「W字」を描く異文化適応プロセス:「レジ前の長蛇の列」と「英訳できない会議での発言」

 先日は、首都圏某所で、研究会に参加していました。組織に関する最新文献を、皆で読んでいたのですが、その中に、「異文化適応」に関する論文がありました。とても興味深い論文で、大変勉強になりました。

 昨今は、月並みな言葉ですが「グローバル社会」と言われ、「ヒト・モノ・カネが境界なく全球を動き回る社会」が生まれ出てきています。私たちは、否が応でも、そういう社会に生きておりますので、「働く場所」も、また次第次第に、以前よりは「全球的」になりつつあります。

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 しかし、境界を越えるのは、「飛行機に乗って機内食を食べ、また、ビールでも飲んで」いれば、難なく可能になってしまうものですが、境界を越えたあとの適応というのは、なかなか難しいものです。

 人が異文化にふれると、その滞在国でカルチュアショック(Culture Shock)を受けることは、よく知られていますね。
 これまで過ごしていた自分の国と滞在国との異文化距離(文化の違い)が激しければ激しいほど、このカルチュアショックは大きくなるといわれています。

 滞在国に着いた最初は、誰もが気分高揚している。つまりは、最初は「モティベーションの高み」にいる。
 しかし、その後、「カルチュアショック」が積み重なり、滞在者のモティベーションは「えぐる」ように急激に下降します。ひと言でいえば、「こんなハズじゃなかった」期というのでしょうか。箸が転がっても、イライラする時期というのがあります。
 しかし、その後、少しずつ少しずつ、異文化に慣れる、あるいは、変えられないものに対してあきらめがつくようになると、滞在者のモティベーションは向上してくる、と言われています。
 つまり、異文化の開始時に、滞在者のモティベーションのプロセスは「U字」を描くということですね。

 しかし、先日読んだ文献には、滞在国を離れ帰国した後のことが記述してありました。
 つまり、滞在国を離れ、自分の母国に帰ったあとでも、今度は「逆適応」、すなわち「自国文化へのカルチュアショック」が生じる、ということです。
 今まで慣れ親しんだ異国の文化を「学習棄却」し、母国の文化に慣れることもまた、「U字」を描くということですね。ですので、先ほどの「U字」は、2つ重なるので、「W字」になるということです(Gullahorn & Gullahorn 1963)。

 僕は異文化適応の専門家ではないので、この理論が、どれだけの信憑性を持ちうるのかについては判断はしかねます。
 しかし、「自国を離れる - 滞在国に慣れる - 滞在国を離れる - 自国に慣れる」のプロセスを縦断的に捉える、という視点は、興味深く感じました。

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 自分の留学時代を思い起こし(約10年前、ボストンに滞在しました)自分のことに置き換えて考えてみますと、まず「異国に慣れる=第一のカルチュアショック」でもっとも記憶にあるのは、「レジの列の長さ」です。

「スーパーなどで、レジが異様に混んでいて客が長蛇の列をなしているのに、店員が馴染みのお客さんとくっちゃべりながら、レジ打ちをしている様子」が非常に印象的でした。最初は、そうした様子に怒りを感じていましたが、次第に、「そういうもんだわな」「別に待ちゃいいんだ」と諦めました(笑)。

 「自国に慣れる=第二のカルチュアショック」は、ボストンでの生活をたたみ、首都圏に戻ってきた直後に生じました。

 最も印象に残っているのは、「長くて、つまらない会議」です。会議での発言が「伏線を張りながら、オブラートにくるまれている発言が多いな」と感じました。「クソダイレクトな英語での表現」になれていたせいかもしれません。「英訳しようとしても、きっと、英語にはならない、曖昧な会議での発言」に、ひとりで、勝手に、イライラしていました。
 しかし、そんなことも長くは続かず、1ヶ月もする頃には、「そういうもんだわな」「別にいいんだ、これでうまく回っているんだから」と思うようになりました。

 以上が、僕の「W字」の印象深い出来事(エピソード)でしたが、こうしたことなら、おそらく、留学経験、海外赴任経験の長い人なら、多かれ少なかれ、誰もが持っているのかな、と思います。

 そういう「W字」の「エピソード集」みたいなものがあると、これから海外赴任なさる方、留学なさる方にとって、非常にinformativeであるような気も致します。あっ、私だけじゃないんだな、と思うと、少しは冷静に、自分の気持ちの「揺れ」を客観視できるのかな、と思いました。

 また、そういうネタをもとに、海外生活体験者が、ゆるりと皆で話し合うと、かなり面白いだろうなと、文献を読みながら、感じていました。

 そして人生は続く。