のもと、実現したものです。サポートには、いつものように、松浦李恵さんら学生スタッフが入って頂きました。坂口さんの安定的なファシリテーション、山岸さんの専門的解説は、非常に素晴らしいものでした。ご参加いただいたみなさま、そして坂口さん、山岸さん、松浦さんら学生のみなさまに、この場を借りて、心より御礼申し上げます。ありがとうございました。

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 "オーケストラに聴くプロフェッショナルの学び"は、巨匠指揮者アレクサンドル・ラザレフさんが行うリハーサル(バックステージ)を見学しつつ、さらには、本番のコンサートも見て、その二日間の変化を愉しもう、という、まことにラグジュアリーで、まことに実験的なワークショップです。

 ワークショップには、40名以上の方にご参加いただき、まずはリハーサル部分を体験しました。曲目は、マーラーの交響曲9番です。

 マーラーの交響曲9番といえば、マーラーの最高傑作にして、彼が死を予感して書いたものではないか、という逸話がたえない、何ともストーリーフルな曲です。

 最終楽章で繰り返される旋律は、何とももの悲しく、荘厳で、しかも終楽章の最終小節には、マーラー自身が「死に絶えるように」と楽譜に残していると言われています。

 先だっては、ラザレフさんの行うリハーサルを参加者の方々とともに鑑賞させて頂きました。このワークショップでは、「音楽をきっかけに、組織のことを考えること」が目的とされていましたが、僕が、リハーサルを見ていて、真っ先に感じたことは、

 指揮者を「理想的なリーダー」とすることは「妥当」なことか? 指揮者と楽団員のあいだの「リーダーシップ」を、一般的な会社に適用して考えることは「妥当」なことなのか?
 
 ということです。

 この背景には、よく巷間に流通するリーダー論、リーダーシップ論で、「指揮者」が「理想的なリーダー」として語られがちであることを示しています。

 オーケストラとは、いわずもがな「プロフェッショナル組織」です。オーケストラに入団する前も、入団テストのときも、そして入団後も、完璧な演奏をできるよう自らスキルを高めることが求められています。

 楽団員の方々は、世界的に著名な方もいて、そういうプロフェッショナルを指揮者は相手にしなくてはなりません。彼らは、常に指揮者の力量をチェックしています。常に駆動しているのは「力関係」です。この力関係のバランスが悪いと、指揮者<楽団員という構図がすぐに生まれてしまうそうです。
 ラザレフさんのリハは、時間ぴったりにはじまり、時間ぴったり、1秒たりとも遅れずに終わりました。どれだけ「関係」に気を遣っているかが、わかる印象的な光景でした。
 ちなみに、力関係がこれだけ微妙なのにもかかわらず、日本フィルさんの場合には、指揮者には、人事権はありません。

 このたびは、その様相を短い間でしたけれど、垣間見させていただいて、感じたことは、一般の企業・組織とは、すこし異なるリーダーシップのあり方でした。

 研究テーマ的にいえば、おそらく

「プロフェッショナル組織におけるリーダーシップのあり方」

 に関する研究になるのでしょう。先行研究もたくさんあるのでしょうが、まことに面白いテーマだな、と思いました。

 次回のワークショップは、日曜日です。
 コンサートを見て、皆さんで、対話を深める場をもつそうです。非常に愉しみにしております。

投稿者 jun : 2013年10月25日 07:00


博士論文とは「最後の教育機会」である!?

 ここ最近、指導している学生諸氏が、そろいもそろって、博士論文に挑戦しているせいでしょうか。最近、僕自身も、以前と比べて、博士論文について考える機会が多くなっているような気がします。

 夜、自分が帰ろうとしているとき、ふと、研究室を見ると、まだ灯りがともっており、大学院生が論文を書いています。論文を書いている学生が、揃いもそろって、並んで、真剣にコンピュータに向かっている。声をかけようかな、とも思うのですが、「邪魔しちゃ悪いな」と思い、そうしない日もあります。
 そんな日々が続くと、彼らが取り組んでいる博士論文って、どんな意味があるのかな、という思いにかられることがあります。

  ▼

「博士論文が何か?」とは、吐いて捨てるほど多種多様な既存の言説が存在しますし、その意味づけや位置づけも、研究分野ごとに違うんでしょう。だから、僕がこれから語ることは、「一般論」では、断じてありません。

 ただ、僕の分野に近く、また僕の半径1キロ?程度の範囲内で(僕がよく出会う先生方の認識ですね)、もっともよく頻繁に語られる言葉はこれです。この考え方には、僕もピンとくるところがあります。

 博士論文とは「最後の教育機会」である

  ▼
 
「博士論文とは"最後の教育機会"である」というセンテンスの含意とはいったい何でしょうか?
 それは、とどのつまり、博士論文を執筆するというプロセスが、「最高学府の、最終教育課程を修了することで獲得できる、最終学位であること」に起因します。

 ひと言でいえば、博士課程はすべての「最後」なのです。「最後の最後」、それ以上は何もないのです。具体的に言いますと、博士課程以上の教育課程は存在しませんし、博士号以上の学位もありません。
 特に「教育課程が存在しない」ということは、そこから先の世界には、「教員も、学生もない」ということです。「二人の独立した人間」が存在するだけ。論理的には、それだけです。博士論文執筆以降、大学院生は「自律したひとりの研究者」として生きていかなければならない、ということになります。

 かくして、「博士論文を書く」という行為には、「指導者として提供できる最後の教育機会」にふさわしい知的活動が埋め込まれています。それは、「過去と決別し、指導者と別離し独立した研究者として生きていくことを宣言すること」に似ています。見方によっては、「儀式的性格」を帯びている、といっても過言ではないでしょう。

 一般的に、博士論文の中には、下記の3つの活動が埋め込まれているのですね。
 
1.先行研究をレビューする
 博士論文では、先行研究をレビューして、自分の研究を位置づけなくてはなりません。それは、別の言葉でいえば、「学問の中の自分を知る」ということであり、学問の世界の中に「わたし」を意味づける行為です。まずは、これから生きていく「学問コミュニティ」、そして「学問コミュニティ」における「自分のあり方」を知らなくてはなりません。比喩的にいえば、それは「世界を知ること」であり、「世界の中にある自分を知ること」です。

2.過去の自分の論文をまとめ、ストーリーをつくる。
 通常、博士論文では、これまでの自分の研究をまとめ個々の章を執筆します。個々の章を書くためには、それまでの自分の過去の研究と向き合い、それらとのあいだに「意味的連関」をつくらなくてはなりません。これは「自分の過去と向き合う」という行為であり、その上で、自分なりの「オリジナリティ(強み)」のある、ストーリーをつくらなくてはなりません。これから知的冒険をひとりでなす若手は、「自分の過去と向き合い、自分の強みを知ること」が大切なのです。

3.将来の構想を書く
 博士論文の最後では、「個々のこれまでの研究」を総括したうえで、「学術コミュニティに対する学問的貢献」を記す必要があります。そのうえで、最後は、将来の課題や構想を書きます。これは「自分の名前を学術コミュニティに記し、これからを歩みつづけることを宣言すること」に似ています。

 以上をまとめますと、博士論文を書くということは、

 1.自分の学問コミュニティを意識する
 2.自分の過去(強み)を知る
 3.将来を構想し、歩み続ける宣言をする

 なのです。

 そして、こうした事柄を、これから「知的冒険」にでる若い研究者に「敢えて意識」させる「最後の教育機会」が「博士論文を書く」ということなのです。
 だって、それがそれ以降は、何もないのです。先ほど述べましたように、「二人の独立した人間がいるだけ」です。
 指導教員と大学院生は、博士論文執筆以降は、「ひとりの独立した研究者」として、相対します。
 いくら指導教員といえども、こうした基本的なことを、目の前の「ひとりの独立した研究者」に「意識させる」なんてことは、少なくとも僕は、気が引けます。
 そんな基本的なことを、「ピンで立ってる自律した研究者」に、敢えて言葉にして指摘したくはありません。たぶん、心の中では、何か思っていても、僕は、本人に指摘はしないと思います、本当にほんと、よほどのことじゃなければ・・・。
 畢竟、「自由になる」「自律する」とはそういうことです。誰も「守って」はくれません。そこからは、自分一人で「考え」、自分で自分にフィードバックをかけ、ピンで立っていかなくてはなりません。

 くどいようですが「博士論文を執筆する」ということは、過去と決別し、未来に向かう儀式的性格を帯びている知的活動です。そして、それは先ほど、述べましたように「指導者との別離と自律」も意味します。
 メンタリング研究の知見がすでに明らかにしているように、メンターとメンティは、「出会った」ときから、「別れ」を約束されている存在です。「出会った」からには、きちんと「別れられなければ」、ダメなのです。
 いつまでたっても、「別れられないメンターとメンティ」は、最悪の場合、「メンターに対するメンティの隷属」「メンティに対するメンターの搾取」を生み出すもとになるのです。これは「別れられないこと」を両者で選択したことによって生じる「共犯・共依存」です。
 いつまでたっても、指導教員から自律できない人、いつまでたっても指導教員に甘える人、それじゃ困ります。逆に、また、いつまでたっても、大学院生を隷属させる指導教員でも、困るのです。

 大村はまの言葉に、下記のような言葉があります。

わたしは「渡し守り」のような者だから、向こうの岸へ渡ったら、さっさと歩いて行って欲しい、と思います。後ろを向いて、「先生、先生」と泣く子は困るのです。「どうぞ、新しい世界で、新しい友人をもって、新しい教師について、自分の道をどんどん開拓して行きますように」そんな風に、子どもを見送っております」
(大村はま)

 最後に提供された教育機会 - すなわち「学問コミュニティを知る機会、自分の過去をしる機会、将来を構想する機会」を提供され、それを成し遂げた個人は、きちんと、「向こうの岸」にわたり、「さっさと歩いて」いかなければならないということです。
「指導教員の知らない向こう岸で、新しい世界と、新しい人達と出会って、自分の研究領域を築き、さらには後世を育てるための一国一城を築いてもらわなくては困る」のです。

 ▼

 博士論文を書くということは、研究分野によって多様な解釈ができそうです。ですので、上記は「一般論」ではありません。
 しかし、どの分野の博士論文であっても、それを執筆するのシンドサは共通しているでしょう。それは、あまりに負荷が高く、しんどいことであり、時に泣きたくなることもあります。その辛さは、痛いほど、よくわかります。言葉にできないよね、、、その辛さは。痛いですよね、、、自分の過去の文章を読むことは。

 でも、それを成し遂げることには、上記のような「意味」があるんだとお考えになると、いかがでしょうか

 過去との決別。
 世界を認識する。
 未来に向けて歩み出す。

 そんなドラクエ的世界観?に、博士論文を重ね合わせてみると、いかがでしょうか? そのことで、皆さんの、少し負荷や負担感が減少するとよいのですが・・・(苦笑)。
 残念なことに、指導教員には「博士論文は書けません」。「書く」のは、僕ではなく、あくまで「本人」です。指導教員にできるのは、「博士論文を書くことの意味づけをすること」くらいです、ブログで(笑)。

 いずれにしても、中原研の研究室の学生諸氏の健闘を祈ります。
 いつも言っていることですが

 「終わった論文が、よい論文!」
 「完璧をめざすより、終わらせろ!」

  そして

 「早く向こう岸に行って、自分の世界をつくりなさい」

 Enjoy!

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投稿者 jun : 2013年10月24日 07:40


講演・研修・ワークショップ後の「感想」に頻出するワードとは何か?:刺激、メウロコ、感銘、モヤモヤ

 研修、授業、セミナー、フォーラム、ワークショップ・・・何でも結構なのですが、これらの学習機会に参加なさった方(大人)が、よくお持ちになる感想の中には、典型的なものがあります。

 感想の3大キーワードとは、「刺激」「感銘」「メウロコ」です。

 今日は「刺激」を受けました!
 今日は「目からウロコ」でした
 今日は「感銘」を受けました!

 講師から聞く話が、ふだんは考えないような角度から便所スリッパでスコーンとやられるような内容を含むものであれば(笑)、「刺激」「メウロコ」というワードが用いられるのでしょう。

 一方、講師の話題に、心から共感してしまえば「感銘」あるいは「感動」というワードを使いたくなるのでしょう。

 いずれにしても、これらの言葉は、よく講演・ワークショップ等の感想文に頻出するワードです。

(ちなみに、全く余談ですが、メウロコって大人語ですかね。社会人になる前は、あまり使わなかったような気がします。また、全くの余談ですが、目からウロコというワードを聞く度に、僕は、下記のようなシュールなイメージを頭に思い浮かべてしまいます、笑。朝っぱらから、こんな絵を描いて、スキャンしているのですが、決して、暇ではありません。このイメージをお伝えしたかっただけなんです)

Doc-2013_10_23 6_35-page-1.png

   ▼

 もちろん「刺激」「目からウロコ」「感銘」という感情をお餅になることは、非常に貴重なことです。日常は考えないことを超えた、と言う意味で、そうした学習機会は貴重なものでしょう。
 しかし、話題をもう1歩だけハイレベルにして、ここに潜む問題に思いを馳せたとき、ここに少しだけ「ないものねだり」をしてしまうことも、また可能なのかもしれません。

 要するに、最も避けたい事態は、この「刺激」「メウロコ」「感銘」という「ワンセンテンス」で、「あー、よかった、よかった、すっきりした!」と「思考停止」してしまうことなのです。

 別の言葉で示すのならば、

 「今日は"刺激"を受けました!」
 「今日は"目からウロコ"でした」
 「今日は"感銘"を受けました!」

 というワンセンテンスで「思考停止」してしまい、会場を出てしまう。要するに「聞いて、聞いて、聞いて、帰る」(笑)。
 少しないものねだりをするのならば、ここにより深いリフレクションがともなえば、もっといいのにね、ということです。

 「刺激」というけれど、今日の話題の、何が、どんな風に「刺激的」だと感じたのか? 今日の話題が「刺激的」だと感じるのは、今の自分が置かれている状況が、どういう状況なのか?

 「目からウロコ」とはいうけれど、今日の話が「なぜ目からウロコ」なのか。目からウロコであることに、なぜ、今までの自分は気づかなかったのか?

 「感銘」を受けたのは貴重なことだけれども、何に、どんな風に感銘を受けたのか。これが感銘を受ける理由は、今までの自分が、どんな考えをもっていたからなのか? それを、今まで、言葉にできなかったのはなぜか?

 一歩もし問いを先に進める時間と心理的余裕があるのでしたら、これらのように問いを進めると、もう少し深いところまで思考を進めることもできるのかもしれません。
 もちろん、すぐには「言葉にならない」かもしれない。でも、「言葉にならないこと」に直面して諦めてしまっては、いわゆる「思考停止」です。
「言葉にならないこと」を「自分の言葉」にして、願わくば「他者に語りうるもの」にしていくことが、学ぶということに深い関連をもつ気がします。

  ▼

 今日は講演後の典型的な感想キーワードについて書きました。

 ちょっとだけマニアックな方のために、少しだけ書くと、実は、今日のお話は、「ベルトルト・ブレヒトの書いた演劇論」に少しだけプチ関連します。
 よく知られているように、ブレヒトは、「感情浄化」や「思考停止」を促してしまうような「従来の演劇」を批判し、「見慣れたもの」「こうなるであろう」とする前提に徹底的に裂け目をいれるような異化作用こそが、演劇には重要であるとしました。

 これをモティーフにすると、講演やワークショップにも「思考停止させる類のもの」と「日常の思考に裂け目をいれるもの(異化作用をもつもの)」が存在するように思います。
 どちらがよいとか、悪いとか論じることは、あまり意味がないと思うので、ここでは論じません。
 が、どんな学びの機会に出会っても、「思考停止してしまうこと」は避けたいですし、願わくば、「自分の言葉」で語りうることが大切だと思います。

 ちなみに、最後になりますが、大人が用いる感想キーワードとして、もうひとつ頻出するものが「モヤモヤ」です。

 「今日は、なんか、モヤモヤしています」

 こちらに関しても事態は全く同じですね。

 ふだんは聞けない話をきいて「モヤモヤ」することは、非常に貴重な機会です。
 しかし、一方で、「モヤモヤをモヤモヤのままにしておく」と、それはつまり「モヤモヤモヤモヤ」です(笑)。思考の便秘状態といってもいい(すみません、品がなくて)。やはり、いつかは、快調快便(?)、すっきりしたいものですね。

 願わくばいったんは「モヤモヤ」をぎゅっと抱きしめつつ、しかし、一方で、それを「自分の言葉」にする時間をもつこと。
 そして、いずれかの段階では「モヤモヤ」を「自分の言葉」にして「スッキリ」させることが大切なことかな、とも思います。

 そして人生は続く

投稿者 jun : 2013年10月23日 06:28


自分が遊ぶ環境は、自分で創れ!?

 全くのゼロというわけではありませんが、わが家は、

「既製品のおもちゃは買わない」

 方だと思います。全くゼロということではありませんし、別におもちゃメーカの利益を毀損したいわけではありません。

 これはTAKUZOだけに限ることかもしれませんが、最大の理由は「すぐに飽きるから」です。
 せっかく買ってあげても、「早っ、もう、飽きたんかい」というぐらい、TAKUZOは、飽きるのが早いのです。

 だから、せっかくおもちゃを創っておられる方にも申し訳ないし、エコの観点からも、子育ての観点からも、あまりよろしくないな、と思うので、最近は、極力「おもちゃを買わなくなりました」。

 反面、いつも口酸っぱく言っているのが、

「ないものは、自分で創るしかないんだ
 自分で、創って、遊べ!」

 です。「ない」のは、「僕が買わないから」なんですけど、だだをこねても、泣いても、吠えても、「ない」んだから、「自分で創るしかない」のです。

 先だっても、突然、チェスが欲しいと、朝起きたら、だだをこねておりました。たぶん学童か何かで、前の日に、友達とチェスをやったんでしょう。
 世の中には、いろいろな既製品のチェスのおもちゃがあるようですが、例のごとく、うちは買いません。だとするならば「ないものは創れ!」です。

chase_koma.png

 結局、ネットからチェスの盤面をダウンロードして創っていたようでした。もっとも、自分ひとりで創ることができるはずもなく、カミサンが相当サポートしていたようです(TAKUZOは、だからといって、創作がすごくできるわけではありません。いたって、ユージャル、ノーマル、平々凡々な子です)。
 カミサンは、朝っぱらから「チェス工作地獄」にはまっていたようです(お疲れさん)。

 わが家には、子育ての方針みたいな大それたものは、特にありません。有機野菜オンリーなわけでも、インターにいれるわけでも、お受験をするわけでも、スゴイ教材をやっているわけでも、何でもありません。ふつーに肉を食べ、公立学校にいき、ふつーに宿題をやっています。

 ただし、「ないものを、自分で創ること」には、こだわって欲しいな、という思いはありなす。ま、単に、「ケチくさい」だけ、という話もありますが(笑)。

 そして人生は続く。 

投稿者 jun : 2013年10月22日 08:29


目に頼りすぎる昼は怖い、危険は感じるものなんだ!? : タクシーの運転手さんから、仕事の話を聴く

 他人の仕事の話を聴くのが好きです。

 特に、その方が、どのようにして、その仕事に「熟達」していったのか、そのプロセスの話題をうかがうこと。あるいは、仕事の中に埋め込まれた職人芸的な感覚の話を伺うのが、好きです。

 先だっては、たまたま深夜に乗り合わせたタクシーの運転手さんから、車中、じっくり話を伺っていました。

  ▼

「タクシーの運転手、やりはじめて、33年になるんです。

子どもも、女の子で2人いて、いや、なに、若い頃は、子ども、女房食わせていかなきゃならんので、銀座だろうと、丸の内だろうと、昼も、夜も、走らせてました。

時代も、なんか右肩上がりで、自分の給料も、日本も、みんなこのまま上がっていくんじゃないか、って思ってた。

で、十数年やって、個人タクシーになって、深夜しかやらなくなりました。深夜だけ、出待ちしてね。今は、深夜だけ。

そうすると、変な話なんですが、だんだん、「昼」が怖くなるんですよ。昼、タクシーを運転するのは、明るすぎる、だから「見えすぎて」怖い。夜は、感じるんですよ。危険、ここから来るぞ、って。ほら、きたって。

いや、なーに、33年やってたら、誰だって、気配を感じられるようになる。逆に、昼は、明るさが気配を消しちまう。だから、昼は見えすぎて、危険がわからない。

目に頼り過ぎちゃうんですね、危険は、目だけじゃなくて、からだで感じるものなんだ」

 ▼

 ICレコーダを持っていたわけではないので、一字一句同じというわけではないですが、伺っていたのは、そんなお話しでした。

 この運転手さんは、「昼が、明るすぎて、見えすぎて、怖い」とおっしゃいます。この感覚は、日常、私たちがもっている常識とは、全く逆です。「明るくて、見えていた方が、危険を認識しやすい」であろうから。

 しかし、この運転手さんにとっては、「昼は、明るすぎて、見えすぎる」がゆえに、気配を感じなくなってしまうというのです。
 彼にとって「目に頼りすぎること」はネガティブなことであり、「危険は、(目に頼りすぎず)、からだで、感じなくてはならない」とおっしゃいます。

 非常に興味深いことですね。

 奇妙なことに、僕はちょうどこのとき、文化人類学者 カルロス・カスタネダが、ヤキインディアンの呪術師ドン・ファンから聞いた言葉を思い出していました。

「わしらは、生まれたときから物事を判断するのに、目を使ってきた。わしらが、他人や自分に話すのも、主に、見えるものについてだ。戦士は、それを知っとるから、世界を聴くのさ。世界の音に聴き入るんだ」
(真木悠介「気流のなる音」 p101)

「目の独裁」をときはなち、「知者の敵」としての明晰を相対化することの大切さを。

 ▼

 それにしても、こういう自分の仕事に埋め込まれた、言語になかなかしにくい感覚は、タクシーの運転手さんだけでなく、職業事に、いろいろあるんだろうな、と思って伺っていました。そんな話を、これからも伺っていきたいものです。

 ちなみに、これを目的として「他人の話を伺っているわけ」ではないのですが、「じっくりと話を伺っている」と、「料金をオマケしてくれたりしてくれること」が、たまーにあります。

「お客さん、今日は、1時間も、オレが話し続けちゃった。オレは、自分の仕事のことを、これまで、ほとんど、他人に話したことがない。オレの話、面白いかな? でも、今日は、すっきりした。端数はいいから、とっておいてください」

 そして人生は続く

投稿者 jun : 2013年10月21日 08:31


「恋するフォーチュンクッキー」社員ダンスはどう解釈できるのか?:1粒で2度美味しい「PV公開を通した組織開発」である!?

 まずは、ひとつの動画をご覧下さい。

 この動画をはじめて見たのは、ちょうど一年前くらい前のことだったことように思います。
 同志社女子大学の上田信行先生と、いろいろなプロジェクトを進めていた頃、アメリカのセサミワークショップ(セサミストリートをつくっているプロダクションですね)が、当時大流行していたカーリー・レイ・ジェプセンの「Call me baby」をパロディ化した「Share it maybe」を社員で踊り、公開して話題になっておりました。

「こういうのをやる、日本企業って、今後、でてきますかねぇ。みんな、心では、ちょっとやってみたいな、と思いつつも、きっと、恥ずかしがるんでしょうね」

 と、みなで話していたことを憶えています。
 それから時はすぎ、はや1年。
 予想を裏切り!?、最近では、「恋するフォーチュンクッキー」を社員・従業員みなで踊り、そのPVを公開する、というムーヴメントが、流行しているようですね。

 もっともよく知られているのは、サイバーエージェントさんのもの。

 個人的には、佐賀県庁さんのものが、いい味をだしているように感じます。

 その全貌に関しましては、昨日、産業能率大学の橋本先生が、ブログにまとめておられていたので、それにあやかって、僕も、ブログで書いてみることにしました。
 橋本先生のブログには、様々な組織のPVがまとめられているので、ぜひご覧下さい。

産業能率大学の橋本先生のブログ
http://www.hashimoto-lab.com/2013/09/3194

  ▼

 さて、僕が、今日、考えてみたかったことは「恋するフォーチュンクッキー」社員ダンスは、組織論的!? 組織行動論的!? には、どのように解釈しうるのか?

 ということです。
 
 これには様々な「解釈」がありえますが、皆さんはどう思われたでしょうか。

 僕が、これらの社員ダンスPVを見て、真っ先に思ったことは、これは

「ダンスのPV公開を通した組織開発(Organizational Development)」

 として解釈できるのではないか、という妄想です。しかも、これは撮影され、Youtubeなどでの一般PV公開をともなうので、組織の宣伝(イメージ)の機会にもなります。

 僕が、これを起案する立場ならば、おそらく外向きには、わかりやすい後者の理由づけをおこないます。そして、前者の理由は心に秘めておくような気がしますが、いかがでしょうか。僕が組織開発や経営企画を担当していたら、きっと、そう考えるように思います。
 ちなみに、組織開発とは、様々な定義がありますが、「組織のメンバーのつながりを強くし、組織力を高める活動」とさしずめ、ここでは捉えて下さい。

 先ほどのセンテンスを、別の言葉でいいなおすならば、

「社員でひとつのダンスを踊り、PV公開することを通して、組織のなかの人のつながりを強くし、組織の凝集性を高めることができる。しかも、広報効果をあわせもつ1粒で2度美味しい的なグリコのキャラメル的活動である」

 として解釈できるのではないか、ということです(笑)。
 あくまでひとつの解釈なので、真に受けないで下さい。

  ▼

 つまり、こういうことです。
 まずは、ひとつずつ、「ダンス」というものから解釈を進めていきましょう。

 これは高尾隆さんとの共著「インプロする組織 予定調和を超え、日常をゆさぶる」という著書に書かせていただいたことですが、「ダンス=身体を即興的に表現・創造に用いること」とは、これまで組織ともっとも相容れない活動、すなわち、それが実現した際には「強烈な非日常性や祝祭性」を感じることのできる活動であると考えられます。

 一般に、組織は、身体を「パフォーマンス(生産性向上)」のために用い、それを管理することはあっても(生産管理)、それを表現のために用いることを社員に求めることは、これまであまり多くはありませんでした。

 かつて、パフォーマンススタディのジョン・マッケンジーという研究者は、「パフォーマンス」という言葉を2つの意味において用いています(McKenzie 2001)。

 これまでの企業は大量生産、大量消費を可能にする「効率(パフォーマンス)」が追求されていた。そこでの身体は、ここで述べるならば「既存のオペレーション」をまわすための「管理された身体」です。
 しかし、今後の企業は自らをフレキシブルでクリエイティブな存在ととらえなおし、多種多様な創造的パフォーマンスを発揮しなければならない。それを支えるものは、ここでいう「創造のための身体」であり、こちらも「パフォーマンス(創造)」としてとらえることができるだろう。これがマッケンジーの組織と身体をめぐる理論的整理でした。

 たしかに、マッケンジーがいうように、これまで組織は「管理された身体」として身体に向き合うことはあっても、「創造のための身体」をもとめることは非常に「レア」であったと解釈できます。
(組織の中で身体を意識する局面は、多くの場合、健康診断か、人間ドック、生産管理ではないでしょうか。前者は病気かどうか、要するに「まだ働けるか」を検証する手段です。後者は、どのように身体を動かせば、効率的で儲かるか、ということに関するテクノロジーです。いずれにしても、そこで想定されているのは、管理された身体ですね)

 しかし、「だからこそ」、「そういう現状であるから」こそ、それを「実際に実現できたとき=創造のために身体を用いることができたとき」には、組織の中に圧倒的な「非日常性」や「祝祭」を演出することができます。だって、ふだん、そんなことやってないんだから。社内で踊るなんて、あり得ないんだから。

 この「非日常性」や「祝祭」こそが、「組織の凝集性」を高める「資源」です。ここには「非日常性の高いことに、組織をあげてチャレンジしてなしとげた」という高揚感がついてまわります。

 さらには高揚感だけではありません。ここでビデオを作成した方は、自分の周囲の少なくない人に、このビデオを見せたのではないでしょうか。

「実はさ、うちの職場で、こないだダンスやってさ」
「えー、お父さんの会社で、AKB48踊ってたんだって!」
「あー、Aさん、最近、みないうちに太ったわね」
「えっ、これがパパの職場なの?」

 という具合に、組織内外、場合によっては家族に、このPVを見せて、この出来事と、組織について語ることは容易に想像できるのではないか、と思います。
 かくして、こうしたプロセスを通して、おのずと、「自分が組織の一員であること」は、意識されるはずです。なぜなら、このビデオを他者とともに鑑賞することは、「組織の活動」「組織」「組織のメンバー」そのものを語る機会になるからです。

 そこで働く心理的機制のうちで、もっとも大きいなと思うのは、

「AKB48を踊っちゃったうちの組織と、それ以外」
「あんな非日常の空間を味わったわたしたちと、それ以外」

 という境界の強化です。

「非日常的で祝祭的で、一見、合理的にみえない活動を実施した僕たち」というかたちでアイデンティティが高まり、組織の境界が一時的に高まることが期待できるのではないでしょうか?
 もちろん、場合によっては「へー、うちにはこんな部署もあったのか」と組織のことを知るチャンスにもなりますね。

  ▼

 しかも、この「ダンス」は、実際は、それなりに練習をすれば、見ているよりも、演じることは難しくはないということにミソがあります。
 ポイントは、PVとして自分が映るのは「非常に短期間=一瞬」だということです。

 長い時間身体を動かすことはできなくても、短時間、それなりに身体さえ動かし、うまく編集すれば、あたかも長時間、組織をあげてみなが踊っているように見えてしまいます。
 つまり、本当は「組織全体がみなで踊ったこと」はないのです。「組織をあげて、みなで踊ったこと」は、実は、デジタルテクノロジーによってつくられた、ヴァーチャルなイメージ」なのです。
 実際は、職場や部署単位で、撮影を短時間にすませたものを、編集していることが多いのではないでしょうか。それゆえ、時間的コストはかなり限定的であるはずです。しかし、「ヴァーチャルなイメージ」は、心に強く残ります。3分07秒で表象された、このヴァーチャルなイメージこそが、「組織全体」なのだと。

 しかし、このように「敷居が低い活動」であるにもかかわらず、その活動は「協働的な創造行為で愉しさをともなうもの」です。
 みなで協力して、何かをつくりあげ、しかも、愉しい。この「協働性」「創造性」「共愉性」こそが、大切なポイントである気がします。これら3つは、多忙化する現代において、もっとも組織が失いかけているものでしょう。愉しいことって、大事なことなんですよね。

 ▼

 今日は、「恋するフォーチュンクッキー」社員ダンスを、勝手気ままに解釈してみましたが、いかがでしたでしょうか。大いなる誤解と妄想を含んでおりますが、僕は、そのように思いました。

 しかし、考えてみますと、このあとに広がる「将来」の論理的帰結は、非常にアイロニカルです。
 つまり、「非日常性」と申しますものは「常態化」しますと、効果が限定的になっていきます。組織開発の源泉である「非日常性」が、その普及にともない「減衰」していく事態が生まれる。つまり「常態化した非日常は、日常である」ということです。
 ということは、どこの組織でも「恋するフォーチュンクッキー」を踊るようになってしまえば、それは「日常」です。ですので、おそらく、そこには「やらされ感」が今よりも高まるでしょう。

 ですので、おそらく、このブログをご覧になって、興味をおもちになった方がいらっしゃったり、あるいは、公開されているPVをご覧になって興味をおもちになった方がいらっしゃったとしたら、「恋するフォーチュンクッキー」を超える「次のこと」を考えなくてはならぬときかもしれません。

 しかし、それはそれで、まことに愉しいことではないでしょうか。
 そして人生は続く

投稿者 jun : 2013年10月18日 06:46


焚き火deラーニング!? :集え、世界の「タキビスト(焚き火+アクティビスト)」!

 半分本気で、半分冗談で、最近、いろいろなところで、やりたいね、やろうね、と口にしていることに、「焚き火ラーニング」があります。

「焚き火ラーニング」とは、「焚き火を囲んだ対話や学びの機会」です。0.2秒で思いついた造語で、僕が勝手に決めました。「絶対」に広辞苑にはのっていませんし、お子様は真似しないでください、あしからず。

 やりたいことを、ひと言で申しますと、

「集団で"焚き火"を囲み、語るということ、学ぶということ」

 の意味を、信頼のできるみなさんとともに実践しながら、考えてみたいのです、、、ふふふ。

 そう書くと、やたら大げさなのですが、なんだかんだ、理由をつけて、単純に「焚き火」を久しぶりにやってみたいんだよ(笑)。
 ラーニングは、もしかすると、たぶん、絶対、屁理屈かもしれません。ま、でも、火を見つけるたびに、こんな写真を撮っているくらいだから、わりと本気です。

takibi_yo_moero.jpg

「嗚呼、ついにオマエも、そこまで逝っちゃったか・・・」
「とうとう、2つめの河、わたっちゃったか・・・」

 と思われてしまいそうですが、たぶん、そのとおり(笑)。
 もしかすると、最近、三冊の本を同時併行で書きつづけるという「掟破りの逆サソリ」的な禁じ手を実践しているので(単純に、たまりたまって、追い込まれているのです・・・不摂生を続けた結果、結果として三冊同時になってしまったという喜劇的悲劇です)、知らないうちに心がパサパサになり「逃避・妄想モード」に入っているだけかもしれません。

 でもね、おら、「焚き火」してじっくり語ってみたいんだよ。

 焚き火の前では、素直になれませんか?
 素朴に語れるような気がしませんか?

 何を語るの?、と言われても、困るんだけど(笑)
 
  ▼

 しかしながらですね、屁理屈をこねくりまわして、一寸、考えてみますと、「火」は、わたしたちの集団に、常に、その中心にあったものです。
 
 原始社会、農耕社会の共同体形成において共食・共飲・遊興(芸能)を主軸として編成された祝祭空間が、もともと「宴会」ですね。そのかたわらには、祝祭空間を照らし、そして集団をてらす「焚き火」がありました、たぶん・・・ありそうでしょ。

 火やその前でなされる遊興を中心として、「一緒に飲食をする経験」は、「集団形成・維持、そして相互理解の資源」として利用されていました、、、たぶん。

 しかし、農耕社会が去り、工業化・都市化がすすんでいくと、わたしたちは、火を「閉じ込めた空間で、飼い慣らす」ようになっていきます。

 人口密度の高い都市では、火そのものを目にしたり、感じる瞬間は、限られたものになっていきます。地方は別でしょうけれど、いまや都市で焚き火なんかを無造作にしていると、通報されます、まちがいなく。

  ▼

 でも、「焚き火ラーニング」、いいと思いませんか。
「焚き火」そのものではなく、焚き火を囲んで、じっくりと話し合う時間が欲しいだけかもしれませんが、そんな時間をつくりたいな、と考えています。

 ま、ブログとかで宣言しちゃえば、広い世の中には、焚き火を専門にしている人、それをすでに実践している人、焚き火には一家言ある人なんかがいて、うまくつながったり、コラボできるのかな、なんて思います。
 僕が、38年生きてきて学んだことのひとつに、

「世の中には、どんなニッチな領域でも、考え続け、実践を積み重ねて人がいる」

 というのがあります。
 きっと焚き火もそうだよね、タキビスト(焚き火+アクティビスト)いるよ、絶対。
 で、「焚き火学習論」てのがあるんだ。

 嗚呼、すみません、行き当たりばったりで。嗚呼、そうやって、今まで、何とか、生きてきました。

 ここ数ヶ月で、怒濤のように「〆切」の嵐が続きます。
 いつか実現の「火」を夢見て、しばらく、「焚き火の妄想」にふけることにします。

 そして人生は続く

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追伸.
「OJTの再創造」イベントですが、参加希望を多数いただきました。心より感謝いたします。ありがとうございました。今回多数ということで、予定よりもはやく応募をシャットダウンさせていただきましたが、もうまもなく、結果をメールにて通知させていただきます。どうぞよろしく御願いいたします。

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追伸2.
 今日のブログ、すごい反響をいただきありがとうございます。正直驚いています。こんなマニアックな記事に、Facebook、メール含め、日本全国のタキビストの方々に御連絡をいただきました。心より感謝です。下記は橋本先生からご紹介いただいた、3時間続く焚き火ビデオです。癒されるねぇ。

投稿者 jun : 2013年10月17日 16:11


台風の思い出

 首都圏は「台風」に見舞われています。
 午前中のゼミや授業は休講。中原ゼミも、今日は、臨時休講です。遠方からのメンバーもいるので、朝っぱらからドタバタしないように、昨日のうちに決断しておきました。

  ▼

 台風といいますと、僕が、本格的な台風を経験したのは、18歳の頃です。よく知られていることですが、北海道には、あまり台風はやってきません。
 正確にいえば、「やってこない」「影響がない」わけはないのですが、内地と違って「本格上陸したわいのー」「これから直撃させてもらうけんのー」という機会がなかなかないのです。
 というわけで、僕は、18歳まで、台風の本格直撃を受けた記憶がありませんでした。

  ▼

 はじめて台風をガチに経験したのは、実は、東大駒場キャンパスです。その日は、台風のさなか元気に通学し、イギリス人の先生の、英会話(スピーキング)の授業を受けていました。

 そしたら、マジすか、床にだんだんと水が忍び寄ってきたのです。ひたひた、と。ひたひた、と。
通路の排水路が溢れていたようです。部分的には、靴がどっぷり水につかるくらいになりました。排水路には、急流ができていました。これが、僕の台風初体験です。

 帰り際、

「言っちゃいけないことかもしれないけれど、台風ってワクワクするよな」

 と先生がおっしゃっていたことが、印象的です。不謹慎ではありますが、「本当にそうだよな」と思ったから。

  ▼

 今日は、TAKUZO、小学校はお休みのようです。午前7時の時点で、暴風警報がでておりますと、学校は臨時休校になるそうです。

 午前8時時点で、まだ風はときおり強くふきますが、台風はすでに首都圏を通過したようです。だんだんと空が明るくなってきました。

「TAKUZO、天気がよくなってきたから、学校、これからはじまるんだって」

 と冗談を言ったら、真に受けてました。
 真っ赤なウソです。
 
 こういう場合、どうやら学校は、天気が回復しても、再開はしないようです。
 おうちの中で、小躍りしながらワクワクしている小学生が、わが家には、ひとりおります。たぶん、首都圏には、そういう小学生多いんだろうな。

 皆さんには、台風にまつわる、どんな思い出がありますか?
 そして人生は続く。

投稿者 jun : 2013年10月16日 08:02


運転免許試験場でオリジナリティを発揮する!?

 先だって、運転免許の更新、法定講習の受講のため、3年ぶりに運転免許試験場に行ってきました。
 こればっかりは、「泣いても吠えても行かなければ、被害まことに甚大!(免許失効しちゃいますよね・・・)」ですので、「超ヘビー級に重い腰」をあげて出かけたのであります。

  ▼

 運転免許試験場は、今日も大勢の多種多様な人々でごったがえしています。
 3人の子どもの手をひいているおかあさん。クソ忙しそうにノートパソコンをひらいているビジネスマン。手続きの場所がわからなくて怒鳴りちらしているオジさん。証紙を買うのを忘れて列に並んでしまい、もう一度最初から並んでと言われて、半べそをかいている気の弱そうな青年。あたりかまわず、化粧をしているギャル。村上春樹を読んでいるシニアの方。お友達同士で来ていると思われる学生さん。
 まさにダイバーシティ!多様性ここに極まれりという空間に、人がごったがえしていました。

  ▼

 各種手続きを終え、いざ法定講習へ。
 小生、先だって、一時停止を見誤ってしまい、違反がございましたもので(まことにすみません)、法定講習時間は120分です。

 講習は、ひと教室に130人の大人がぎゅーぎゅー詰めになって行われました。
 朝早かったせいか、皆さん、お疲れのご様子で、中には下をむいたまま、微動だにしていない方もいらっしゃるような気がしました。
 小生も、かなり疲れていたので、その危険があったのですが、

「こういうときこそ、研究者は、オリジナリティを発揮するべきだ!」

 と考え、心にムチをうって奮い立たせ、「最高に優秀な受講態度」で、授業に望んでみることにしました。何事もオリジナリティで勝負です。

 小生、目をぱっちり開いて、先生の問いには、ウンウンとうなずきます。おっしゃられたことを、すべてノートに取ります。教科書は、熟読して、アンダーラインを引いてみました。
 で、そうしてみたら、120分間は、あっという間でした。ウソってくらい早かった(笑)
 もちろん、こうした受講を他人にはおすすめしませんが、敢えてやってみると、なかなか、満足度の高いものでした。
 ゲーミフィケーション的に意識を変えることで、満足度が得られるのなら、それもよいことなのかもしれません。

  ▼

 次回の更新は3年後でしょうか、あるいは5年後でしょうか。できるかぎり、違反をなくして、なるべく免許試験場に出かける頻度を少なくしたいものだと感じています。

 そして人生は続く。

投稿者 jun : 2013年10月15日 16:08


BBC EARTHのネイチャードキュメンタリー映像を体感する:ORBI横浜に行ってきた!?

 三連休、皆さんはいかがお過ごしでしょうか。

 じっとしていると、エラに空気がいかず、呼吸不全で死に至る「歩くマグロ」といわれている小生は、この三連休ともに、いろいろな場所に、家族で出かけておりました。

 ただ、、、前の週が、相当ハードだったこともあり、1日目はヘロヘロ死にかけ人形での外出。2日目は、何とか持ち直し。3日目はようやく普通の状態になりました。

 この状態でも、おうちに絶対にじっとしていられないのは、「我ながら、首尾一貫してるわ」と思いつつも、今後のことを考えますと、いつまで、そんな生活をしていられるのか、少しプチ不安です。

 ▼

 ところで、日記です。
 どうせなら、この3日間、初日から何をしたのか、書くといいのですが、えい、面倒ですので、3日目だけ(笑)。

 3日目は、みなとみらいにできた、ORBI横浜に出かけました。ORBI横浜は、ワンワードでいうと、「BBC EARTHのネイチャードキュメンタリー映像を利用したエキシビジョン」ということになります。

orbi_yokohama.png

 詳細は知りませんが、BBC EARTHとSEGAのコラボでできあがっているようですね。

Orbi
http://www.bbcearth.com/live-events/orbi

大自然体感型ミュージアム ORBI
http://orbiearth.jp/jp/

 この施設、そうですね、小学校以上で、比較的自然に興味がある人、プロジェクションマッピングとか含め、映像に興味のある人は、愉しめるような気がします。

 個人的には、劇的に古いですが、1982年、北海道で開催された北海道博覧会(いわゆる道博)で、ダイエーのパビリオンで展開されていたオムニマックスを思い出しました。2時間以上並んで、ネイチャー系の映像を家族で見た覚えがあります。今から31年も前のことですけれども。

 ちなみに、施設自体は、みなとみらいにできたMARK ISの5Fにありますので、それを2時間程度見終わったあとは、ショッピングやレストランで食事するのもいいかもしれませんね。
 
 MARK ISには、湘南鎌倉のイタリアン「アマルフイ」のカフェやら、有機野菜の「六本木農園」やら、ふわふわオムレツで有名な ラメール「プラレール」じゃなかった(そりゃ、トミカ!)、ラメールプラールなども入っています。ラメールプラールは、すごい行列でした。また今度。

 ま、そんなこんなな週末でした。
 来週もハードです。
 そして人生は続く。
 

投稿者 jun : 2013年10月14日 17:21


組織開発(Organizational Development)を下支えする理論と価値観

 先だって開催された、南山大学人文学部・中村和彦先生の組織開発(Organizational Development : OD)に関するレクチャーを聴講させて頂く機会に恵まれました。以前より、中村先生にはぜひ一度お会いできればと思っておりましたので、誠に嬉しいことでした。ご聴講をお認め頂いた中村先生、神戸大学経営学部・金井壽宏先生には、心より感謝いたします。本当にありがとうございました。

  ▼

 聴講させていただくにあたって、中村和彦先生のお書きになった論文や、おすすめくださったBurke, W.の最新の論文を拝見させて頂きました。
 論文を読み、講義をお聞きしたおかげで、アカデミックな場における組織開発論の現在、そして過去の系譜について - まだまだおぼろげながらですが - 理解をさらに深めることができました。

中村和彦(2007)組織開発(OD)とは何か?. 人間関係研究. Vol.6 p1-29
http://www.ic.nanzan-u.ac.jp/NINKAN/kanko/bulletin06.html

Burke, W. W. (2004). Organization development. In C. Spielberger (Editor in Chief), Encyclopedia of Applied Psychology (pp. 755-772). Oxford, U.K.
http://www.sciencedirect.com/science/article/pii/B012657410300355X

cf. Burke, W.W. (2011). A perspective on the field of organization development and change: The Zeigarnik effect. Journal of Applied Behavioral Science, 47, 143-167.

 組織開発が何たるかは、上記の専門の論文や書籍に詳細に記されておりますので、そちらをご覧頂くとして、個人的には中村先生が「組織開発」という用語を、「組織の有効性を高めるのための多種多様な理論と手法が入っている"ハコ"のようなものである」というメタファで語っておられたことが印象的でした。

 これは、組織開発を「何か特定の定型化されたひとつの手法」と捉えてしまうことの危険性を述べられている、と感じます。
 組織開発を「何か特定の定型化されたひとつの手法」と狭くとらえ、その単一の技術に固執してしまうことを、中村先生は「枝葉専門家」とおっしゃっていましたが、非常に痛快で、かつ、耳の痛い喩えであると感じます。

  ▼

「枝葉=手法」の前に、結局「幹=思想的なもの」になるものが大切だということでしょうか。
 それは、組織開発を下支えする「組織と人間に関する諸理論」でしょうし、また、組織開発の依拠する価値観(Value)なのでしょう。特に、後者の価値観(Value)は大切ではないでしょうか。

 中村先生は、ODの依拠する価値観として、民主制(参加・関与・体験を重視する)、人間主義(人間への信頼)、データ主義(アクションリサーチ)、システム志向性(組織をシステムとして見る)、協働性(当事者ー外部介入者ー当事者の協働性)の5つを述べられておられました。
 個人的には、特に一番目の「民主制」、二番目の「人間主義」が印象深いな、と感じました。もし、これらを毀損してしまいますと、ODは、もともとODがもっていたものとは、別物に変質してしまう可能性がゼロではないな、と感じたからです。

 ここでは詳細を述べませんが、組織開発は、60年代に本邦に受容されますが、よく知られているように、その後の歴史は必ずしも平穏なものではありませんでした。
 受容期にともなったいくつかの重要な概念のねじれた受容、組織開発の専門家の不足、教育研究機関の不足、しかし、それでいてブームとしての普及。当時の組織開発は、様々な艱難のもとにありましたが、混乱のひとつの要因としてあげられるのは、この価値観の受容にこそあるのではないか、と思いました。

 言葉を選ばずに述べるのならば、組織開発は、実践する側にも、参加する側を「選ぶ」のかもしれません。それを実践し、参加するには、「組織開発の前提になるような価値観の共有と理解」が大切であったということです。
 授業終了後、中村先生、金井先生とは、短い時間でありましたがお話しする機会を得ました。この当時の歴史のことを、お話できたことは、非常に嬉しいことでした。

 中村先生は、最も理想的な組織開発のあり方は、「何か特定の定型化されたひとつの手法」を「どかーん」と導入すること「ではなく」、結局、「日頃の仕事現場で、みなが、自分たちの仕事現場をいかにOD的にしていくか」ということだと述べられておりました。
 このひと言で、僕は、これまで抱いていた数々の疑問が溶解した気が致しました。それは、組織内の各レヴェルにおいて、本来は、価値観を共有した人によって分散して担われるソーシャル・ムーヴメントのようなものなのかもしれません。

  ▼

 それにしても、中村先生の講義をお聞きして、かえすがえすも感じていたのは、組織開発に関係していた研究者は、経営と教育・学習の「越境者」であった人が多いということです。

 Argyris, C.(クリス・アージリス)は、Harvard Bussiness Schoolの教育・組織行動論の教授で、当時、経営大学院でも、教育大学院でも授業をしていました。
 先ほど論文を示したBurke, W.は、Columbia Teachers Colledge(コロンビア教育大学院)の教授であられます。
 そして本邦における組織開発の第一人者のおひとりである中村和彦先生も、もともと学部時代は教育学をご専攻なさっておりました。また、金井先生も教育学部のご出身です。

  非常に興味深いことです。
  
  ▼
 
 久しぶりに「学び手」の立場に専念し、濃密な時間を過ごすことができました。学ぶ時間とは、まことに貴重なものです。最後になりますが、中村和彦先生、金井壽宏先生、そして受講生のみなさまに心より感謝いたします。本当にありがとうございました。

 そして人生は続く。

投稿者 jun : 2013年10月11日 05:39


【応募者多数のため、募集停止いたします。ご応募、ありがとうございました!】OJTの再創造!? :  僕らは"イマドキのOJT"の仕組みをつくることにした! : 12/2(月)

10月10日23時 応募が200名を超えましたので(募集人員150名)、やむなく、募集を停止させていただきます。みなさま、ご応募、ありがとうございました。応募停止、あしからずご了承下さい。抽選結果は10月15日にメールにてお贈りいたします。
10月10日17時 NAKAHARA-LABブログにて募集文を公開しました
10月10日8時 中原研究室メルマガより募集を開始しました

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NAKAHARA-LAB.NET(中原淳研究室メルマガ)
経営学習研究所ラーニングイベント&望年会!?パーティのご案内

【OJTの再創造!? :
 僕らは"イマドキのOJT"の仕組みをつくることにした!】

KEYWORD : OJT、新人教育、人材育成、現場、職場、徒弟制
企業内教育、メンタリング

12月2日(月)午後6時00分-午後9時30分くらいまで
株式会社内田洋行 東京ユビキタス協創広場 CANVAS
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 みなさん、ご無沙汰しております、中原淳です。
 このたび、12月2日(月曜日)に、経営学習研究所のイベント
を、内田洋行教育総合研究所さまとともに、開催させていただき
ことになりました。

 今回のイベントのテーマは

【OJTの再創造!? :
 僕らは"イマドキのOJT"の仕組みをつくることにした!】

 です。博報堂の企業内大学であるHAKUHODO UNIV.
(通称:博報堂大学)の白井剛司さまを講師にお招きし、
皆さんでOJTに関する熱い議論ができるとよいなと
感じています。

 日本企業のお家芸と言われながらも、形骸化しやすいOJT。
 制度をつくっても、なかなか現場で機能しないOJT。
 様々な組織環境の変化に応じて、今、従来から行われてきた
OJTが見直しの機を迎えています。

 博報堂さまでは、数年前から、OJTの再構築をめざしたプロ
ジェクトを推進し、様々な仕掛けを整えてこられました。その
考え方と成果は、日本経済新聞出版社様から12月書籍

「 "自分ごと"だからこそ、人は育つ
~博報堂の新入社員OJT
一年間でトレーナーが考えること~(仮)」
 HAKUHODO UNIV.(博報堂大学) 著

として刊行の予定です。

 当日は、書籍に掲載できなかった「生々しい話」を含め、
様々な角度から、OJTに関する対話ができると嬉しく思って
います。

 このイベントは、中原が主催する2013年度、最後のイベント
になります。ラーニングイベントのあとには、牧村真帆理事
がディレクションする望年会パーティも予定しております。
望年会パーティもMALL流でいきます。
 どうぞみなさま、お誘いあわせのうえ、お越しいただけ
ますことを願っております。

 中原 淳

 ーーー

■主催
 一般社団法人 経営学習研究所
 http://www.mallweb.jp

■共催
 内田洋行教育総合研究所

■日時
 2013年12月2日(月)午後6時00分 - 午後9時30分まで
 開場は5時30分から
 最後は望年会パーティとなりますので、途中退出可能です

■ 会場
 株式会社内田洋行 東京ユビキタス協創広場 CANVAS
 2階(前半ラーニングイベント) 地下1F(後半:望年会パーティ)
 http://www.uchida.co.jp/company/showroom/canvas.html

 JR・東京メトロ八丁堀駅または東京メトロ茅場町駅下車 徒歩5分
 近隣に内田洋行様の別ビルもありますのでお間違いのないよう
 にお願いいたします。

■参加費
 パーティ代含め、お一人様5000円を申し受けます
 限定150名まで

■内容
・オーバービュー
「なぜ、いわゆる"イニシエのOJT"が
      現在の職場で機能しないのか?」
(中原淳)pm6:00-6:20

・セッション1
「今の時代に合った新入社員OJTの考え方とその仕組み」
(30min.)博報堂大学(博報堂 人材開発戦略室)白井剛司さま
博報堂大学では、2007年から新入社員のトレーナーに向けて
プログラムを提供し始め、約4年間の活動を経て社内オリジナ
ルの新入社員OJTの育成コンセプトと仕組みを2011年に新
たに作り、実践中です。今の時代を意識したOJTの考え方
と仕組みを推進者視点で紹介します。

・セッション2
「今の新入社員OJTが"できるまで"と"できたあと"」
(30min.)セッション1に続いて 白井剛司さま
脈々と受け継がれてきたOJTを再構築するまで。そこに至る
までの環境認識、企画・開発のプロセスや推進関係者間でおこ
った議論。新OJT導入後2年を経過した今、年々変化するトレ
ーナーや新入社員の受け止め方など。本に書けなかった開発プ
ロセス、取り組み、成果を1同様、実践側の目線でお話しします。

・ダイアログ

・ラップアップ

・MALL流 望年会パーティ!

■参加条件

下記の諸条件をよくお読みの上、参加申し込みください。
申し込みと同時に、諸条件についてはご承諾いただいて
いるとみなします。

1.本ワークショップの様子は、予告・許諾なく、写真・
ビデオ撮影・ストリーミング配信する可能性があります。
写真・動画は、経営学習研究所、ないしは、経営学習研究所
の企画担当理事が関与するWebサイト等の広報手段、講演資料
、書籍等に許諾なく用いられる場合があります。マスメディアによ
る取材に対しても、許諾なく提供することがあります。
参加に際しては、上記をご了承いただける方に限ります。

2.欠席の際には、お手数でもその旨、
info [あっとまーく]mallweb.jp まで(松浦李恵)
ご連絡下さい。人数多数の場合には、繰り上げで他の方に席
をお譲りいたします。

3.人数多数の場合は、抽選とさせていただきます。11月1日
までにお申し込みをいただき、11月2日には抽選結果を送信さ
せていただきますので、あしからずご了承下さい。

以上、ご了承いただいた方は、下記のフォームよりお申し込みください。
なお、応募が多い場合には、〆切まえであっても、予告なく応募を
停止する可能性がございます。あしからずご了承下さい。

■お申し込みWEBサイト
応募が殺到しましたため、募集停止いたしました。(2013年10月10日23時現在)

皆様とお会いできますこと愉しみにしております!

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投稿者 jun : 2013年10月10日 17:17


「栓のないバスタブ」のメタファ : そろそろ強制インプット!?

 忙しくなると真っ先にカットされる時間は、「インプットの時間」であることが多いものです。

 新たな知識や考え方を学び、自ら考える時間。
 先行研究を読んで、まとめておく時間。

 そういう「インプットの時間」こそが、「なくても、今は取り急ぎ、困らないもの」としてカットされます。カットされるのは「未来への投資のための時間」といっても過言ではありません。それは「さしあたって、今は、カットしても困らない」。だから、そういう時間がカットされます。

 反面、忙しくなると、人は「アウトプット」をこれでもか、これでもかと求められます。

 今すぐ目に見える形で成果をだすこと。
 今すぐに手持ちのものをかたちにすること。

 そういう「アウトプット」を、これでもか、これでもか、求められます。求められるのは「過去と現在を消費すること」です。「未来への投資のための時間」をカットして、過去と現在を消費する。そうして、何とか生産性を上げようとします。

 しかし、少なくとも僕の場合、「アウトプット」ばかりしていると、次第に自分が「スカスカ」になってきている感覚に襲われるときがあります。

「もうオラはスカスカですだ。出せるものは、何もないですだー。シオシオのパーですだー」

 というイメージです。

 それもそのはずです。「未来への投資」をカットして、「過去と現在」を消費しているのですから、いつしか、自分の中の「資源」は枯渇します。つまり、「未来への投資」をカットすることは、短期的には成果をだしますが、中長期的には「リスク」なのです。しかし、そのことを忘れて「出せるものは、何にもない」状態になるまで、人は、たいてい、何も「インプット」をしないものです。そうして、莫大な「リスク」をいつしか抱えてしまっていることに気づく。

 でも、そうやってでも、アウトプットしなければ、今を生きていけないから、出ないのに、指をつっこんで、吐き続けます(失礼)。もう胃液すら、出ません(泣)。かんにんしておくれやす。

 たぶん大切なことは、自分の中の「ため」が半分くらいになったときに、あるいは、アウトプットとインプットのバランスが崩れてきたときに、強制的に「インプット」をすることなのかな、と思います。

「このままいけば、やばいぞ」

 というセンシングを行わなくてはなりません。

 たしかに「インプット」するのはおっくうです。全く今まで扱ったことのない知識を、ゼロから学ぶのですから。ついつい、面倒に感じます。でも、それをやらないと、すぐに「スカスカ」になってしまいます。

 自分のなかに知識を維持するということは、喩えて述べるならば、「栓を抜いたバスタブに、蛇口から水を勢いよく注ぐ」ようなものです。
 水を蛇口から勢いよく注ぎ続けていれば、バスタブには、水が少したまります。しかし、悲しいかな、このバスタブには、栓はありません。せっかく勢いよく注ぎ込んだ水も、すぐに失われてしまいます。要するに、大切なことは、水を注ぎ続けなければならない、ということです。それを一生止めない、ということに似ているな、ということです。

(このメタファは、もともとは、留学中、ある外国人の方から、教えてもらったものです。Jun、Non-Nativeが英語を学ぶことなんて、栓のないバスタブに上から水を注ぐようなものだ、と。素晴らしいメタファですね)

 ▼

 というわけで、最近の僕にも、そろそろ「強制インプット」の時間が迫っているようです。勢いよく水を注がなくてはなりません。40近くなっても、そんなことの繰り返しです。

 そして人生は続く。

  ---

追伸.
 本日午前8時から中原研究室メルマガで、新たなラーニングイベント(12/2 Monday)「OJTの再創造!? 僕らはイマドキのOJTの仕組みをつくりあげることにした」のご案内を開始します。もしご興味あれば、ぜひご参加頂ければ幸いです。このブログでは、少しおくれて広報させていただきます。

投稿者 jun : 2013年10月10日 06:39


そろそろ強制インプット!?

 忙しくなると真っ先にカットされる時間は、「インプットの時間」であることが多いものです。
 新たな知識や考え方を学び、自ら考える時間。先行研究を読んで、まとめておく時間。そういう「インプットの時間」こそが、「なくても、今は取り急ぎ、困らないもの」としてカットされます。

 反面、忙しくなると、人は「アウトプット」をこれでもか、これでもかと求められます。今すぐ目に見える形で成果をだすこと。今すぐに手持ちのものをかたちにすること。そういう「アウトプット」を求められます。

 しかし、少なくとも僕の場合、「アウトプット」ばかりしていると、次第に自分が「スカスカ」になってきている感覚に襲われるときがあります。

「もうオラはスカスカですだ。出せるものは、何もないですだー。シオシオのパーですだー」

 というイメージです。
 でも、そうやってでも、アウトプットしなければ生きていけないから、出ないのに、指をつっこんで、吐き続けます(失礼)。もう胃液すら、出ません(泣)。かんにんしておくれやす。

 たぶん大切なことは、自分の中の「ため」が半分くらいになったら、強制的に「インプット」をすることなのかな、と思います。

「このままいけば、やばいぞ」

 という感じで。
 たしかに「インプット」するのはおっくうです。全く今まで扱ったことのない知識を、ゼロから学ぶのですから。ついつい、面倒に感じます。でも、それをやらないと、すぐに「スカスカ」になってしまいます。

 ▼

 というわけで、最近の僕にも、そろそろ「強制インプット」の時間が迫っているようです。40近くなっても、そんなことの繰り返しです。

 そして人生は続く。

投稿者 jun : 2013年10月10日 06:39


仕事の能力形成研究の5つのトレンド:職場を縦断する網の目で活躍する市民たちが一気通貫リーヅモドラドラする研究!?

 「仕事の能力形成」に関する最新の実証的研究トレンドを、もし5つあげてください、と言われたら、何をあげるでしょうか。

 僕のネクラな趣味として、よくひとりで、この手の「トレンド予想」をすることがあります(笑)昨日も、電車のなかで、ひとりで自問自答していたのですが(もともと、ひとり遊びが好きなんです)、結局、これかなと思いました。
 以下は、僕のあくまで「印象論」なので、まったく真に受けなくていいですが、下記のようなトレンドを、ひとり感じながら、悦にひたって、「研究とは全く関係のない雑務」を電車内で、ガシガシとこなしていました。

 1.職場やグループを分析単位とした研究
  (Workplace Research)

 2.実証的な大規模縦断研究
  (Large-scale and Longitudal research)

 3.組織市民行動のある集団の探究
  (Organizational Citizinship)

 4.社会関係資本論&ネットワーク論との融合
  (Social Capital Theory)

 5.隣接領域(採用ー社会化ーマネジャー発達論)の融合

  ▼

 1「職場やグループを分析単位とした研究」とは、ここ5年くらいの変化かもしれません。
 もともと組織の研究は、分析単位が「組織(会社全体)」になることが多いのですが(だから「組織」論なんです)、その分析単位がより「ミクロ化」しているということです。

 すなわち、組織を単位とするよりも、その組織を構成する集団(たとえば職場)を分析単位(Unit of Analysis)として、研究データを取得することが多くなってきた印象がありますね。

 さらにいうと、職場よりも、よりミクロなものを、「ちみちみ、ところで、もっとコンマイ単位はどうなっているのかな?」みようと思えば、最小単位は「個人ー個人」ということになりますね。すなわち「個人のペアデータ」です。ですので、最近は、取得するデータを「ペアデータ化」することも増えていることのひとつかもしれません。
 
  ▼

 2「大規模縦断研究」とは、組織論というよりも、人文社会科学全体のトレンドでしょうか。
 縦断研究とは、ざっくりいえば、「同一の人物」からから反復してデータを測定し、個体の変化を追う研究のことをいいますね。時間がかかりますし、手法的にも、まだまだ発展途上にある研究です。

 縦断研究では、反復して、何度もデータを取得しなければならないので、当然、繰り返していれば、データに欠損がでてきます(すなわち、答えてくれない人がでてくるということです)。

 ですので、一番最初は、うそーというくらいに大規模にデータをとらなくてはなりません。だから、大規模+縦断は、セットで語られることが多くなる傾向があるように思います。

  ▼

 3「組織市民行動のある集団の探究」とは、専門家に「後から便所スリッパでスコーンと殴られること」を覚悟して「ひと言」でいいますと、「思わず、うっかり、お見合いをしちゃうようなポテンゴロ的な仕事を、集団のメンバーが自発的に拾えるか、どうか」ということです、、、意味不明(笑)。
 もう少しだけ、ちゃんと、いいましょう。
 すなわち「誰の仕事とも規定されていない仕事を、いわば善良な市民として、いかに自発的に担って生きうるか」ということです。

 最近は、みんな「クソ忙しい」ですし、成果にやいのやいの追われていますので、そういう「自発性をフルに発揮するような集団」はしだいに失われています。
 でも、能力形成にとっても、集団の維持形成にとっても、そういう個人の自発的な動きやかかわりは、ものすごく大切なことです。そして、失われているからこそ、こういう集団の成り立ちに関する研究が求められることになります。

  ▼

 4「社会関係資本論&ネットワーク論との融合」も、組織論全体というより、人文社会科学のトレンドですね。要するに、ある個人の発達を、社会的ネットワークや、つながりの中から見ようとする研究です。
 能力形成研究に焦点をあわせていいますと、かつては、上司ー部下間の垂直的な発達に焦点があてられていました。しかし、最近は、同僚、先輩、さまざまな人々のかかわりや網の目の中で、人がいかに発達していくかをみる研究が多くなっている印象があります。

  ▼

 5.「隣接領域(採用ー社会化ーマネジャー発達論)の融合」とは、要するに、「組織のなかの個人の能力形成」とは「比較的近いんだけれども」、これまで「別々に研究されてきたもの」が融合し合い、まざりあい、香ばしい風味を醸し出しているということですね(笑)。ソムリエ風の表現でいえば、「子犬が雨に濡れた香りと、新緑の朝森を散歩していたときのさわやかな風が溶け合い、ハーモニーをかなでているような感じ」でしょうか。

 「組織のなかの能力形成」のうち、初期キャリア(1年目ー3年目くらいとしましょうか)を真ん中におきますと、それを「前だおせば」、「採用・選抜研究+新人育成の研究」との融合ということになります。一気通貫のイメージでしょうか、たとえは麻雀で恐縮ですけれども。
 たとえば「どういう人をどのように採用して、どのように育成すれば、効果的か」というリサーチクエスチョンですね。
 もし仮に「後だおせば」、「新人の成長+マネジャーとしての発達」ということになりますね。「新人をどのような体制で育成して、マネジャーに育んでいくか」ということになります。
 あるいは、中途採用の研究だとするならば、離職・退職研究というのがあります。これと中途採用者の組織適応研究がくっつけば、「どういう人が離職・退職して、どのように再就職するか?」ということになります。

  ▼

 今日は、最近の研究トレンドをざっくり語ってきました。断っておきますが、印象論ですので、客観性も、ミソも、クソもありません。
 僕としては、これらすべてを包含するひとつの研究を実践することは無理にせよ、部分的に自分の研究に取り入れながら、研究を進めているつもりです。できるなら、ワンショットでいきたいけどね、そんな「職場を縦断する網の目で活躍する市民たちが一気通貫リーヅモドラドラする研究」なんて、なかなか、ねぇ・・・。

 いずれにしても、ついていくのが大変です。ビジネスの世界の変化も早いですが、研究の世界の変化も早いので。

 でも、何とか頑張ります。
 今日から、大学院・中原ゼミの冬学期がスタートです。
 そして人生は続く。

投稿者 jun : 2013年10月 9日 08:30


「カフェの会話」でひとり推論ゲーム!?

「だからね、わたしね、A夫に思い切って言っちゃった。そんなんじゃ、ダメだよ、あんた、仕事が中途半端なんだよって、ダメだししたのね。

そしたら、それを影で見ていたB課長がさ、よくぞ言ったって。おれもそう思ってたって。

あんたね、ほんとは、あんたが、それを言わなきゃだめでしょうが。ここまで出そうになったけど、言わなかったの。だって、あんたがだらしないから、A夫がつけあがるんでしょうが。Bも、だめね、ねぇ、そう思わない。」

   ・
   ・
   ・

「奇妙な趣味」なのかもしれませんが、カフェやホテルのロビーなど、多数の人が集まる場所で、隣に座った人々の会話に耳を傾けることが好きです。誰にも聞こえるような大きな声で話している集団というのは、たまにいます。そういう風にして聞こえてくる「人々の会話」から、その人々の「生活世界」を「妄想」することを、たまに愉しんでいます。

 この趣味、暗いかな・・・もともとネクラなんですみません。ここだけ書くと、「盗み聞き」というわけではないのですが、そのように思われかねないですね。
一応弁解しておきますと「悪用」をするわけではないのです。また、マイクを使ったりして盗聴するというわけではなく、自然と聞こえてくる会話から、自然に「妄想」するだけなのです。それに、「妄想」するだけなので、全く無害です。その後に、それらの方々に話しかけることもありません。あしからず(笑)

 全く知らない人々が行っている会話から、その人の過ごしている日常、属している社会的属性、現在の課題を想像する。全く根拠のない妄想では面白くないので、一応、根拠をもった推論をします。
 
 たとえば、人々の会話の中に「スキーム」「マーケット」という言葉がでてくるとします。
 それならば、当該人物は、少なくとも「ビジネスモデル」や「人員体制」に関する議論を日常している可能性が高くなりますね。その組み合わせが、シニアと若い方なら、若い人を指導している最中なのかな、と考えます。

 たとえば、人々の会話の中に「再校」という言葉がでてくるとしますね。そうすると、当該人物らは、少なくとも印刷や出版に関する仕事をしているのかな、という風に類推できます。

 人は誰しも何らかの文化的属性、社会的属性を身にまとって生活しています。
 そして、人が用いる言語は、それら「ソーシャルな衣」に少なからず影響を受けているものです。僕がひとり愉しんでいるゲームは、そういう手がかりをもとにした推論ゲームなのかもしれません。

 今のところ、単なる「独り遊び」ですが、もしかすると、「研究のトレーニング」にもなっているのかもしれないな、と、やはりひとり妄想します。

 そして人生は続く

投稿者 jun : 2013年10月 8日 07:50


猫も杓子も「留学」、十把一絡げに「留学」!? : 留学経験のデザインと内省

 ちょっと前のことになりますが、採用面接を担当なさっている、ある人事パーソンの方が、こんなことを口にしておられたことが、とても印象的でした。

「最近の学生さんは、面接で、みな、口を揃えて"留学経験があります"といいます。昨年からでしょうかね、"猫も杓子も留学"という状態になったのは。先日も、かなりの学生に面談したのですが、"留学経験がない学生を探す方が、少ないくらいです。

でも、よくよく、その内容を尋ねてみると、具体的に何をやったのか、何を学んだのかを、答えられない学生さんが多いですね。留学の内容を語ってというと、急に口籠もる。

それに、留学といっても、"十把一絡げ"で、目的意識も希薄で、大学がお膳立てして、数日海外で学んだものも留学。目的をきちんともち、自分でお金をためて計画して、単位や履修証などを取得してきたのも留学です。留学することが目的となって流行している印象です。もう面接で、留学の話は、聞き飽きてしまったんですよね」

 ICレコーダーをもっていたわけではないので、一字一句同じではないですが、だいたい、その方が口にしておられたことは、こんなことでした。僕は、この話、非常に興味深く伺っていました。

 第一の要点は、この会社への入社を希望する学生の間で「留学が自己目的化して流行していること」でしょう。これは僕は専門外なので、本当に一般的なことかどうか、他の会社にも当てはまることなのか、その実態はわかりません。
 特に、この企業は、純然たる日本企業ですが、海外のビジネスを展開している企業ですので、そこにおいてのみ通じることかもしれません。

 第二の要点は、「留学の内容」はさまざまであることですね。
 中には「大学(第三者)がすべてお膳立てしたもの」から、「自ら計画し、実行したもの」まで含まれているということです。つまり、留学の内容やクオリティには、相当の差があることですね。

 最後の要点は「留学」はしているものの、そこで得た経験に対してリフレクションが足りていないために、それを他者に言語化することができていないことでしょう。アクティビティはあるんだけど、言葉にならない。異文化には触れたんだろうけど、それがどんな意味かを伝えられない。おそらく、陥っているのは、そういう状態なんでしょうね。

 それにしても「猫も杓子も留学」「十把一絡げに留学」という事態が進行していくということは、「留学という記号」で、他者と差異化をはかることが難しくなることを意味します。下手をすれば、今後は、

「みんな留学するので、僕は国内で留学することを考えました。キャンパスで外国人の友達を積極的につくったんですよ。そうしたら、日常が留学状態になっちゃいました!」

 という方が、キャッチーかもしれません(冗談です、真に受けないように! でも、僕なら、そんなことを、ついつい考えてしまいます。人と同じことはしない!)。

(余談:3年ほど前、大学ー企業のリンケージを調べる研究で、実は、この問題を、舘野さん、木村さん、保田さんらと調べたことがあります。海外勤務へのモティベーションを従属変数にして、その規定因をロジスティック回帰で調べてみました。すると、規定因のひとつにあげられたのは、大学時代に外国人の友達や、外国人の先生との接触があっかどうかでした。このことを私たちは、半径3メートルの異文化体験と呼んでいました。もう3年前?時間がたつのは早い)

 もちろん、異文化に触れる経験、留学経験を積むことは、僕は、大切だと思っています。
 留学にもお金がかかりますので(特に留学は家計収入に依存しますので、それが常態化していく事態は、再生産の問題と絡んでくると思われます)、なかなか大変だと思うのですが、それはあったほうがよいのではないかと思います。

 おそらく、次の課題は、「質の高い留学をいかに自らデザインするか?」ということと、「留学経験からのリフレクションをいかにすすめるか?」ということにあると思いました。すなわち、 留学、「その先」は「留学経験のデザインとリフレクション」ということです。

 そして人生は続く

投稿者 jun : 2013年10月 7日 08:23


先行研究の探し方:レビュー論文には「過去への入口」と「軸」と「これからの課題」がある!?

 先行研究を効率的に調べる方法として、「レビュー論文」や「メタ分析論文」を読むというものがあります。

 レビュー論文とは、ワンセンテンスで述べるのならば「過去の先行研究を、ある軸をもうけることで、整理整頓した論文」。
 メタ分析論文とは「メタアナリシスという手法を使って、過去の先行研究の分析を統合して、知見を統合する論文」のことをいいます。

 要するに、前者も後者も

「まとめ論文」

 とお考え頂ければ結構です。
 ま、「アカデミックなNAVERまとめ」ですな。

 先行研究の概観をつかむために、レビュー論文やメタ分析論文を読むことは、研究者の方々にとっては、アタリマエのことです。が、このことについて、先日、ある社会人大学院生の方からご質問を受けましたので、今日の日記を敢えて書きます。

  ▼

 まず、どんな研究領域にでも、レビュー論文は存在することが多いものです。その調べ方は、Cinii、J-Stage、Google scholarといったサイトで、

 「自分の調べたい研究領域の概念
       +
 レビュー論文でよく用いられる用語」

 をinputすることで可能になることが多いものです。

Cinii
http://ci.nii.ac.jp/

J-stage
https://www.jstage.jst.go.jp/browse/-char/ja

Google scholar
http://scholar.google.co.jp/

 CiniiやGoogle Scholor以外にも分野ごとにたくさんの論文データベースが存在しますが、今は、研究者相手にお話ししているわけではないので、より簡単に、かつ無料で、かつ日本語で利用できる可能性の高いものにしぼって、話題をすすめます。
 日本語での文献サーチが終わられたら、英語にしてみることも大切なことですし、分野ごとのより専門的なデータベースをひろってみることも一計です。

 後者のレビュー論文でよく用いられる語とは、

「研究課題 レビュー 展開 理論 動向 メタ分析」

 などであることが多いものです。

 たとえば、今仮に、「リーダーシップに関するレビュー論文」を調べてみることにしましょう。Ciniiで「リーダーシップ 動向」などといれてみます。そうすると、それなりに論文がヒットするはずです。ぜひ、皆さんも探してみてください。かくしてレビュー論文を見つけます。

  ▼

 ところで、レビュー論文が大切なのは、なぜかと申しますと、

 1.レビュー論文の中には
   「論文を整理する軸」がある

   =先行研究を読むための「羅針盤」になる

 2.レビュー論文のなかにはさらに
  「過去のレビュー論文へのリンク=過去への入口」がある

   =さらに過去をたぐるための手がかりになる

 3.レビュー論文の中には
   「現在までの到達点」と「今後の課題」がある

   =自分の研究のオリジナリティをさぐる
    手がかりになる

 からです。
 
 先ほど申し上げましたとおり、レビュー論文とは、独自の軸やカテゴリーによって、過去の膨大な研究論文を整理整頓した論文ですから、そこには、多くの場合、「過去の膨大な研究論文を整理するための軸やカテゴリーがもうけられていることが多い」のです。典型的には、過去の膨大な研究を2軸4象限で整理して、おら、こんな整理でどうだーなんて主張しているものなら、腐るほど見つけることができるでしょう。

 しかし、たかが軸、されど軸です。軸を把握しておけば、過去の膨大な先行研究の海に、投げ出されても、少なくとも「溺死」することは少なくなります。

 また、この軸(整理のためのカテゴリー)といった整理のやり方が、レビュー論文のオリジナリティになりますので、当然、レビュー論文の冒頭では、過去のレビュー論文のあり方について言及があることが多いものです。
 レビュー論文の執筆でとわれる基準のひとつは「網羅性」です。レビュー論文には過去のレビュー論文に関する言及もありますし、過去の先行研究へのリストも存在します。
 ですので、より深く歴史を知りたいと思ったら、レビュー論文から過去をたぐっていけばよいのです。

 最後に、レビュー論文には「過去の到達点」と「これからの課題」が述べてあることが多いものです。
 以前にも申し上げましたが、研究には「オリジナリティ」がなくてはなりません。ということは、「自分のやろうとしていること」が「過去の到達点」に含まれているのならば、それは、どんなに意義深くても、「研究としては成立しない」ことになります。

 そして「これからの課題」に書いてあることは、研究的に意義が深いと研究者コミュニティが見なしていることですので、その中に自分の研究のタネを見つけられれば、それはそれで意義が確認できることになります。

 ▼

 今日は研究者にはアタリマエダのクラッカーのことかもしれませんが、社会人大学院生の方向けに書いてみました。また、このことはわたしの研究分野を想定して書いてあるので、どんな研究分野にも言えることか、どうかは僕には判断できません。

 レビュー論文を手がかりに
 先行研究の大海をぜひ冒険してみてください。
 そこにはまだ見ぬ「お宝」が埋まっているかもしれません。

 といいましょうか、、、

 研究なんて「穴」だらけです。
 世の中には「わかっていないこと」が膨大にあることを
 すぐにおわかりになるのではないか、と思います。

 そして人生は続

 ーーー

■過去の関連記事

先行研究をまとめる5つのプロセス、陥りやすい3つの罠
http://www.nakahara-lab.net/blog/2011/10/post_1803.html

社会人大学院生が抱えがちな悩み:自分の問題関心・業務経験×研究として成立させること
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「残念な研究計画書」の書くための5つのポイント!?:研究しない、絞れていない、調べない、主張しない、そもそも出来ない研究計画書
http://www.nakahara-lab.net/blog/2013/05/post_2004.html

博士論文とは「U字谷の旅」である
http://www.nakahara-lab.net/blog/2013/07/u.html

投稿者 jun : 2013年10月 4日 08:25


物語ること、学ぶこと、生きること : NPOカタリバの「人が動き、人が出会い、人が語る」事業

 全く個人的なことですが、「NPOカタリバ」という団体の理事をおおせつかっています。

katariba_web.png

カタリバ
http://katariba.or.jp/

 NPOカタリバは、2001年より、子ども・若者への教育活動を行ってきたNPO法人であり、高校生へのキャリア学習プログラム「カタリ場」と、被災地の放課後学校「コラボ・スクール」の2つの活動を首都圏をはじめ全国で展開しています。最近では、その活動が認められ「認定特定非営利活動法人」として活動を展開しています。
 前者の事業では、高校生と大学生を対話させること、そして後者では、被災地の子どもたちにカタリバスタッフが向き合うことで学習支援を可能にしています。

   ▼

 僕の場合は、理事といっても、たまに理事会に参加したり、具体的案件をカタリバの方と議論したり、おもに学術関連のことをアドバイスするだけで、あまりお役にたっている気がしません。まことに心苦しい限りですが、そのようなかかわりです。
 ですので、これまで拙ブログでは、あまり、カタリバそのものついて、触れないできました。ソーシャルメディアなどでその活動の応援をすることはあっても、敢えて、このブログでは取り上げることはしませんでした。僕自身が「カタリバを語ること」は、何だか恐れ多い気がしていたのです。

 しかし、昨日、理事会に出席し、改めて、カタリバがもつ強みを考えさせられました。そして、それについて書いてみたくなりました。

 その強みのひとつは、今村さん、岡本さんらの執行部のリーダーシップのもと、カタリバのもつ「あらゆる活動の根幹」に「語ることによる学習」をあわせもっていることだと思います。僕が勝手に思っていることなので、様々な異論はあるでしょうけれど、とりあえず、拙ブログでは、この前提で以下を書き記します。


 語ることによる学習 - 大学生は、高校生に向き合い、自分の決断や進路、そして将来を語ります。そして、居場所をいったん失った子ども達にスタッフは向き合い、真剣に語り合います。
 もともと、「語ることによる学習」は、NPOカタリバに「カタリバ事業」しか存在しなかったことときから、その「根幹」にあったものでした。そのルーツを守りゆくことが、いかに貴重で、いかに難しいかを感じさせられました。

  ▼

 社会科学研究において、「物語ること」が語られるようになったのは、それほど長い歴史があるわけではありません。
 わたしはそれが「ど専門」というわけではないですが、1980年代あたりから、人間の根源的な活動として「物語ること」が取り上げられ、1990年代には学習研究、最近では組織研究をはじめとする、あらゆる社会科学研究に、その勢いは「飛び火」していると感じています。「Narrative Turn」という言葉が、誰もが知る言葉となったのは、この20年くらいのことでしょうか。

 その研究者のひとりである、Riessman(2008)は、近著において「物語ること」の7つの効用として、1)過去によるさかのぼることによって語り手がアイデンティティを形成できる、2)語り手が第三者の納得を引き出したり、議論するため、3)ストーリーの信憑性により第三者を説得するため、4)語り手の経験に第三者を誘うため、5)語り手が第三者を愉しませるため、6)時には第三者を欺くため、7)変革をめざして、他者を動かすため、であるとしています。

 これら7つは相互依存的であり、7つに分けられていること自体にあまり意味があるとは思えませんが、物語ることの可能性の豊かさを考える上で示唆的です。

 上記を眺めてみますと、「物語ること」とは、個で完結しない、極めて社会的行動であることが、まずはわかります。それは、「語り手」と「聞き手」に、程度の差こそはあれ、「変化をもたらす活動」であることがわかります。
 そして、寺山修司が下記のような言葉を記すように、物語は「人間が、厳しい世の中や現実を生きること」と深く根源的に関連していることも忘れるわけにはいきません。

「昔のことって、よく見えるものよ。あたしの人生の登場人物たちも、みな、退場したあとは、やさしい匂いがあふれていたものよ」
(寺山修司)

 人は「過去の哀しみや苦しみ」を物語とすること、語り直すことで、アイデンティティを刷新し、物事や自己を変え、何とか生きていこうとするものなのかもしれません。物語とは、そのためのリソースのひとつとしても位置づけられます。

  ▼

 このように「物語ること」は、「生きること」、そして「変わること / 変えること」、しいては「学ぶこと」と深い連関を持ちうるものであると考えられますが、ここに問題が生じます。

 問題は、「物語る機会」とは、多忙な現代社会において失われつつあるもののひとつであり、かつ、その実現には、それなりの「コスト」がかかるということです。
 多忙になればなるほど、ハイコンタクトなものは、真っ先にコストが高いものとしてカットされます。高度情報社会は、リアルな人々の接点を、ヴァーチャルなものに回収していきました。

 考えてみれば、私たちは「物語る」ために他者を必要とします。これは先ほど述べましたように、物語るという行為自体が、社会的な行為であることにリンケージします。しかし、今の時代は「他者と相対すること」自体が貴重な時代です。
 その上、わたしたちが安心して「物語る」ためには、その他者とのあいだに信頼関係やラポールといったものが成立していなければなりません。そうでなければ、物語ることは「危うい自己表出」と転化し、自らの最もヴァルネラブルな生の部分を「剥き出す行為」になりうるからです。

 こうした「他者」を募り、人材育成を行い、子どもたちと相対させること。そして、限られた時間の中で「信頼」を培うこと。しかも、くどいようですが、これらを限られた時間と予算とマンパワーの中で集合的に実現すること。1万人を超える子どもたちに、今日も1000人をこえるキャストがかかわり、安定的な品質を提供しています。それは、最初は、業界の人が誰もが「無理」と結論づける事業でした。それに果敢に立ち向かい、挑戦した若者たちがいました。これが、カタリバの「ルーツ」のひとつである、と僕は感じます。

  ▼

 今からもう5年ほど前になるのでしょうか。多くの高校生に対して、大学生や一般人が自らの進路選択や職業について「物語る」場面を、外部から、僕が見学させて頂いたときに、まっさきに感服したのは、その点でした。
 カタリバのスタッフの方々、キャストの皆さんが、ハイコストで、貴重な「物語る行為」を、様々なツールやノウハウを駆使して、集合的に実現している場面が印象的でした。
 僕は、そのときの感想を、代表の今村さんにボイスメールでお贈りしました。カタリバであるのだから、僕も「語ること」でお答えするのがよいだろう、と思ったのです。今から考えれば、冷や汗ものですが、本当に興味深い活動だな、と思いました。

 もちろん、断っておきますが、僕は、カタリバの提供する「語りの場」が唯一万能なものだとは思いません。
 しかし、異質な他者、社会で多くの経験(その中には葛藤や哀しみも含まれるでしょう)を積んだ人々と、高校生が向き合い、自らの将来について、考える「最初のきっかけ」をもつという点において、それは、圧倒的に「あった方が望ましいもの」であると、僕は結論づけましたし、今もその思いは変わりません。
 カタリバは、今日も、そうした「物語ることの最初のきっかけ」を提供しています。

 コストをなるべく押さえ(それでも経営的には厳しいと言わざるをえません)、一般の高校にでも利用できるかたちにまで洗練した点、さらにはキャストとしてかかわる大学生や一般の方に対しても「学習」を提供しようとしている点は、非常に興味深いと感じました。
 僕個人としては、そのような思いから理事就任をご依頼いただいたとき、応援したい気持ちで、それにお答えしました。

  ▼

 カタリバは、今やのべ15000人の中高生に対して、のべ5000人くらいのキャストが中心になり「対話の場」を提供するまでに成長しています。
 しかし、美点を、学術の「洗練された言葉」と「慣れた口調」で「解釈」するのは「容易」ですが、その運営は、まことに厳しいもので、余談を許さぬものです。
 とにかく、カタリバの事業とは、「人が動き、人が出会い、人が語る」事業なのです。おいそれと、その部分をコストカットはできないのです。この事業を応援してくださる方を、カタリバはいつも求めています。

 何とかかんとか、カタリバが展開するあらゆる事業においても、カタリバがもともともつルーツを大切になさってくださると僕は思っています。
 僕自身は、あまりお役に立たない理事ですが、そんなことを思いながら、また応援したい気持ちを強くし、昨日は高円寺をあとにしました。

 みなさま、そして、企業のみなさま、
 どうか、NPOカタリバを応援お願いいたします。

   ・
   ・
   ・
 おっと、朝っぱらから熱くなってしまいました。
 暑苦しくて、すみません。
 でも、そろそろお時間です。
 そろそろTAKUZOが起きてきます。
 それでは、おいとまさせていただきます。

 そして人生は続く。

投稿者 jun : 2013年10月 3日 06:07


バースディ・リフレクション:今、僕は何をやっているのか、今後、何をアウトプットするのか!?

 昨日10月1日は、僕の38回目の誕生日でした。ありがたいことに、メール、Facebook等ふくめ、多くの方々からメッセージや御祝いの言葉をいただき、心より感謝しております。本当にありがとうございました。

3H1A9512.JPG
(この年になると、ホールケーキは無理ですね。昨日は、わたくしめの好きな栗のケーキをいただきました。カミサン、ありがとう!)

 誕生日も38回目ともなりますと、「あっ、去年の10月1日から、もう1年たったんだ」という具合に、ものすごく1年の流れがはやく感じられます。
 と同時に、この間に何をやっていたのかな、何ができて、何ができなかったんだろうと、ふと立ち止まって考えさせられる機会にもなります。10月1日は、新しい期のはじまりでもありますね。ふと立ち止まるには、よいきっかけなのかもしれません。

 というわけで、誕生日10月1日は、よいリフレクションの機会なのかもしれない、ということで、今日は勝手気ままに、自分の今やっている研究を書き記しておくことにしました。「バースディ・リフレクション」です。みなさまのお役には1ミリも立たないと思いますが、下記、ご笑覧ください。

 ▼

1.経験の浅い若年マネジャーの初期課題&学習研究
 数年前から長期にわたって従事しているのは、マネジャーの初期課題(つまづき)と、それにともなう学習に関する研究です。
 この研究の背景には、僕自身も年齢があがり、実務とは異なる多種多様な仕事を担わなくてはならなくなっていることが強い動機となっているようにも思います。日本生産性本部さん(大西さん、矢吹さん、木下さん、野沢さんら)との共同研究で、実証的調査・開発を行いました。
 こちらの成果は、一般向けに、中公新書ラクレさんから、年明けに新書を出版させていただきます。出版に際しましては、かなり多くのマネジャーの声を反映するべく、ヒアリングを広範囲にさせていただきました(ヒアリングに御協力くださった多くの方々、ありがとうございました!)。今後は、マネジャーの座談会などを開催して、生の声を収録させていただく予定です。こちらは秋山さん、中公新書ラクレの黒田さんとのお仕事です。

2.大学ー企業のトランジション研究
 京都大学溝上先生、同志社大学河合先生、中原研究室(中原・舘野さん・木村さん・保田さん)による共同研究で、電通育英会の後援を受けて実施しています。「大学時代の経験」をベースにして、就活、組織に参入後のビジネスパーソンの変化をおっています。こちらは中原・溝上編「躍進する企業人の探究:大学時代の経験からのアプローチ(仮題)」(東京大学出版会)というかたちの専門書で、来春に出版の予定です(編集者は木村さんです)。現在、各原稿が集まり、これから編集作業です。

3.海外赴任プロジェクト
 日本人マネジャーが海外赴任を行った際、どのような初期課題を抱え、どのようにそれを乗り切ることができるか。その規定因となるのは、個人要因なのか、社会要因なのか、ということを探究しています。ダイヤモンド社(永田さん、横川さん、 東園さん)らとの共同研究です。こちらは調査続行中です。一番下に調査協力依頼書を掲載させていただきましたので、どうぞもしご興味があらば、ご参加頂けますと幸いです。どうぞよろしく御願いいたします。

4.OJT指導員に関する調査
 OJTを受ける側ではなく、OJT指導員の変化を縦断的に把握するための調査研究です。中原研OBの関根さんとの共同研究です。数社に御協力をいただき、縦断調査を実施しています。先日は、N社においてヒアリングをさせていただきました(ヒアリングに御協力くださった多くの方々、ありがとうございました!)。OJT指導員の役割、定義を変えるような知見をだすことが目的です。

5.横浜教育委員会ー東大共同研究  
 横浜市教育委員会×東京大学中原研究室による共同研究です。中原が現在従事している研究としては、唯一、教育現場に関するものです。主たる研究目的は、初任教員の熟達に関するものです。
 ただ、研究を研究として終わらせるのではなく、学校調査を3年にわたって実施し、その結果を教員研修を使ってフィードバックします。いわゆる「サーベイフィードバック」の手法を使って、学校のミドルリーダーの活性化をめざしています。こちらは町史君(東大大学院)、脇本君(青山学院大学)との共同研究です。成果は、出版社未定ですが、来年には出版を考えています。

6.ピアキャリアカウンセリング研究
 東京大学三宅なほみ先生の科研分担を行わせていただいております。専修大学望月俊男先生、北九州市立大学見舘先生、舘野君、木村君、脇本君との共同研究となります。「よい聞き手」とは何かを考えています。成果は見舘先生、望月先生が論文化、英語論文化をはかっていただきました。今年が完成年度です。

7.研修開発の実践知研究
 今年1年にわたって、広範囲なヒアリングを行わせていただき(ヒアリングに御協力くださった多くの方々、ありがとうございました!)、研修開発の実践知を抽出してきました。研修開発は理論のみならず、経験や、そこで駆動する実践知をいかにすくいだすかがポイントになっている、と感じています。これらを幅広に論じます。ダイヤモンド社間杉さん、井上さんとのプロジェクトで、この冬くらいには、出版を行いたいと考えています。

 以上が研究です。このほかにもいくつかの出版プロジェクト、開発プロジェクトがあるのですが、そちらはもう少し全貌が見えてきてからお伝えさせて頂きます。なお、論文としては、日本労働研究雑誌に経験学習理論に関する論文を単著執筆・刊行させていただきました。いくつかの共著論文も今後、刊行される予定です。

 でも、こうして自分の研究プロジェクトのリスト改めて書き記してみると、各領域を接合した研究、縦断研究のパラダイムをもつ研究が多くなっている気がしますね、、、はからずも。
 また、今年は、新年冒頭に宣言させていただいたように「第二の創業期」を意識しています。もう一度、ゼロからの再スタートだと思って、2013年を仕切り直し、実務の生々しい課題と向き合いたいと考えています。

 なお、下記は、先ほどお話させていただきました「海外で活躍する日本人社員に関する質問紙調査」の御協力の依頼書です。もしご興味があれば、ぜひご参加いただけますれば幸いです。

 38歳も、実務でお役にたてるような、かつ、面白い知見をお届けできるよう、精一杯頑張ります。
 そして来年に続く。

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海外で活躍する日本人社員に関する質問紙調査
ご協力のお願い(転送自由)
============================================

【調査依頼事項】
●ご依頼先
グローバル展開をしている企業の人事/経営企画
海外事業ご担当者様

●調査対象者 
1. 近々海外赴任される方 1社何名でも結構です
2. 赴任先の上司の方(または人事の方)

●実施時期
1回目調査 :海外赴任される方に赴任前に実施 
2回目調査 :海外赴任6ヶ月後、1回目調査に回答された方と上司の方
  (または人事の方)に実施 

●質問数・回答所要時間
1. 海外赴任者の方には1回目調査、2回目調査とも約200問・25分程度
2. 赴任先の上司の方(または人事の方)には、約15問・5分程度
 
●実施方法
以下の3パターンを用意してあります。

1. ペーパー調査の場合
調査用紙(人数分)をお送りいたします。

2. WEBアンケートAの場合
人事ご担当者様から調査対象者の方のメールアドレスを提供いただきます。
その後、WEBアンケート用のURL・ID・パスワードをご連絡いた
します。

③WEBアンケートBの場合
人事ご担当者様に人数分のWEBアンケート用のURL・ID・パスワード
を発行いたします。ご担当者様から対象者の方に調査依頼をしていた
だきます。

【ご協力のメリット】
アンケート協力企業様に対しては、弊社よりアンケート集計・分析の
レポートを提出させていただきます。
今後のグローバル人材育成施策の基礎データとしてご活用下さい。

≪ご報告内容≫
■調査結果に基づくグローバル人材の要件
■調査結果からみた貴社の現状
■調査結果からみた貴社の課題
■貴社全体集計データ
■個人回答データ 

【ご参加いただく場合の問い合わせ先及び詳細資料請求先】 
株式会社 ダイヤモンド社
人材開発編集部 担当:横川・永田
hd@diamond.co.jp
〒150-8409 東京都渋谷区神宮前6-12-17
TEL:03-5778-7229

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投稿者 jun : 2013年10月 2日 08:23


人前で話をするとき「あがり症」を克服する小ワザ:会場の「ちょっと気になる方」に話しかける!?

 こう見えても、僕は、あがり症です。
 以前にも書いたかもしれませんが、講演前には胃がキリキリいたしますし、背中に嫌な汗もかきます。

人前で話をする際の「緊張・あがり」をほぐす方法!?
http://www.nakahara-lab.net/blog/2013/08/post_2069.html

 もしみなさまに機会がありましたら(!?そんな暇な奴いない)、僕が講演する会場のトイレでウォッチしてみてください。何度も何度もトイレにあらわれる様子を、もれなく見つけることができます。

「講演中、急に、何を、もよおしちゃったらどうしよう?」

 と気が気でなくなるのです(笑)。

 たぶん、見た目はクールに何事もない顔をしているかもしれませんが、講演前に考えていることは、そんなことです(笑)。すみません、話の内容を全く考えていなくて・・・(笑)

 ところで、最近、皆さんにアドバイスをいただいて(ちょっと前のことですが、Facebookで皆さんからたくさんのアドバイスをいただきました)、僕が試して効果的だったワザがあります。それは何かと申しますと、

「会場の聴衆の皆さんに、こちらから声をかけて雑談し、あらかじめ味方になってもらう」

 という小ワザです。この場ではお名前をあげさせていただくことはしませんが、教えてくださった方に、心より感謝します。実は、この方法、これまでにも会場にいらっしゃる知り合いには、実践させていただいておりました。最近は、これを拡張し、会場にいらっしゃる「知らない人」にも、積極的に声をかけるようにしています。

 特に、難易度の高そうな講演やワークショップの前には、これを実践することにしました。すると、かなり効果的だな、と感じています。

 会場には、いろいろな人がいらっしゃいます。
 中には「ちょっと気になる方」もいらっしゃいます。
 
 特に

「あっ、この人にツッコミ受けちゃったら、オレ、ひるんじゃうな」といったようなすごみのある方

 とか、

「あっ、上司に言われて、無理矢理、このワークショップに参加させられたんだろうな」と思われる方

 とか、

「この方、さっきから携帯に出ていて、本当に忙しい中、来て下さったんだろうな」と思われる方

 とか、そういう「ちょっと気になる方」には、こちらから積極的に声をかけ、講演前に、知り合いになってしまいます。そうすると、非常に気が楽になるから不思議です。なんか、会場の雰囲気が「ふんわり」とするような感覚があります。

 あれだけ気になっていた「講演中、何を、もよおしちゃったら、どうしよう?」という不安も、考える暇がなくなるので、乗り越えられるようになってきました(笑)

 皆さんは、どんなあがり症克服ワザをお持ちですか?
 またFBでもシェアしてくださいね。

 そして人生は続く。

 ーーー

追伸.
 先日「女性の活用」というテーマで、人事専門誌・労政時報さまのインタビューをお引き受けいたしました。女性ということに焦点をしぼって研究をしているわけではないのですが、手持ちのデータを男女ごとに再分析した内容をお話しています。ご興味あらば、ご高覧ください。このたびのインタビューをお引き受けするにあたり、図書館でいろいろと文献をあさりましたが、個人的には、「Gender × Socialization(組織への適応・社会化)」「Gender × Management Development(マネジャーとしての発達)」は、まだまだこれからの発展分野だと感じました。最後になりますが、同編集部、前田昌彦さんには、心より感謝いたします。よい学びの機会をありがとうございました。

rouseijihou_jinji.png

労政時報
https://www.rosei.jp/readers/login.php#latest_article
 
 ーーー

追伸2.
 本日10月1日、38歳になりました。心機一転、頑張ろうと思います。どうぞ引き続きよろしく御願いいたします。

投稿者 jun : 2013年10月 1日 07:05