MOOCは誰でも、いつでも、どこでも学べるメディアではない!?:主体性とは「非主体的行為」の反復である!?

 先日の大学生研究フォーラム2013では、様々な議論がありましたけれども、もっとも話題に上ったのは、Self-Agency(主体性)に関する議論です。

大学生研究フォーラム2013
http://www.dentsu-ikueikai.or.jp/forum/2013.html

大学生研究フォーラム2013(終了報告)
http://www.nakahara-lab.net/blog/2013/08/2013_3.html

 主体性は、「学習の世界」ではおなじみの概念であり、「主体性とは何か?」ということには、それこそ吐いて、捨てて、腐るほど議論と先行研究がありますが、ここでは、そのことを指摘なさった安西祐一郎先生の定義にちなんで、

「主体性=自分の目標を自分で見いだし、実践する個人の資質・能力」

 と定義しておきましょう。

 安西先生は、「いつでも、どこでも、無料で、自分で学べるコース」であるMOOC(大規模オンラインコース)を引き合いにだして、「MOOCでの学習とは、「主体性」を前提にしていること」をお話ししておられました。

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 一般には、MOOCは

誰でも、いつでも、どこでも、学び、議論することができるオンラインコース

 と考えられますが(ここではそうさせてください)、少し考えてみると、これには大きな「前提」が隠されていることがわかります。

 便所スリッパで専門家に後頭部をスコーンとやられることを覚悟して、断言するならば、

 MOOCとは、

誰でも、いつでも、どこでも学び、議論することができるオンラインコース

 ではありません。

そうではなく、MOOCとは

「自ら目標をもち、自ら学ぼうとする人」だけが、いつでも、どこでも学び、議論することができるオンラインコース

 なのです。

 つまり、その設計思想は、「個人の頑健な主体性」を前提にしているということになります。反面、「自ら目標をもち、自ら学ぼうとしない人」「自らの目標に中途半端な人、自ら学ぼうという意志がヤワヤワな人」は、MOOCで学ぶことはできません。

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 MOOCに限らず、現代社会は、このように「主体性」を前提にした装置やメディアが溢れています。
 人文社会科学者でしたら、こうした現状を形容して、「自ら動き、自らの歴史を編成し、自ら実践していかざるをえない社会」すなわち「個人化された社会」と概念化するかもしれないのですが、さしずめ、この主の理論的議論は、このくらいにしておきましょう。

 実践的にここで問題になるのは、これら「主体性」というものがいかに獲得されるのか、ということです。
 もし社会が「主体性」を要請するのだとして、その動態が解消される方向に向かわないのであれば(それがよいことだとは思いませんが、残念ながら、そうなる可能性が高いと僕は踏んでいます)、私たちにできることのひとつは、「主体性を獲得させる機会」を、いかにつくりあげることができるのか、という議論です。

 そして、ここからが難しいところなのですが、ある意味で、「主体性」というものは「誤解をはらみやすい概念」なのです。
 主体性は表面上「自己 / 自ら」が焦点化されておりますので、一見したところ、それは「個人に閉じられた概念」のように感じます。
 しかし、それはそうではないというのが、現在の学問的トレンドのように僕は感じます(僕はどちらかというと構造主義者なので、こういう学問の思潮に敏感です。そこには、一定の認識の偏りがあることを自覚しています。もし、そう思わない方は、下記の文章は、真に受けないで結構です)。

 こちらも、その筋の専門家の方から、便所スリッパで「カンチョー」されることを覚悟して(発想がTAKUZO並ですな、我ながら)、ざっくりとひと言で申し上げますが、「主体性」とは、「外部からの他律的な働きかけや影響」と、それを通じた「目標の達成」の反復によって獲得されるという考え方を、僕は支持します。

 もっとぶっちゃけて、くだけて言うと、 

「まず、他者の監督のもと、一応、自分で目標をたてて、それに対して挑戦する。自分以外の、熱意ある人(主体的な人)からフィードバックを受けて、試行錯誤していく。そうしたことを繰り返し行っていくことで、だんだんと、外部からの働きかけがなくても、振る舞うことができるようになる。以前は、"一応自分で目標をたてられたもの"が、"自分で目標をたてられるようになる"。その光景を、外部から、他者が目にしたとき、"あの人は主体的だね"と言うようになる」

 ということですね。こう言ってしまえば、なんだ、そんなことかよ、ですね。

 生まれてすぐに「主体的」であった人はいません。
 人は「非主体的な行為」の「反復」を通じて、
「主体的な人」になるのです


 「主体性」の基盤には、それと一見矛盾すると思われる「非主体性」と「反復」が含まれるのではないか、ということがポイントです(非主体的行為が言い過ぎならば、「半主体的行為」でもかまいません)。非主体的行為、ないしは、半主体的行為の反復を通じて獲得された日常的行為に、他者は「主体性」というラベルを付与する、ということですね。

 もし、この議論が仮に正しいのだとした場合、「主体性」を問う際に大切なことは、それを「個人の資質」には還元しないということです。
 そして、ここに「論理矛盾」が発生します。
 それは「自分の目標を自分で見いだし、実践する個人の資質・能力」という、極めて「個人的な概念」を「個人に還元しない」という「ねじれ」に他なりません。理論的にはこれで正しいのだけれども、一般の感覚とはややズレる。この「ねじれ=わかりにくさ」こそが、「主体性の概念」が誤解された場合に生じる「危うさ」に他なりません。

「主体性」を問う際に大切なことは、それを「個人の資質」にだけには還元しない。そうではなく、それを「社会的な働きかけによって獲得された(学習)されてしまったもの」と見る。
 
 だからこそ、

 「どういう境遇に生まれるか?」
 「どういう人々と接してきたか?」
 「どういう学習機会が提供されていたか?」
 「何を反復してきたのか?」

 によって、「主体性の獲得」に差が出てくる(社会的格差)、ということになりますね。主体性を獲得した個人のおかれている立場・状況、といった、より「ソーシャルなもの」に一定の目配りが必要だということになります。

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 ちょいと話が長くなりました。
 ブログを書くのは20分、それも「電車の中」と決めておりますので、もうそろそろやめます。ただいま大学院入試ウィークの真っ最中で、それどころではありません。

 でもね、「主体性を要請される装置」があふれる社会とは、そういうことです(ざっくり)。

 続きは、また、いつか、今度、気が向いたら。
 そして人生は続く。