アタリマエだと思っていることで、実は、すごいもの

 この国で「アタリマエのサービス」だと思われているものほど、別の国の視点から見れば、「スゴイこと」はたくさんあります。そのことにもっと、自信とリスペクトを持ちたいよね。僕の言いたいことは、それ以上でも、以下でもありません。
 
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 たとえば「給食」
 小学校以上に子どもを通わせている方ならば、おわかりのことと思います。しかし、それを、通常、何とも思わないものです。
 しかし、子どもの食べる意欲を失わせず、しかも、650キロカロリー、タンパク質25グラムにあわせ、かつ、なるべく多くの食材を使うことに、どんなに人が苦労しているか。

 私たちにとっては「アタリマエ」です。しかし、世界には、給食がある国は、そう多いわけではありません。しかも、栄養に偏りのあるジャンクフードを子どもが毎日食べている国も多々ある。

 この国で、アタリマエのことは、アタリマエではありません。

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 たとえば「宅配便」
 ある留学生がいいました。

「日本でもっともスゴイものは何かといったら、僕は宅急便をあげます。どんなに頑張っても、日本の宅配便のシステムだけは真似できない。あんなに正確で、ホスピタリティがあふれているシステムはありえない。しかし、私が不思議なのは、日本人は、それをアタリマエだと思っていることにある」

 世界には、「時間通りに届かない宅急便」もあります。
 いいえ、「届かない宅急便」すらも。

 この国で、アタリマエのことは、アタリマエではありません。 

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 たとえば「医療」
 僕は留学中、やむなく病院にかからざるをえない状況になったことがあります。そのときに、必要な検査をするのなら、15万円と言われました。医師ではなく、保険会社の電話オペレーターにね・・・。

 この国では、安心して、病院にかかれます。
 しかし、それは「アタリマエ」のことなんかではありません。

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 たとえば「交通システム」
 先だって、ある外国人とともに、地下鉄に乗っていました。1分たりともおくれない、正確な電車到着時間。駅にあった時刻表を目にして、彼は言いました。

「日本の地下鉄には、時刻表があるのかい?」

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 この国に不足していることは多々あるんでしょう。
 そうだよね、いろいろあるよ。

 でも、反面、すごいこともあります。アタリマエだと思っていることが、実は、すごい。そして、その中には、世界に自信をもって輸出できるものも多々ありそうですね。そして、そういうすごいものは、何とか、維持・改善していってほしいものです。

 そして人生は続く

 

投稿者 jun : 2013年8月30日 08:03


聴衆をもれなく!?ガッカリさせるプレゼンの秘訣:いたら怖い「へりくだるスティーブ・ジョブズ」!?

「えー、わたしのようなものが、人前でお話させていただくなど、誠におこがましいと思うのですが、このたび、縁あって、ご登壇の機会をいただきました。ですので、本来、わたしは、人前でお話できる身分ではないのですが、そういうことでございますので、これから、ひとつ至らないところがありましても、ご容赦いただきまして・・・」

 僕は、仕事柄、様々なプレゼンを伺うことが多いのですが、中には、こんな「枕?」から、プレゼンをはじめる方がいらっしゃいます。
 プレゼンをどうやろうと、個人の勝手ですから、好きにやればよろしいと思うのですけれども、少なくとも、僕が指導する学生さんには、こういう「枕」をやめるように言うことがあります。

  ▼

 先の言葉、要するに、講演の冒頭、「形式上へりくだる」ことで「予防線を張っている」といえると解釈可能でしょう。

 つまり、先の言葉を翻訳いたしますと、

 わたしのようなペーペーが、これから、しょーもないお話をします、デヘ。中には、クソの役にも立たないことや間違ったことを言うかもしれませんが、でも、お許し下さいね、なんせ、かんせ、ペーペーですから、、ペロ。

 ということですね(笑)。
 ひと言でいえば「デヘ、ペロ」です。

 しかし、壇の下で聴いている聴衆の方が、このメッセージの意味するところを、額面通り「真に受けること」はありうるのでしょうか。

 先ほどのメッセージを聴いて、壇の下で聴いているオーディエンスは、

 そうかそうか、壇上にいるチミは、ペーペーか、かわいいやつよ。じゃあ、しょーもないことを言っても、ゆるちてやろうか、よしよし、かわいげのある奴よ・・・

 と本当に思うのか、ということです。

 へそ曲がりなのかもしれませんが、少なくとも僕は、上記のようには、1ミリも思いません。

 僕ならば、むしろ、

 あなたの話をぜひ聴きたいと思って、せっかく、この場にきたのに、「オレはペーペー、話はしょーもない」としょっぱなから言われると、調子が狂っちまうんだよな。時間に都合をつけて、あなたの話を聴きたいと思った僕自身の判断は、間違っていたのだろうか。

 と、少し切なく思ってしまいます。

 あるいは、僕はへそ曲がりですので、「ひとつ至らないところがありましても、ご容赦いただいて」というメッセージを、さらに深読みして、「脅迫的コミュニケーション」として、読み替えてしまうことも、ないわけではありません。

「ひとつ至らないところがありましても、ご容赦いただいて」といっているけど、本当は、こう言いたいのかなぁ・・・お気にめさないことがあっても、許してね。ていうか、許せよ。おい、許せ、聴衆!。最初に、オレはペーペーだと断っておいたじゃねーか。最初に謝っておいてんだから、いやなら、そこで聴くの、止めろ、ヴォケ。

 と言いたいのかな、と少しうがった見方をしてしまいます。
 ま、そんなつもりで、謙遜の言葉を口にしている方は、いないとは思いますが。ごめんね、「深読み戦死」じゃなかった「深読み戦士」で(笑)。

 ま、最後の方は冗談にしても、いずれにしても、先の言葉は、「講演者 - 聴衆」の間に「境界」をつくる行為であることには変わりがないようです。そして、この「境界」をもって、自分を守ろうとする。先ほど「予防線」という言葉を使ったのは、そういう理由からです。それは「境界をつくり、自分を安全なところにおく」行為です。

   ▼

 畢竟、プレゼンとは「表現」です。

「表現」とは「自己を晒す行為」でありますし、「自己をヴァルネラブル(脆弱)にする行為」でもあります。
 しかし、舞台にのぼり、自己を他者の眼前にさらし、自らをヴァルネラブルにしてまでも行いたかった「表現」だからこそ、他者に「刺さる」こともあります。ラッキーな場合は、そこに「新たな機会」が生まれることもあります。

 ですので、学生の皆さんには、

 人前で話すこと、すなわち「表現すること」を、いったん許諾したのなら、腹をくくりなさい。「表現」とは「自己を他者に晒し、機会をつくること」。だから、堂々と、自分を舞台で晒しなさい。

 時に、そのようなことを言う場合があります。
 まことに暑苦しい教員ですみません。

 そして人生は続く

 ーーー

追伸.

「へりくだるジョブズ」って、存在していたとしたら、怖いですね。想像してしまった(笑)。

「えー、わたしのようなものが、人前でお話させていただくなど、誠におこがましいと思うのですが。おっ、そういえば、申し遅れました、わたくし、スティーブ・ジョブズと申しまして、まだまだ、若輩者でございます。ここはひとつお手柔らかに御願いいたします」

 笑。

投稿者 jun : 2013年8月29日 09:57


オーケストラに学ぶ、雑誌をつくる!?:実験的ワークショップを2つやります!?

 今、2つの新規ワークショップ(?)企画が、ひそかにひそか!?に進行しています。両者ともに「世界初!?」、こういうのは、言ったものがちです(笑)。いずれも、企画者のひとりである僕自身も、非常に愉しみにしています。

  ▼

 ひとつめのワークショップは「オーケストラに"聴く"プロフェッショナル論」です。こちらは、坂口慶樹さん、山岸淳子さんらが中心になって企画してくださっている企画です。

 「オーケストラに"聴く"プロフェッショナル論」は、オーケストラの生のリハーサルを見学させていただき、指揮者と楽団員との緊張走る瞬間をじっくりこの目で見て、さらには本番のコンサートも見るという活動がベースです。
 何が変わって、何が変わらぬのか。そして、「プロフェッショナル」とは何か、いかにモティベーションを保つのかを、皆で対話しながら、考えます。
 やや抽象的にいうのならば、「オーケストラ」の生の観察を通して「組織行動(Organizational Behavior)」を考える、というのかな。特に「専門性、プロフェッショナリティ、モティベーション」等について考えていけるのではないか、と思います。

 皆で拝見させて頂くのは、ロシア・ボリショイ劇場の芸術監督などを歴任した世界的巨匠指揮者アレクサンドル・ラザレフのリハーサル・コンサートです。
 ラザレフは、とりわけ厳しく実りの多いリハーサルを行うことでも知られており、そのリハーサル手法はサッカーの名匠オシムに似ているとも評されています。

 こちらは、坂口さん、山岸さん、ご両名のご尽力、さらには、日本フィルハーモニー交響楽団の多大なるご協力をいただき、実現の運びとなりました。この場を借りて感謝御礼申し上げます。

日本フィルハーモニー交響楽団
http://www.japanphil.or.jp/

 実施は9月下旬。
 もう少しで参加希望を開始します!
 募集はメーリングリストからです。ブログにアップされる頃には、席がなくなっているかもしれません。ご興味のある方は、どうかご登録を御願いします。
 大丈夫だよ。「怪しいイベント」の情報は流れますが、「怪しいツボ」をおすすめしたりはしません。

中原研究室メルマガ
http://www.nakahara-lab.net/mailmagazine.htm

  ▼

 ふたつめは、見木久夫(スイベルアンドノット)さん、牧村真帆さんらと企画している、新規ワークショップです。

スイベルアンドノット
http://swivel.co.jp/index.html

 こちらは、「個人でつくる小さな雑誌(リトルプレス)」を1日で作成、印刷・製本をして、その日の夕方から、パーティを演出し、実際にお客さんを呼んで愉しんでしまおうというワークショップです。

 Playful Press And Party Publishing, Inc

 と仮称しています。Inc.に意味はありません。バランスがとれそうだから、今思いついてつけただけ。組織的にも、全くの妄想です。

 要するに、このワークショップは、

 リトルプレスをつくるワークショップ
 パーティの演出をするワークショップ

 の2本立てとなっており、それらを1日で体験できる。1日で、しかも、特別な道具は使わず、アートやデザインに特に造詣がない方でも、誰でも、できる、愉しめる、というのが、わたしたちの挑戦的課題です。そのためには、どのような環境(Environment)を用意しておかなければならないのか。かくして、皆さんで作成する本は、「仕事に関係する本」です。
 自分の仕事を表現し、他者に伝える、という意味では、キャリア論やリフレクションの問題と絡んでいますね。

 こちらは、クリエィション後に祝祭(パーティ)を用意しています。その祝祭のあり方が、「本を媒介としてコミュニケーション実験」でもあります。どんなコミュニケーションが生まれるのか、とても楽しみです。

 開催は11月、12月の予定。
 企画が煮詰まるのに、もう少し時間がかかりそうですが、僕自身もとても愉しみにしています。

 こちらも募集はメーリングリストからです。

中原研究室メルマガ
http://www.nakahara-lab.net/mailmagazine.htm

  ▼

 両者ともに「新規の試み」なので、何が起こるかはわかりません。
 しかし、ともすれば「ルーティンに支配されそうな自分の日常」を、何とかかんとか、自ら突き動かしつつ、心ある方々とともに「様々な実験」を試みたいと考えています。

 年を重ねるうちに、「実験(Experiment)」「実験的(Experimental)」という言葉が好きになってきました。

 それほど、ちょっと油断すると、すぐに自分の日常が「ルーティン」に支配され、「非実験」「非実験的」に転化してしまう可能性を孕んでいるからかもしれません。

 皆さん、最近、「実験」してますか?

 そして人生は続く

投稿者 jun : 2013年8月28日 08:13


僕が高校生に知って欲しいと思った7つのこと

 先日、東大で開催された「大学生研究フォーラム2013」の2日目は、高校教諭の方々に、「大学の今、仕事の世界の今」をお伝えする内容でした。

大学生研究フォーラム2013、盛会にて無事終了しました!(心より感謝です) :中原のパワーポイント資料公開
http://www.nakahara-lab.net/blog/2013/08/2013_3.html

 僕は、高校で行われてようとしているキャリア教育!?というのものに全くの、甚だしいほどの「門外漢」なので、激しいアウェイ感と、強烈な違和感をもって、その場に参加していました。

 国主導?のキャリア教育!?でめざされているもの??、審議会などで議論されている仕事能力やらほにゃらら能力やらの構成概念??が、どうも、僕の知っている「仕事の世界の現在 / これから」と、どうにもズレており、そのズレを自分の中で消化するのに、時間がかかっていたのです。

 もしかすると、この違和感は、先だって、昨年でしょうか、某キャリア教育 / 職業教育系の学会の基調講演にお呼び頂いたときにも感じたものと同じかもしれません。

 仕事柄、僕は、経営企画・人事の方々とお話をすることが多いのですが、そこの皆さんが前提にしていることと、キャリア教育的世界?で話題とされていることの「あいだ」をつなぐことが、僕には本当に時間がかかりました(いまだに終わってはいません・・・)。

 こうしたズレがあるのは、もしかすると、僕が全くの「門外漢」だからかもしれません。今後とも、さらなる勉強と自己研鑽が必要なようです。

  ▼

 とはいえ、あまりにもわからないため、会の最中、僕は、ひとつのことに集中していました。

 キャリア教育を構成するほにゃらら能力?の柱やら、概念やらは、全く知りませんが、これからの時代を考えるうえで、僕がもし高校生にだったら、何を語りえるかを、考えていたのです。

 より話を具体的にするために、高校生として、自分の子ども、TAKUZOを据えました。もし、10年後、TAKUZOが高校生になったとき、僕なら、彼にわかるなるべく平易な言葉で、何を語り得るか。
 それも7つだけ選ぶとしたら、これから彼が進学、仕事の世界に入るうえで、何を知っていて欲しいと思うのか。

 僕が高校生のTAKUZOと語りたい7つのことが下記のリストです。
 ひと言で申し上げますと、彼にはポジティブなことも、ネガティブなことも含めて、「リアリティ」を伝えたいと思いました。

  ▼

1.大学は「人生のゴール」じゃない
  ・人生の成功を約束する「唯一万能な方法」は存在しない
  ・大学へ行くことは社会的に一定の意味がある。
    しかし、ゴールではない。

2.キャリアは紆余曲折、漂流必然。でも、節目判断
  ・プランは節目でたてる
  ・だが、プランはプラン。残念だけど、思い通りにはならない
  ・でも、プランがあるから修正できる

3.世の中は「変わり続けている」
  ・今日生まれる仕事もある
   今日消える仕事もある
  ・前の世代の常識は、君の世代には
   あてはまらない可能性が高い

4.一生「学ぶこと」はついてまわる
  ・「受験」はいつか終わる。
  ・学び続けることは終わらない
  ・ひとりで学ぶよりも、関係から学ぶ
   「他者とともに為すこと」で学ぶ

5.いつかは必ず「自分の仕事」で
    「食べて」いかなければならない
  ・緊急時は公的支援もありうる

6.組織も「いろいろ」、仕事も「いろいろ」
  ・仕事によって「条件と報酬と将来性」は違う
  ・組織によって「慣行と風土と常識」は違う
  ・経験と人脈がつけば、「自分」で
   仕事や組織を「つくること」もできる

7.仕事に「パラダイス」はない。
  ・でも工夫次第で「楽しむこと」はできる
  ・「戦略的逃走」「意図的反抗」も必要な場合もある

  ▼

 結局、これかよ、という感じですね(笑)。
 専門家の方々は、なんじゃ、こりゃと思うかもしれません。すみません、門外漢なので。こうしてみると、月並みです。本当に。でも、それくらいしかないよねぇ・・・(笑)。
 でも、僕が、TAKUZOに知っていて欲しいのは(たぶん高校生のうちから知っていても、ポカンでしょうけど)、こういうことです。僕が彼に知っておいてほしいことは、凡なんとか力とか、ほにゃらら基礎力とか、生きるほにゃらら、みたいな、抽象的なものではなく、具体的、かつ、リアルなものなのです。

 これらのことは「説教」されても、ピンとこないと思います。
 もっというと、どんな手法をもってしても、そのリアリティは伝えきれない、語りきれない。
 だって、そうでしょ。「これから」をいくら語っても、なかなか、まえもって、そのリアルは伝えきれない。でも、やらないよりはましなのかな、と。
 そして、もし、やるのであれば、彼が高校で仕事のことを学ぶのだとしたら、こうしたことを、「先達の経験の語りの中から知って欲しい」と僕は思います。
 多くの高校生がこれから参入するであろう組織の中で、生きている人々、組織のリアルを先達として経験した人々の「リアルな語り」と「語りを媒介とした対話」の中から、こうしたことを感じて欲しいな、とは思いました。
 そんなこと、すでにやられていると思うのですが、まことに「素人考え」で、本当にすみません。

 ま、そんなことを考えていた、フォーラム2日目でした。
 そして人生は続く。

投稿者 jun : 2013年8月27日 06:31


出会いでコケれば、みなコケる!? : あまりにも静かな、不可視の闘い

 先日、ある方から、

「今週、研修で、人前で、話をしなくてはならないのだけれども、今から工夫できることは何かないか。研修は悉皆なので、参加者の中には、いろんな人がいる・・・あべし」

 というご相談を受けました。
 あまりたくさんご助言させていただいても、「今からすべてを工夫できるとは限らない」かもしれないので、僕は、少しだけお話しました。

「もし、気合いを入れるのだとしたら、一番"最初"、つまり「出会いの瞬間」に気合いをいれた方がよいかもしれません。一番最初の、出会いのタイミングで、3つをしっかり理解してもらっていただくとよいかもしれません。それは価値づけ、効力づけ、支援づけの3つです」

「価値づけ」「効力づけ」「支援づけ」というのは、僕の造語で、「3つの異なる意味づけ」をあらわす言葉です。
 たかが「意味」かもしれませんが、されど「意味」です。人は「意味」だけで生きているわけではないのですが、「意味が浮遊するもの」に、なかなか耐えられません。

 僕は、とくに、大人のモティベーションを考える上で、これら3つの意味づけに配慮することが大変重要だと考えています。

 繰り返しになるかもしれませんが、大人は「意味づけ」の曖昧なものに耐えられない。「意味づけ」の部分を「位置づけ」といってもいいかもしれません。

 逆に「意味づけ」や「位置づけ」がいったん明確になったものに対しては、自律的に振る舞い、行動することができます。

  ▼

 さて、早速、第一の「価値づけ」とは何でしょうか?

「価値づけ」とは、

 何がめざすべきところで、なぜめざすのか?
 学び終えると、どんなメリットが生じるのか?

 ということに関する「意味」です。

 第二の「効力づけ」とは、ひと言で述べるのならば、学習する不安(Learning Anxiety)の低減です。学ぶことには、負担感や不安がつきまといます。
 ですので、「効力づけ」とは
 やればできるんじゃないだろうか?
 負担や失敗する不安はそれほど高くないんじゃないだろうか?

 ということに関する意味づけです。

 第三の「支援づけ」とは、「自ら律するものを支援する」という意志です。
 
「支援づけ」とは、

 もし立ち上がるのなら、最大限支援します
 最大限、あなたを受容して、物事をすすめます

 という意志の表明です。

 これらは、特にティーチングの最も最初に表明される必要があります。途中で行ったりすると、あまり効果はないかもしれません。

 これら3つの観点から意志を示し、学習者といわば心理的な学習コントラクト(Psychological Learning contract)に近いものを結ぶことが重要かもしれません。

 僕の場合、たとえば、自分が担当しているコースでは、最初の45分はこれらのコントラクトに、じっくりと時間をかけます。
 ここはどんな場なのか? どんなことをめざすのか? そこでは、どのように振る舞って欲しいのか。これから、何が起こるのか。僕にできることはなにか。

 それらを十分、参加者の方々にご理解いただいたうえで、

「それでは質問はありますか? 僕は、このように場を、すすめたいと考えていますが、それでよろしいですか?」

 とアプローチすることにしています。この瞬間がもっとも緊張する瞬間であり、勝負です。

  ▼

 月並みな言葉ですが、「何事も最初が肝心」です。もっと砕けた言い方が許されるならば

「出会いでコケれば、みなコケる」

 です(泣)。

 たとえば、教育現場では、クラス担任をまかされた場合、「最初の7日間」が勝負だともいいます。この7日間で、学級づくりの方針をしめし、規範をつくることができるかどうか。
 その成否が、その後の1年を決めると、先日お逢いした志ある先生はおっしゃっていました。

 ちょっと前にお逢いしたマネジャーの方は、海外赴任の際には、最初の7日間は緊張するとおっしゃっていました。
 そこで大きな方針を示し、信頼してもらえるようにつとめる。そこで失敗すると、海外の場合は「マネジャー自身が見限られる」とも。

 そのように考えると、「物事の最初」、出会いの瞬間とは、「目に見えない闘い」のようなものかとも思えてきます。

 出会いとは、「あまりにも静かな、不可視の闘い」
 そして人生は続く

投稿者 jun : 2013年8月26日 10:10


マグロなる休日!?

 僕は「マグロ」です。
 休日だろうと、祝日だろうと、ホリディだろうと、バカンスだろうと、正月だろうと、盆ちゃんだろうと、常に「動いて」いないと、エラに水が入ってこないので、死んでしまいます(笑)。動くことで、呼吸ができる。動かなければ、シオシオのパー(泣)。

 自宅で2時間以上じっとしていたことは、記憶の限り、この10年、一度もありません。生まれてからなら、3時間以上は、自宅にいたことはありません。
 勘の鋭い方なら「ははーん」とおもわれたかもしれませんが、もしかすると、少し「ビョーキ」かもしれません(泣)。そういえば、先日、カミサンが、ある本を読んで、僕に言いました。

「この本にでてくる症状から考えるに、アンタ、ヤマイにかかってるらしいよ」

 まことに嬉しいことです(号泣)。
 おかげで、家族は「年がら年中、市中引き回しの刑」です。家族としては、本音をいうと、体力的にも、大変なところもあるようです(笑)。ごめんよ、でも、だめなんだ。

  ▼

 今日は、最近、自分が出かけた展覧会で、特に面白かったところに、TAKUZOとママを連れて行きました。「展覧会ハシゴの刑」です(笑)。

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 午前中は、目黒美術館の「PAPER展」です。

PAPER展
http://mmat.jp/exhibition/archives/ex130720

「紙」という素材にこだわったアート作品を展示している展覧会ですね。どの作品も非常に面白く、「遊び心」があります。面白い!

 もっともTAKUZOがハマッたのは、寺田尚樹さん(テラダモケイ)の、「1/100 建築模型用添景セット」です。
 建築模型に配置する人型の人形が、ユーモラスに、「人生のよくある生活シーン」を演じています。

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 興味深いのは、目黒美術館のいたるところに、この添景セットの人形が配置されていました。この演出、「遊び心」あるよなぁ。
 ワークショップのデコレーションでも、この添景セットは使えそうですな。メモメモ。

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 目黒美術館の至る所、階段の踊り場、トイレの中、喫茶室のテーブルに、紙の人形のおりなす、様々な光景がある。非常に、印象深い演出でした。

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 午後からは、先日出かけた「シュルレアリスト展」です。


シュルレアリスト展に行ってきた!:「新しい物事を生み出すためには何が必要か?」という問い自体のナンセンスさ

http://www.nakahara-lab.net/blog/2013/08/post_2072.html

 こちらでは、まずは、42Fの展示室で、20世紀のアートムーヴメントであるシュルレアリスムの作品を見ました。

 その後、1Fにあるワークショップスペースで、シュルレアリストの描画技法、デカルコマニー、コラージュなどを、家族全員で体験しました。
 子連れファミリーには、後者で過ごした時間が長いくらいです。まことにありがたいセルフワークショップでした。スタッフの方々のご尽力に心より感謝いたします。長居して、すんません。また、ありがとうございました。

tougou_bi01.png

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 明日は、小生とTAKUZO、2人で過ごす日曜日です。
 9時から合気道。
 その後は、また、もれなく「市中引き回しの刑」です。自宅で「まったり」は、1秒も、できないよ(笑)

 そして人生は続く

 ---

追伸.
 早速、わが家の至る所に「添景セット」のオブジェが配置されはじめました! 水槽の前やら、便所やら、眼鏡置きスペースやら・・・。

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 これ、増殖するぜ(笑)。

投稿者 jun : 2013年8月24日 17:09


蛇の健寿司で「伝えること / 教えること」を熱く語るミュージシャンと歯医者と研究者!?

 先だって、いつもお世話になっている目黒の歯医者さん・佐氏英介先生と(サウジ歯科)、JAZZ PIANO PLAYERの金子雄太さんと、渋谷・蛇の健寿司に出かけました。

サウジ歯科
http://sauji-dental.com/

AQUAPIT ORANGE(AMAZON)
http://ow.ly/obwcv

 今日の話題は「伝えること / 教えること」。
 寿司屋にぴったりの(!?)、なかなかマニアックな話題ですね。日本全国の見渡しても、寿司を食いながら、こんな話題を愉しんでいる人は、少ないことでしょう(笑)。

 その日のメンバーは、年齢的には30代後半をこえ、それぞれの領域・業界で、「中堅のプレーヤー」になりつつあるわけですが、そろそろ、若手に、技術や知識を伝える頃にさしかかっています。それで、どういう風に、それを行っているか、どんな苦労があるか、など、話題に花を咲かせました。酒も寿司もガシガシすすみ、あっという間の数時間でした。

2013_jyanokensushi.png

  ▼

 全く異領域の人と話す時間というのは、なかなかエキサイティングで、愉しいものです。おまけに寿司もうまかった。最近、ものすごく忙しかったですし、その日は、ちょうど書きためていた単著論文を投稿した日でしたので、自分へのご褒美と言うことで、こういう贅沢な日もあってもいいのかな、とも思います。

 ちなみに、その日の話題は「伝えること / 教えること」だったわけですが、興味深いのは、帰り際、3人が一様に同じようなことを、酔いどれで、言っていたことでした。

「この年になって、ようやく、ちょっと、落ち着いてきたって感じ」
「まだまだ、僕なんか、小僧ですよ」
「僕なんか、まだ生まれてませんよ」

 10代ー20代のみなさん(!?)、今は、想像できないかもしれませんが、30代中盤ー40代前半というのは、まだまだこんな感覚なのです。
 外見は、ややオッサン入ってきていますが、内側は、まだまだ。そして、あっという間に、瞬きする暇もなく、気づけば、ミドル・中堅と言われる世代になっている。

 自分は何も変わっていないのに・・・。
 そして、ミドルの人生は続く。

2013_jyanokensushi_02.png

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※まだ夏の味覚、新子あるそうです。でも、もうそろそろ、コハダになっちゃうみたいですね。

■蛇の健寿司(夜のみ)
東京都渋谷区道玄坂1-20-4
TEL:03-3461-4288
(英語メニューもあり)

大きな地図で見る

投稿者 jun : 2013年8月23日 08:49


わたしは"みんな"に入るんですか? : 「就業後の飲み会」というノスタルジックなコミュニケーション戦略

 ちょっと前のことになりますが、ある方から、こんな話を伺いました。

 ある会社で、数十名の職場メンバーをひきいている、ある上司が、メンバー全員を集めて、いつものように朝礼をはじめた。
 朝礼の最後に、なかば言い忘れたかのように、少し小さな声で、突然、職場のメンバーに、こんな提案をした。

 「今日は暑いし、景気づけに、"みんな"で飲みに行こう・・・」
 
 いつもは、自分から言い出すことはなく、若手がメンバーに声をかけているのに、この日に限って、上司自ら、職場メンバーに提案をした。
 しかし、この声に、職場のメンバーは、一瞬凍り付いた。そして、ザワザワとしはじめる。
「おかしいな」と思った上司は、近くにいた若い女性メンバーを指名して、いったい、何があったのかを聞いてみた。すると、帰ってきた答えは・・・

 わたしは"みんな"に入るんでしょうか?
 皆さんが気になさっているのは、自分は"みんな"に入るのか、ということだと思います。

  ▼

 現在の職場には、様々な雇用形態の方々がいます。
 正社員、準社員、派遣社員、契約社員、嘱託職員、アルバイト・・・。性別もさまざま、場合によっては、国籍も様々です。能力も、拘束時間も、キャリア意識も、モティベーションも、組織・職場に対するコミットメントもさまざま。現在のマネジャーは、こうした「職場の多様性」をマネージ(やりくり)しなければなりません。

「みんな」に対してなされた上司の突然の「飲み会」の提案に対して、メンバーがざわついたのは、誰までが「みんな」なのかが、一様に判断できなかったからです。

 職場にいる、すべからく、すべての人々が対象なのか。それとも、マネジャーといつも走り回っている正社員層だけに対して、マネジャーが語りかけたのか。朝礼の最後に、小さな声でなされた上司からの提案だっただけに、それを、上司が、いったい「誰」に「届けよう」としたのか、みながわからなくなりました。そこで生まれた問いが、

「わたしは"みんな"に入るんですか?」

 という問いです。

  ▼

 考えてみれば、「就業後に行われる飲み会への突然の誘い」、というもののは、「ダイバーシティが高くない職場」を前提にしていることが、よくわかります。

 職場には、育児や介護をやっている人、共働きの人、短時間勤務で働く人・・・様々な人々がいます。これらの人々は「突然の誘い」には応じられないことが、少なくありません。
(ちなみに、共働き家庭のわが家も、悲しいかな、それには全く対応できません・・・)

 対して、突然の誘いは、いつ誘っても、まぁまぁ、答えることができることを前提にしています。
 つまりは、長時間労働を前提にしていて、かつ、誘っても断られることのない非対称な関係性、さらには組織や職場に対するコミットメントが高く確保されていなければ、「就業後に行われる飲み会への突然の誘い」を口にすることは、なかなか難しいのです。

 妄想力をはたらかせていえば、「就業後に行われる飲み会」は「日本人・男性・正社員で、しかも、猛烈に働く社員」とのコミュニケーション戦略としては、非常に有効だったかもしれない、と思います。しかし、現在の職場は、それが奏功しなくなりつつあります。

  ▼

 ここで間違ってはいけないことは、「就業後に行われる飲み会という名のコミュニケーション戦略」は、なかなか奏功しないことも多いのですが、一方、「コミュニケーションの必要性」自体は、「多様性あふれる職場」において、さらに重要になってきている、というアイロニーです。

 多様性あふれる職場とは、「ほおっておけば、人がまとまらない、組織として機能しない場所」のことをいいます。そういう場では、なおさら、「人をまとめるためのコミュニケーション戦略」が必要になります。
 つまり「飲み会」というコミュニケーション戦略は使えない。しかし、コミュニケーションは今以上に必要である、ということです。

  ▼

 嗚呼、私たちは、今、就業後の飲み会以外のコミュニケーション戦略を探している途上にあるのかもしれません。

 こういうお話をしますと、ノスタルジーに浸りたい気持ちもわからないわけではないですが、「職場の多様性」がさらに高まることはあっても、低まることはないだろうな、というのが、僕の個人的な見解です。
  
 そして人生は続く。

 ーーー

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本日の読売新聞朝刊にて、グローバルな人材活用について、お話させていただきました。同社記者の鶴結城さんには、大変お世話になりました。心より感謝です。ありがとうございました。

投稿者 jun : 2013年8月22日 06:59


「大丈夫?」という気遣いの言葉が、「大丈夫じゃない相手」を追い込む可能性!?

 相手を気遣い、よかれと思って口にする言葉ひとつひとつが、必ずしも、相手のためにならない事態というのは、少なくないものです。

 最近、臨床心理学がご専門の倉光修先生(東京大学)と、ある仕事でご一緒させていただいているのですが、倉光先生とのやりとりの中から学ばせて頂くものは、誠に多いものです。心より感謝しております。

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 たとえば、昨日は、倉光先生との会話の中で、こんなことに気づかされました。

 たとえば、あなたが、今、なんだか浮かない顔をしている部下が気になって、声をかけるとします。あなたなら、上司として、どんな声をかけるでしょうか。素朴にもっとも瞬間的に脳裏に浮かんだ言葉は何でしょうか・

 僕だったらどうするかと一寸考え、脳裏に浮かんだ言葉は、ベタベタのセリフでした。

「ねぇ、大丈夫?」

   ・
   ・
   ・

 でも、よく考えてみますと、このセリフは、奏功する場合もある反面、相手を追い込んでしまう可能性もないわけではありません。

 なぜなら、権力があり、ジャッジする側の人間から、「大丈夫?」と聞かれると、権力がない人間としては「大丈夫としか答えられない」という可能性もあるからです。
「本当は、大丈夫じゃない」としても、「大丈夫?」と迫られると、つい「大丈夫です!」と口にしてしまう。たしかに、そういう局面があるような気がします。なるほどなぁ、と思いました。

 相手を気遣うこと、相手の助けになること。
 本当に難しいことです。
 一片の言葉が、人を安心させることも、人を追い込むこともあるのだから。

 そして人生は続く。

投稿者 jun : 2013年8月21日 11:17


MOOCは誰でも、いつでも、どこでも学べるメディアではない!?:主体性とは「非主体的行為」の反復である!?

 先日の大学生研究フォーラム2013では、様々な議論がありましたけれども、もっとも話題に上ったのは、Self-Agency(主体性)に関する議論です。

大学生研究フォーラム2013
http://www.dentsu-ikueikai.or.jp/forum/2013.html

大学生研究フォーラム2013(終了報告)
http://www.nakahara-lab.net/blog/2013/08/2013_3.html

 主体性は、「学習の世界」ではおなじみの概念であり、「主体性とは何か?」ということには、それこそ吐いて、捨てて、腐るほど議論と先行研究がありますが、ここでは、そのことを指摘なさった安西祐一郎先生の定義にちなんで、

「主体性=自分の目標を自分で見いだし、実践する個人の資質・能力」

 と定義しておきましょう。

 安西先生は、「いつでも、どこでも、無料で、自分で学べるコース」であるMOOC(大規模オンラインコース)を引き合いにだして、「MOOCでの学習とは、「主体性」を前提にしていること」をお話ししておられました。

  ▼

 一般には、MOOCは

誰でも、いつでも、どこでも、学び、議論することができるオンラインコース

 と考えられますが(ここではそうさせてください)、少し考えてみると、これには大きな「前提」が隠されていることがわかります。

 便所スリッパで専門家に後頭部をスコーンとやられることを覚悟して、断言するならば、

 MOOCとは、

誰でも、いつでも、どこでも学び、議論することができるオンラインコース

 ではありません。

そうではなく、MOOCとは

「自ら目標をもち、自ら学ぼうとする人」だけが、いつでも、どこでも学び、議論することができるオンラインコース

 なのです。

 つまり、その設計思想は、「個人の頑健な主体性」を前提にしているということになります。反面、「自ら目標をもち、自ら学ぼうとしない人」「自らの目標に中途半端な人、自ら学ぼうという意志がヤワヤワな人」は、MOOCで学ぶことはできません。

  ▼

 MOOCに限らず、現代社会は、このように「主体性」を前提にした装置やメディアが溢れています。
 人文社会科学者でしたら、こうした現状を形容して、「自ら動き、自らの歴史を編成し、自ら実践していかざるをえない社会」すなわち「個人化された社会」と概念化するかもしれないのですが、さしずめ、この主の理論的議論は、このくらいにしておきましょう。

 実践的にここで問題になるのは、これら「主体性」というものがいかに獲得されるのか、ということです。
 もし社会が「主体性」を要請するのだとして、その動態が解消される方向に向かわないのであれば(それがよいことだとは思いませんが、残念ながら、そうなる可能性が高いと僕は踏んでいます)、私たちにできることのひとつは、「主体性を獲得させる機会」を、いかにつくりあげることができるのか、という議論です。

 そして、ここからが難しいところなのですが、ある意味で、「主体性」というものは「誤解をはらみやすい概念」なのです。
 主体性は表面上「自己 / 自ら」が焦点化されておりますので、一見したところ、それは「個人に閉じられた概念」のように感じます。
 しかし、それはそうではないというのが、現在の学問的トレンドのように僕は感じます(僕はどちらかというと構造主義者なので、こういう学問の思潮に敏感です。そこには、一定の認識の偏りがあることを自覚しています。もし、そう思わない方は、下記の文章は、真に受けないで結構です)。

 こちらも、その筋の専門家の方から、便所スリッパで「カンチョー」されることを覚悟して(発想がTAKUZO並ですな、我ながら)、ざっくりとひと言で申し上げますが、「主体性」とは、「外部からの他律的な働きかけや影響」と、それを通じた「目標の達成」の反復によって獲得されるという考え方を、僕は支持します。

 もっとぶっちゃけて、くだけて言うと、 

「まず、他者の監督のもと、一応、自分で目標をたてて、それに対して挑戦する。自分以外の、熱意ある人(主体的な人)からフィードバックを受けて、試行錯誤していく。そうしたことを繰り返し行っていくことで、だんだんと、外部からの働きかけがなくても、振る舞うことができるようになる。以前は、"一応自分で目標をたてられたもの"が、"自分で目標をたてられるようになる"。その光景を、外部から、他者が目にしたとき、"あの人は主体的だね"と言うようになる」

 ということですね。こう言ってしまえば、なんだ、そんなことかよ、ですね。

 生まれてすぐに「主体的」であった人はいません。
 人は「非主体的な行為」の「反復」を通じて、
「主体的な人」になるのです


 「主体性」の基盤には、それと一見矛盾すると思われる「非主体性」と「反復」が含まれるのではないか、ということがポイントです(非主体的行為が言い過ぎならば、「半主体的行為」でもかまいません)。非主体的行為、ないしは、半主体的行為の反復を通じて獲得された日常的行為に、他者は「主体性」というラベルを付与する、ということですね。

 もし、この議論が仮に正しいのだとした場合、「主体性」を問う際に大切なことは、それを「個人の資質」には還元しないということです。
 そして、ここに「論理矛盾」が発生します。
 それは「自分の目標を自分で見いだし、実践する個人の資質・能力」という、極めて「個人的な概念」を「個人に還元しない」という「ねじれ」に他なりません。理論的にはこれで正しいのだけれども、一般の感覚とはややズレる。この「ねじれ=わかりにくさ」こそが、「主体性の概念」が誤解された場合に生じる「危うさ」に他なりません。

「主体性」を問う際に大切なことは、それを「個人の資質」にだけには還元しない。そうではなく、それを「社会的な働きかけによって獲得された(学習)されてしまったもの」と見る。
 
 だからこそ、

 「どういう境遇に生まれるか?」
 「どういう人々と接してきたか?」
 「どういう学習機会が提供されていたか?」
 「何を反復してきたのか?」

 によって、「主体性の獲得」に差が出てくる(社会的格差)、ということになりますね。主体性を獲得した個人のおかれている立場・状況、といった、より「ソーシャルなもの」に一定の目配りが必要だということになります。

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 ちょいと話が長くなりました。
 ブログを書くのは20分、それも「電車の中」と決めておりますので、もうそろそろやめます。ただいま大学院入試ウィークの真っ最中で、それどころではありません。

 でもね、「主体性を要請される装置」があふれる社会とは、そういうことです(ざっくり)。

 続きは、また、いつか、今度、気が向いたら。
 そして人生は続く。

投稿者 jun : 2013年8月20日 08:09


「全球対話型講義」が実現する未来!?

 ちょっと前、あるところで、研修を担当させていただいたのですが、その際の、参加者からの研修評価データ(主観評価データ)を、担当者の方からいただきました。

 以前、ブログにも欠かせて頂きましたが、その研修は「東京 - 名古屋 - 大阪の遠隔地3地点をリアルタイムで結んで行われたマネジメント研修」でした。
 東京から一方向的に配信するのではなく、途中、ちょっとしたやりとりがあったり、遠隔地でもグループエクササイズがありました。

 研修担当者の皆様が、3度のテストをへて、苦労して実現した研修で、合計250名の参加者の方々が、同時に、マネジメントについて学びました。
 まずは、担当者の方のご苦労に、またご参加頂いた皆様の主体的な参加に、この場を借りて御礼致します。ありがとうございました。

  ▼

 研修は無事終了したのですが、終了後、非常に気になっていたのは、かくして行われた研修に、どのような評価が下されたかでした。

 特に気になっていたのは、東京 - 名古屋 - 大阪の3地点の群間の平均値、すなわち、「遠隔で参加した場合」と「リアルタイムで参加した場合」の評価データの差でした。

 結果を先に申し上げますと、3地点の評価データ差は、小数点第二位の差。すなわち、ゼロコンマいくつの差でした。
 ローデータを持っているわけではないので検定や効果量を確かめたわけないのですが、おそらく、その差は、ほとんど考慮しなくてよい、ということなのかもしれない、と認識しています。

 すなわち、少なくとも今回の研修で得られた主観的評価データに関する限り、「遠隔で参加した場合」と「リアルタイムで参加した場合」の有意な差はなかった、ということです。対面で受け手も、遠隔地で受けても差は少ない、ということになりますね。

  ▼

 これは常識とは少し異なる結論です。
 一般には「遠隔で参加した場合」と「リアルタイムで参加した場合」には、後者の方が評価データはよくなると想像できます。しかし、現実にはそうならなかった。それはなぜでしょうか。

 これには、いくつかの要因(仮説)が考えられそうです。検証可能なデータをもっているわけではないので、以下は妄想と位置づけていただければと思いますが、いくつかの理由を考えてみました。

 まず第一に、東京 - 大阪 - 名古屋をむすんだ動画像や音声に、ほとんど遅延や乱れがなかったこと。
 一昔前の技術ですと、やはり遠隔地との通信には、遅延やら音声の乱れなどが存在しますが、最近のネット技術は、そういうことは、非常に少なくなってきています。
 通信システムの中には、ハイビジョン画質(HD)で動画像を送受信できるものもあり、この場合、少なくとも、見た目には、あまり困難を感じません。

 第二に、そもそもの研修内容が、グループワークを含んだものであったため、そもそも、遠隔地の参加者がモニタにうつるテレビ画面を長時間見ていることではなかったこと。

 今回の研修をするにあたり、20分レクチャーをして、エクササイズ、また20分くらいレクチャーをして、エクササイズという感じで、ひとつひとつのコンテンツを、なるべく小さく刻みバイトサイズ(Bite-Size)にしました。
 まぁ、僕のプレゼンスタイルは、いつもそうなのですが、このスタイルが、遠隔地で同時中継の研修にはあっているのかもしれないな、と思います。

 第三に「双方向のやりとり」があったこと。
 これは、十分な時間を確保できたわけではなかったのですが、やはり長い間、語りかけられることがなければ、遠隔地の参加者の方々は、孤立感を深めるのかな、と感じています。

 上記3点、くどいようですが、いずれも仮説的妄想であることは言うまでもありません。どなたかご専門の方には、ぜひ、探究して頂きたいものだと思います。

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 今回の研修は、「問題点」がなかったわけではありません。

 自分としては、いくつかの反省点があるのですが、最も問題だと思っていることのひとつは「プレゼン資料の作り方」です。

 僕のプレゼンのスタイルは、これまでアニメーションや効果などを全く使わず、1枚のスライドをまるまるだして、それを「手持ちのポインター」で指示しながら、解説するというものでした。
  もちろん、東京で受講なさっている方には、これでも大丈夫なのですが、遠隔地で受講なさっている方は、これでは難しいのです。

 なぜなら、どんなに動画像がよくなったといっても「現地で指示された赤のポインターの小さな赤点」を、遠隔地においても鮮明に投射することは、難しいからです。
 結果として、「東京でポインターで指示しながら話している内容を、遠隔地では、リアルタイムでは追い切れない」という事態が発生したと伺っています。参加者の方々には、本当に悪いことをしてしまいました。申し訳なく思っています。
 これを防止するためには、パワーポイントや教材の構成の仕方を変える必要がありそうです。

 もうひとつは、東京で撮影するカメラの都合で、僕の壇上での動きには制約が存在することに、最後まで、僕自身が、なかなか慣れなかったことです。

 僕の講演をお聞き頂いたことのある方はご存じだと思いますが、僕は、プレゼンの間中、動き回ります。
 しかし、遠隔地での中継では、カメラを含む技術的制約から、壇上での動きに制約が加わりました。壇上で、僕は、おおよそ3メートル四方の枠の中で動くことになったのです。もちろん、このこと事態や制約が悪いといっているわけではありません。担当者の方は、本当に熱心に、今回の試みを実現してくださいました。心より感謝いたします。

 むしろ、自分としては、自分が行っているプレゼンの身体性を実感しました。プレゼンと身体の動きは、一見関係ないように思いますが、発信する内容に強い影響を与えることがわかりました。大きな収穫、よい勉強をさせていただきました。

 いずれの問題も、これまでの自分のプレゼンのあり方やスタイルを変える必要のあることで、一朝一夕には、変更はできません。でも、今回の経験を糧にできれば、また新しいスタイルが確立できるのかな、と感じています。

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 話が長くなりました。

 要するに、いろいろな問題はあるにせよ、今回の機会は、僕の認識を新たにするものでした。それまでの僕は、遠隔講義というのは、どこかクオリティに自信が持てないメディアと感じるところがあったのですが、準備を周到に行えば、「目を覆いたくなるような差」がでるとは限らない、ということを感じることができたからです。

 そして、もし、それが継続的に観察できる事実であるのだとしたら、「遠隔同時双方向研修」というのは、コストの面から、今よりも、十分に普及する可能性があるように思います。

 名阪2地点の150名の方々に東京におこしいただくコスト、インストラクターが他2地点に別々の日程で訪問するコストを考えてみていただくと、もし繰り返し、それが利用されるのなら、十分に設備投資をカバーするだけのメリットがありそうです。

 そして、今後は、インストラクターやファシリテーターに、遠隔同時双方向研修を可能にするような、プレゼンテーション技術、インストラクション技術、ファシリテーションスキルが求められてくるようになるのかな、と妄想します。
 また、そういう研修が増えてくれば、事務局、ロジスティクスのスキルも新しいものが求められます。テクノロジーに関するスキル、調整スキルは、さらに高度なものを求められるのではないでしょうか。

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 思い起こせば、数年前のちょうど今頃。夏の暑い頃でしょうか。東大-NHK-早川書房のコラボレーションで、ハーバード大学のマイケル・サンデル先生を、東京大学にお迎えして、「白熱教室 in 安田講堂」を実施させていただいたとき(当時、中原は、このイベントの総括責任者でした)、サンデル先生が、おっしゃっていたひと言が忘れられません。

「自分は、全世界の多様で、志あふれる学生を、同時に遠隔で結び、対話型の哲学の授業をしてみたい」

 一字一句同じではないですが、サンデル先生は、当時、そんなことをおっしゃっていました。僕も、きっと、そのような日は、実現するだろうな、と思いました。

 技術の革新に従い、学習のあり方も変化します。
 対話型講義は、さらに深化した「全球対話型講義」(グローバルに展開する対話型の講義)に進化する日は、近いのかもしれません。
 そして、そうなれば、様々な「知の生態系」が、変化を被るでしょう。それに連動して、「知の生態系」の背景にある経済モデル、ビジネスモデル、そこに居合わせる「知の保持者」たちの経済モデルなどが、相当の修正を迫られるのだろうな、と思います。

 最後になりますが、このような機会を与えて下さった研究企画チームのみなさまに、心より感謝いたします。「実験マインド」をともにし、様々なトライアルを繰り返してくださいましたことも嬉しいことでした。ありがとうございました。
 
 そして人生は続く。

投稿者 jun : 2013年8月19日 08:18


大学生研究フォーラム2013、盛会にて無事終了しました!(心より感謝です) :中原のパワーポイント資料公開

 昨日、「大学生研究フォーラム2013」(主催・東京大学大学総合教育研究センター、京都大学高等教育研究開発推進センター、電通育英会)が終了しました。
 引き続き、今日、日曜日は「高校の先生方」を対象とした研究フォーラムが引き続いて開催されております。小生、登壇もあり、まだまだ気を抜けない状況です(笑)。

 取り急ぎ、昨日の中原のパワーポイント資料を公開させて頂きます。ファシリテーション用、ラップアップ用の資料ですので、その旨、ご了承下さい。クソの役にも立たないかもしれません。ご興味がございましたら、ご笑覧ください。

大学生研究フォーラム2013(中原プレゼン資料) from nakaharajun

 最後になりますが、ご登壇いただきました安西祐一郎先生(日本学術振興会)、佐藤博樹先生(東京大学大学院)、松尾泰樹さん(文部科学省)、田中潤さん(株式会社ぐるなび)、奈良崎修二さん(日産自動車)、そしてパネルディスカッションで刺激的なご議論をいただいた平田純一先生(立命館アジア太平洋大学)、笹倉和幸先生(早稲田大学大学院)、そして多大なるご支援をいただきました電通育英会・森理事長、里村さん、吉村さん、ご参加頂きました450名の皆様に心より感謝いたします。

 ありがとうございました。

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■大学生研究フォーラム2013 2日目「高校教諭のためのシンポジウム(午前:中原の資料:井尻先生のご発表へのコメント)」

2day daigakusei ver2 from nakaharajun

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■大学生研究フォーラム2013 2日目「高校教諭のためのシンポジウム(午後:中原の資料:中濱先生のご発表へのコメント)」

2 2 daigakusei_kenkyu from nakaharajun

投稿者 jun : 2013年8月18日 09:58


本日「大学生研究フォーラム2013」を開催します:学生のうちに経験させたいことは何か? - 大学生の今、企業人材活用の最前線」

 今日から、東京大学・本郷キャンパスで「大学生研究フォーラム2013」を開催します。

img2013.jpg

大学生研究フォーラム2013 プログラム
http://www.dentsu-ikueikai.or.jp/forum/2013.html

 2008年の第1回開催から数えて6回目を迎える「大学生研究フォーラム2013」。もともとは京都大学 高等教育研究開発推進センターと電通育英会が共催していたものですが、2年前から、東京大学大学総合教育研究センターも加わりました。今年は、いよいよ首都圏初の開催、東京大学での開催になります。

 今年のテーマは、

「学生のうちに経験させたいこと―大学生の今、変わる企業」

 です。

「大学・大学生の最新の現状を知ること」「企業の人材活用の最前線を知ること」を通して、最終的には「学生のうちに経験させたいこと」を考えて頂く、という立て付けになっています。

 具体的には、「大学とグローバル化」「大学生の学び、キャリア」「大学生のインターンシップ、企業」「大学生の留学」「変わる採用」「変わる働き方・人材活用」などのトピックが扱われる予定です。

 明日、2013年8月18日(日)は、今度は高校教諭の先生方を対象としたフォーラム「高校生のうちに身につけさせたいこと」を開催します。

 暑い季節に、熱い意見がかわされる会になりそうです。定員450名、満員御礼です。まことにありがとうございます。心より感謝いたします。

 現在、最終準備中。
 さて、大学にそろそろ行きますか。
 
 もしご参加いただける方がいらっしゃいましたら、気軽にお声がけ下さい。会場で、また、お逢いしましょう。

 そして人生は続く。

投稿者 jun : 2013年8月17日 05:22


実務家の問題関心にジャストミートする「質的研究法」の書籍を探す!?

 先だって、ある企業の方から、ご相談を受けました。

 その方、曰く、

「仕事柄、現場の問題点などを拾い上げるために現場に出向きます。現場で働いているマネジャーなどのヒアリングで、でてくる内容は、玉石混交で、様々な問題があります。しかし、こうした現場でおこっている問題を、どのように解釈すればいいのでしょうか。何か参考になる本や論文をご紹介いただけますか?」

 という内容でした。

 非常に熱心に現場に出向き、仕事に取り組まれている様子、わたしは、頭が下がります。お問い合わせありがとうございます。

 ただ、この問いに対して、どのようにお答えしてよいか、少し悩み、お返事をお返しするまで時間がかかりました(申し訳御座いません)。お問い合わせがあったので、研究室の本棚を見渡してみたのですが、この方の問題関心にジャストミートするであろうものを見つけることに、考え込んでしまったのです。

  ▼

 おそらく、上記の問いに関連する類書といえば、

1)ヒアリングに関する本
2)エスノグラフィーやフィールドワークに関する本
3)質的研究の概念生成に関する本

 ということになるのでしょう。

 しかし、いずれの本においても、既に出版されているものはどちらかというと「研究」が主眼になっており、また研究者、研究入門者が読む仕立てになっているものがほとんどです。もちろん、質的研究手法は僕の専門外ですので、実務家が読むときにジャストミートする本ががあるのかもしれません。が、管見に関する限り、僕は、あまり見つけられませんでした

 実務家を対象に、「実務に役立てること」を想定している質的研究法の本は、あまり少ないのが実状ではないか、と思うのですが、いかがでしょうか。(「研究」法の本なのですから、実務家向けにそもそも書かれていないのは、致し方ないことですね)

 結局、1)に関しては、すでに絶版になっているもの、2)に関しては研究者を想定して書かれていますが、わたしが最も体系的に整理されていると思っているもの、3)に関しては講義形式で概念生成法を論じているものをご紹介しました。

 これでよかったのかな、と思いつつ、また感想をお聞かせ願いたいものです。

  ▼

 聞くこと
 ヒアリングすること
 概念をつくりあげること

 これらは、必ずしも研究者が行うことではなく、実務を行っていれば、必ずどこかの局面で、ついてまわることのように思います。

 質的研究にせよ、量的研究にせよ、大学で学ぶ社会科学の研究方法論の中で、意外に実務の場面になって必要になってくるものは - それが言い過ぎなら、持っていて損にならないもの - 少なくない印象があります。

(だから、大学時代に研究の現場で身につけた知的生産のサイクルは、組織に入って知的生産に関連する仕事に従事するのなら、無駄にはならないと思います。もちろん、程度や厳密さは異なります。また組織においては、政治が駆動しますので、正しい解答が、必ずしも採用されるわけではありません。ですが、あたりまえのことですが、知的生産のサイクルはかなり似ています)

 実務家の問題関心にジャストミートした研究方法論の類書が、さらに充実してくればいいな、と感じています。

 そして人生は続く
 

投稿者 jun : 2013年8月16日 07:58


サマーキャンプの学習効果とは何か?

Camp_summer2013_2.png

 何で、そんなヘナチョコで、泣き虫さんなのか?

 いつの時代も、父親というものは、息子をそのように思う瞬間があるものなのかもしれません。

 数十年前に、自分の父親から、自分自身もそのように見られていたことは、敢えて忘れるか、極力見ない、なるべく思い出さないようにするのです。自分のことは棚におき、一方で、自分の息子の「不甲斐ない瞬間」を嘆く。

 もちろん、我が息子は、いっつもかっつも、ネコもしゃくしも?、ヘロヘロでヘナチャコで不甲斐ないわけでは全くないのですが、同じ同姓として、そんな息子の瞬間が目につきます。

 こんな泣き虫さんで、
  この世の中を生き残っていけるのか?
 
 こんなヘナチョコさんで
  将来、複雑怪奇な社会を渡っていけるだろうか?

 もっと自信を持ちなさい!
  大丈夫、オマエならできるよ!
   やればできるじゃないか・・・

 父親として、自分の息子に対するそういう思いをもつ背後には、当然のことながら、息子への愛情と将来への思いが隠されているようです。息子からすれば、まことに、ありがた迷惑な愛情?かもしれませんけれども。

 ▼

 夏休みも中盤?に入り、明日から、愚息・TAKUZOが、親元を離れ、サマーキャンプに出かけるようです。

 親元を離れ、キャンプ施設に入り、同年代の子どもと、遊び、ごはんを食べ、寝る。
 いつも、ママとべったりしている愚息が、「本当に、親元を離れ、2日間を過ごせるものなのか、大丈夫なのか」、心配がないというわけではありません。

 しかし、心配も去ることながら、ここでふと疑問がわいてきました。
 
 いやいや、そもそも
 キャンプとはいったいどういう「学習経験」なんだろう?

 ふと疑問に思ったので、早速、図書館に問い合わせ、いくつかの先行研究を読みました(笑)。
 僕は全くの門外漢かつ専門外ですが、一読したところ、キャンプにはたくさんの先行研究があるようです。ほほー、面白いね。

 先行研究によりますと、キャンプとは、心理的・社会的・教育的・身体的な学習効果をもつものだそうです(Ewert 1987)。

 こうした枠組みにおける、最もスタンダードな研究としては、キャンプの経験を独立変数にとり、これらの諸要因に関連する作業指標を従属変数に設定する研究が多数存在します。これら諸研究では、キャンプ前(PRE)ーキャンプ後(POST)の個人の変化を見るようです。

 特に研究が進んでいるのは、心理的要因の変化に関するもので「セルフエフィカシー」「自己統制感」「自己概念の変容」「自信」などの、モティベーション要因(心理要因)がとりあげられていました。

 要するに、キャンプの経験を通して、参加者は「やればできる感」「自分自身に対する自信」をもつということになりますね。

 オマエなら、やればできるよ!
    大丈夫、自信を持ちなさい!

(ちなみに、全く門外漢ながら、これらの先行研究を概観し、プチアイデア思いつきました。先行研究においては、わりとざっくりANOVAに持ち込んでいるのですが、ここの詳細を見ていくアイデアです。特にキャンプ滞在中の経験がキャンプ前後の変化にもたらす効果が、あまり考慮されていないことが気になりました(すみません、すでに先行研究が多々あるのだと思いますけれども)。「キャンプ滞在中における諸経験への参加度(ないしは評価)」をダミー変数化して、いくつか投入することができれば、キャンプ滞在中のどういう経験が、PRE-POST間の変化に寄与するかを予測するモデルをたてられるのではないでしょうか。素人考えのジャストアイデアです)

 ▼

 明日から、TAKUZOは2泊3日で外泊します。
(このブログは8月13日に執筆されています)

 今、僕がこの日記を書いている横では、ママがTAKUZOと、宿泊の荷物をリュックに詰め、最終確認を行っています。カミサン、お疲れさん!

TAKUZO_CAMP_2013.png

 TAKUZOには、願わくば、この2日間で、様々な経験をし、また、明るく愉しく元気に、自宅に帰ってきて欲しいものです。

 まだまだ人生は続く。

投稿者 jun : 2013年8月14日 07:00


「新しい物事を生み出すためには何が必要か?」という問い自体のナンセンスさ

「新しいアイデアや商品を生み出すためには、何をすることが必要なのか?」

 こういうセンテンスを、メディアなどの論調で聞くたびに、「へそ曲がりの僕」は、口にこそ出しませんが、心の奥深いところで、ふと、思ってしまうことがあります。
 そういう「認識自体」が、いいえ、先ほどのセンテンスの背後に横たわる「思想自体」が、「新しいものを生み出すこと」とは、「縁遠い考え方」なのではないか、と思ったりするのです。
 むしろ、その考え方の延長上に「創造」は存在するのかな、と。
 もっというならば、私たちは「新しい物事を生み出すためには何が必要か?」という問いの「答え」を語り得ないのではないかん、と思うのです。語り得ぬものには、沈黙せざるをえない。

 どういうことかと申しますと、先ほどのセンテンスは、その背後に「合理主義」といっていいような考え方が色濃く反映しています。

 すなわち、「新しいもの」を生み出すためには、何らかの「条件」や「手段」が存在している、とまず考えます。その上で、その「条件」や「手段」が「満たされれば」、何かが「必ず」生まれるはずだ、という考えるのです。別の言い方をすれば、「機能主義的な世界観」といってもいいかもしれません。何かをInputすれば、Outputがうまれ、それらInput-Outputは、一対のペアとしてつながっている。

 しかし、僕の認識に関する限り、どちらかというと事態は「逆」です。
 つまり、新しい発想・着想というのは、合理主義を「裏返した」ような「反転世界」に存在する可能性の方が高いのではないでしょうか。少なくとも僕が何か、新しい?(たいしたことではない)ことを思いついちゃったときは、逆です。

 つまり、何をやれば、何かが生まれる、といった機能的な考え方で、物事に取り組んでいるときではなく、それからは意図的に離れた瞬間、「ふと、何だかしらないけれど、結びついちゃった!」「ふと意識していなかったものが、偶然に、つながっちゃった!」というかたちで、「生まれる可能性」がある、ということなのかな、とも思うのです。

 興味深いのは、そうした現象は「合理主義」を裏返したところに存在しますし、そこで新しいものが生まれるかどうかは「統御不能」です。
 しかし、わたしたちは「意図的」に、その世界を「垣間見ること」ならできます。もちろん、そこで何かが生まれるかどうかは、統御不能。いわゆる「可能性の問題」になってしまうのでしょうけれども。

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 損保ジャパン東郷青児美術館で開催されている「遊ぶ・シュルレアリスム」展に出かけてきました。

 20世紀の最大のアートムーヴメントといっても過言ではないシュルレアリスム。そこでは、多くの画家や詩人などが、伝統的で保守的なものとは全く異なる、新たな表現、現実の見方をさらに広げてしまうような新しい視点を求めて、運動を繰り返しました。本個展は、そんなシュルレアリストたちの作品を集めたものです。

shur_realism1.png

 本個展が興味深いのは、シュルレアリストたちが、新たなもの、新たな表現を生み出すために、どのような人生を送ったかをモティーフにしていることです。彼らがとった生き方は「遊び」です。徹底的な「遊び」。

 シュルレアリストたちは、夜な夜な、パリのカフェなどに集まり、「知的な遊び」に興じ、その中で、たまたま?、新たな表現を生み出していきました。

 その背景には、「意識をしていないものの中にこそ、美しさが存在する」という「オートマティスム」、そして「あるものとあるものが、偶然ぶつかり、生じた表現にこそ、美しさが存在する」という「デペイズマン」という考え方、そして「子どもが行うような、つじつま合わせの手仕事のような中にこそ、美しさが存在する」という「ブリコラージュ」という考え方が色濃く見えるといいます。今から考えれば。でも、おそらく当時は「非合理主義」を思想的背景とした「遊び」でした。

 僕はアートは専門ではありませんが、この3つの考え方は、とても興味深く思います。ひと言でいいますと、「反意識・反理性」「偶然性」「操作性」。これらの延長上に、たまたま生まれ得たものが「創造」と呼ばれることになるのでしょう。

 シュルレアリストたちは、カフェでお茶やお酒を飲みながら、「遊んで」いました。

 数人で言葉や絵をだしあい、組み合わせるゲームに興じました(甘美な死骸ゲーム)。ペンや筆を持った手を自由に動かし自動デッサン実験をしました(自動デッサン)。
 絵の具をキャンバスに塗り、紙で押さえつけ、浮かび上がった模様から作品をつくったりもしました(デカルコマニー)。雑誌や印刷物を貼り付け、偶然できあがった表現を愉しみました(コラージュ)。
 シュルレアリストの表現は、かくして、これらの「遊び」をモティーフやきっかけとして生まれたものもあったようです。

  ▼

 本個展は、このようなシュルレアリストたちの作品を集めています。
 彼らの「遊び」を紹介しつつ、作品を鑑賞できますので、非常に面白く見ることができます。
 しかし、さらに秀逸なのは、この個展の1Fにあります。1Fには、ワークショップコーナーが開かれており、子どもから大人まで無料で、シュルレアリストたちが行った「知的遊び=作品作り」を行うことができるのです。

shur_realism2.png

 僕が出かけたときは、10名弱の大人や子どもが、コラージュをやったり、デカルコマニーに興じたりしていました。僕自身も、みようみまねで、やってみました。とても興味深い体験でした。

 展覧会は8月25日までのようです。
 新しいもの、着想、アイデアを求めている方、ぜひ、シュルレアリストたちの生き方に触れてみて下さい。おすすめです。

「シュルレアリスム、男性名詞。口頭であれ、記述であれ、他のどんな方法であれ、思考の実際の機能を表現することを目的とする純粋に精神的な自動現象。理性によって行使されるあらゆる抑制がなく、審美的な、あるいは、倫理的ないかなる関心事をのぞいた、思考の書き取り!」
(アンドレ・ブルトン「シュルレアリスム宣言」)

 そして人生は続く!
 

投稿者 jun : 2013年8月13日 17:57


「カメラマンになってみる!?ワークショップ」に参加した!

 このところ、すっかりプライベートブログ化してますが、すんません。またもや「子ども(マイガキ)ネタ」です。もう少ししたら、頭が通常モード、元に戻りますので、どうかお許し下さい。

  ▼

 先日、東京国際フォーラムで開催されている「丸の内キッズジャンボリー」に家族で出かけました。「動物カメラマンになって、ワンちゃんを撮影しよう!」というワークショップに参加するためです。

丸の内キッズジャンボリー
http://www.tif-kids.jp/2013/

 愚息TAKUZO、実は、現在の「将来の夢」は、「カメラマンになって、ケニア在住。サバンナの動物を撮影しまくること」だとホザキますもので。それはそうと、先だっての週末には、動物カメラマンの岩合光昭(いわごう・みつあき)さんの登場するDVDなどを見て過ごしておりました。

(TAKUZO)「岩合さん、すげーな。オレ、こんな写真撮れねー」

 そんな息子の願い?をかなえるべく、カミサンがワークショップへの申し込みを行い(うちのカミサンはアンテナ力高いです、、、いつもどこからともなくイベントを見つけてきます・・・)、今日の日を迎えたわけです。

  ▼

 会場には、貸し出し用の一眼レフカメラが、並んでいました。

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 わが家では、ふだん、TAKUZOには、カメラを触らせていません。というわけで、TAKUZO、この光景を目にした瞬間から、触りたくてしょうがない。

 カメラを手にもって、かまえてみます。
 まだカメラはTAKUZOには重いせいか、シャッターを切るたびに、少し「ブレ」るのは、ご愛嬌でしょうか。

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 ワンちゃんが登場し、基本的な撮影の仕方を、プロのカメラマンの先生に教えてもらい、いよいよ撮影です。

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 結局、何枚撮ったんだろうね・・・
 無事終了です。

 帰りには、今日一番のベストショットを、印刷してもらいました。
 下記のような写真が撮れました。
 「おまえ、その構図、赤福より甘いぞ!」と言いたくなりますが、まーしゃーない(笑)。

3H1A8515.JPG

  ▼

 実は、こういうプリンティング(印刷)を含むワークショップは、現在、見木久夫さんと牧村真帆さんと企画中なのでした。コラージュ&ZINEをくっつけたような、また、強烈な?奴を(笑)。そういう意味でも、勉強になりました。

 そして人生は続く。

投稿者 jun : 2013年8月13日 00:00


虫が支配する、我が子の頭ん中

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 どんな森に出かけても
 寝てもさめても

 TAKUZOは、虫を取ることしか、頭にありません。
 頭を「虫」が支配しています。

  ▼

 どんなに「奇麗な丘」に出かけても
 どこまでも長く続く畑を見ても

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 ここでも「虫」
 この場に及んでも「虫取り網」

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 少しは忘れろよ、虫のこと。

  ▼

 でも、いいのかもね。 
 今は、頭の中に「虫」がわいていても。
 風景なんて、何にも見ていなくても。

 きっと、いつか、大人になって、思い出すよ。
 「奇麗な丘」「どこまでも続く畑」を見たときに。
 虫取りに夢中になった、あの頃を。

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 まだまだ人生は続く

投稿者 jun : 2013年8月12日 07:25


人前で話をする際の「緊張・あがり」をほぐす方法!?

 正直に申しますと、僕は「あがり症(stage fright)」です。
 人前でお話をする直前、プレゼンテーションする前などは、いつも、何度も無用にトイレに出かけたり(何もでない・・・)、背中にいやな汗(!?)をかいたりします。講演前のトイレでの、小生との遭遇率は、はずかしながら、かなり高いのではないかと、想像します。
 顔にはあまり出ないせいか、他人からは、あまりわからないようですが、本当のことだから仕方がありません。講演前、プレゼン前などは、いつも胃が痛いです、いや、本当に、マヂで(泣)。

 ところで、この「あがり症」を克服するために、これまで、様々な工夫をしてきました。
 手のひらに「人の字」を書いて飲み込むふりをしてみたり(!?)、ゆっくり深呼吸をしてみたり、まぁ、よく、巷間に流布するメソッドは、一通りやってみたのですが、まことに残念なことに、自分としては、あまり効果はありませんでした。

 で、自分で、何とか編み出した「あがり症克服」メソッドが、こちら、

 「控え室を早く出て、会場になるべく早く入り、慣れ、一体化する」

 です。
 いやー、何てこともない、メソッドでも何でもないですね。文字にしてみますと(笑)。

 講演などで、一般に、演者には、講演前に時間を過ごす「控え室」というものをご用意いただけることが多くあります(誠にありがたいことです。心より感謝いたします)。しかし、せっかくご用意いただきましたのに、いつも誠に恐縮なのですが、そこで過ごす時間を減らし、会場になるべく早く入り、会場で長い時間を過ごすようにします。
 会場に早く入り、お聞き頂ける方と、一緒の時間を過ごす、というのが、最も自分としては効果があるな、と感じています。

 といいますのは、講演などで特に心理的緊張が高まるのは、どういう時かをしこしこと分析(!?)しました結果、僕の場合「控え室での待ち時間が長く存在し、その後、突然、会場に移動する」場合だということがわかったのです。
 控え室と会場の心理的距離が大きければ大きいほど、その緊張は、高まります。

「いやー、突然、どえらいところに来てもうたがな!」

 ならば、会場に最初から居座り、一体化し、その場所に慣れてしまえばよい。はやくから会場に入り、しょっぱなから、いろいろな人々の視線を浴びることで、待ち時間を自らなくしてしまえばいい、と思ったのです。

 会場に長くいれば、だんだんと会場の様子、お話をお聞き頂ける方の様子がわかってきます。視線も浴び続けていれば、だんだん、慣れてきます。突然ステージにのぼり、お話をするときよりは、少なくとも僕の場合、緊張がほぐれます。

 「あっ、ここはこういう場所なんだ・・・」

 時には、聴衆の方々の中に、知っている方がいらっしゃる場合があります。そういう場合は、かなりラッキーです。積極的に話しかけ、お話をしていると、背中の「いやな汗」がひいていくことを感じます。

 「あっ、いつものままでいいんだ・・・」

 そんな風にして、僕は何とか、これまでやってきました。よい方法なのかどうかはわかりませんし、他人に全くおすすめしませんが、少なくとも自分にとっては効果はあるようです。

  ▼

 思い起こせば、学生時代から、同じようなことをやっていたようにも思います。学生時代に緊張することといったら、「受験」というものがありますね。

 僕は、高校受験や大学受験の前などは、直前日の下見の際、受験教室にポツンとひとり座り、1時間以上の時間を過ごした記憶があります。このことも、「受験教室に慣れてしまう」という意味で、同じ戦略だったのかもしれないな、と今では思います。

 「受験といっても、昨日1時間過ごした教室でやるだけじゃん」
 「なんだ、いつもと同じ教室じゃん」

 そんな苦肉の策(!?)を重ねながら、何とか受験を突破してきました。誠にラッキーだったと思っています。

 嗚呼、講演やプレゼンもさることながら、自分の仕事には、苦手なものだらけです。しかし、苦手なものから逃げているわけにも、いきませんので、何とかかんとか、プチ工夫を積み重ねる毎日です。

 そして人生は続く

投稿者 jun : 2013年8月 9日 05:46


経営学習研究所、2つのラーニングイベント、参加者募集中! : 「ロジカルに聴くとチームが変わる」「21世紀・低成長型 しなやかでしぶとい女の幸福論」

 ただいま、経営学習研究所(MAnagement Learning Laboratories : MALL)では、2つのラーニングイベントの参加者を募集しております。ひとつは対話型鑑賞に関するイベントで、平野理事企画「ロジカルに聴くとチームが変わる」(9月29日・京都)です。こちらは、京都造形芸術大学アートコミュニケーション研究センターとの共催企画です。

 もうひとつは女性・ダイバーシティに関するイベント「職場と人生の常識を疑う、女性のための歴史講座−21世紀・低成長型「しなやかでしぶとい女の幸福論」(9月8日・東京)で、板谷さん理事の企画です。こちらは日立ソリューションズ・ ダイバシティ推進センタ さまとの共催企画です。

 どちらも非常に興味深い会になりそうです。
 ご近所さま?をお誘い合わせの上、どうぞご参加をご検討いただけたとしたら、嬉しいことです。

「ロジカルに聴くとチームが変わる」(平野理事企画)は下記のサイトをご覧下さい。
http://www.acop.jp/news/2013/07/post-31.html

 21世紀・低成長型「しなやかでしぶとい女の幸福論(板谷理事企画)は、下記のフォームをご覧下さい。

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MALL:働く女性ラボ<Lカレッジ> × 日立ソリューションズ
                    ダイバシティ推進センタ 
職場と人生の常識を疑う、女性のための歴史講座
−21世紀・低成長型「しなやかでしぶとい女の幸福論」−
2013年9月8日(日)午後2時30分 - 午後5時30分
株式会社日立ソリューションズ 本社別館20F 
==================================================

遊び友達はいる。悩みを話せる友達もいる。
でも、働く自分の成長や夢を真剣に語り合ったこと、
・・・あったかな?
仕事で輝く自分を実現するために情報収集、意見交換、
人脈づくりの場を提供することで、一人ひとりの
成長支援をしたい。
それが働く女性のための「Lカレッジ」です。
参加した皆さまが、あったかで、ぽわ〜ん気分になりつつも、
「明日から、もう少し頑張ってみよう!」という気持ちになって
いるような、まるで温泉帰りのようにほっこり、つるん、ぷるん
状態で会場をあとにしていただける。そんな場づくりをめざしています。

経営学習研究所 (Management Learning Laboratory : MALL)
は、9月8日(日)に「働く女性ラボ<Lカレッジ>」を日立ソリューシ
ョンズ ダイバシティ推進センタとコラボ開催いたします。

<男性がゲストスピーカーとして登壇>
今回は、「会計人奨励賞2010−Accounting Encouragement Award−」
を受賞している公認会計士 田中靖浩氏にお越しいただきます。え、
公認会計士?なんで?!そりゃ、経営学習の場だからなぁ、でも会計、
苦手だし・・・と腰が引けてるそこのあなた。大丈夫!!働く女性ラボ
だからこそ、という御仁の登場なのです。会計という世界に留まらず、
「元・公認会計士」を敢えて名乗り、落語家とのコラボ講演や、会計
×マーケティング、会計×戦略(孫子の兵法)といった、キャリア・ア
ダプタビリティの高い女性たちをわくわくさせる活動を繰り広げてい
らっしゃる田中さん。著書「40歳からの"名刺をすてられる"生き方
−疲れた職場で生き残る8つの法則−」(講談社プラスアルファ新書)
では、現実逃避や、社内人脈だけに頼る男性諸氏=ダチョウオヤジが
目につくことを危惧し、一方で、ダチョウオヤジと闘いながら働く女
性にはエールを贈ってくださっているのです。ちなみに、ダチョウって、
身の危険が迫ったとき、頭だけ砂に隠して危機は見なかったことにす
るそうです(笑)

働く女性ラボ<Lカレッジ>では、『職場と人生の常識を疑う、女性
のための歴史講座−21世紀・低成長型「しなやかでしぶとい女の幸
福論」−』と題して、田中さんに語っていただきます。

☆    ☆  田中さんからのメッセージ  ☆    ☆

アベノミクスにすがる政治家たち、閉塞感漂う大企業の男性サラリー
マンたち、草食化する若手男性たち。「大企業中心・男性中心」の
社会・企業・家族構造が崩壊しつつあります。そして男も女もスキ
ルアップやモチベーションの向上に一生懸命になっています。

 「私たちはこのままでいいのか?」

 当たり前の常識を疑う力を付けるため、歴史を学びましょう。
 いま私たちは2つの歴史的転換点を迎えています。ひとつは「戦後日
本成長経済の終わり」そしてもうひとつが「産業革命以来の工業社会の
終わり」です。そんな歴史を学ぶことで、これからやってくる「かつて
ない社会」がおぼろげに見えてきます。

         ☆    ☆    ☆    ☆    ☆

歴史を学び、視野を広げ、しなやかでしぶとい21世紀型・女の生き方
について、スパークリングワインを片手に、学び、考え、語って、元
気いっぱいになっちゃいましょう!

■ゲストスピーカー 田中靖浩(たなかやすひろ)氏
田中公認会計士事務所所長、東京都立産業技術大学院大学客員教授。
1963年生まれ、三重県四日市市出身、早稲田大学商学部卒業。
外資系コンサルティング会社などを経て独立。
経営コンサルティング、会計セミナーといった堅めの仕事(A-side)
から、落語家・講談師との公演など柔らかい仕事(B-side)まで
幅広く活動中。経営・会計の基本から最新動向を真面目にポップに
、ときには笑いを交え変幻自在に解説する。
書籍執筆、新聞・雑誌連載、ラジオ・テレビ出演など多数。
飲み屋、雀荘、競馬場、映画館、ラスベガスなどに神出鬼没。
不得意はうなぎと穴子、早起き。得意は締め切り直前の爆発力。

■コラボ開催
一般社団法人経営学習研究所 働く女性ラボ
株式会社日立ソリューションズ ダイバシティ推進センタ

■日時
2013年9月8日(日)午後2時30分 - 午後5時30分まで
開場は午後2時(ぜひ、早めにいらして参加者同士の交流をお楽しみください)

■募集
女性限定で70名さま

■会場
株式会社日立ソリューションズ 本社別館20F
http://www.hitachi-solutions.co.jp/company/access/map_kounan.html
〒108-8250
東京都港区港南2-18-1 JR品川イーストビル(JR品川駅直結)
※当日の入館方法は、参加のご案内に記載いたします

■参加費
お一人様2,500円を申し受けます
 ※釣銭のないようご用意いただきますようお願いいたします
会場には、スパークリングワイン、ワイン、ソフトドリンクと軽食をご用意しております

■スケジュール(予定)
14:00 会場
14:30 経営学習研究所とは
14:35 株式会社日立ソリューションズ ダイバシティ推進センタよりご挨拶
14:40 田中靖浩氏による講演
16:00 休憩
16:20 ダイアローグ 前向き宣言と相互支援
17:20 ラップアップ
17:30 終了(予定)

■参加条件
下記の諸条件をよくお読みの上、参加申し込みください。
申し込みと同時に、諸条件についてはご承諾いただいているとみなします。

1.本ワークショップの様子は、予告・許諾なく、写真・ビデオ撮影・
ストリーミング配信する可能性があります。写真・動画は、経営学習
研究所、ないしは、経営学習研究所の企画担当理事が関与するWebサ
イト等の広報手段、講演資料、書籍等に許諾なく用いられる場合があ
ります。マスメディアによる取材に対しても、許諾なく提供すること
があります。
参加に際しては、上記をご了承いただける方に限ります。

2.欠席の際には、お手数でもその旨、info@mallweb.jp まで
(松浦)ご連絡下さい。
応募者多数の場合には、繰り上げで他の方に席をお譲りいたします。

3.応募者多数の場合は、抽選とさせていただきます。
8月22日までにお申し込みをいただき、23日には抽選結果を送信させて
いただきますので、ご了承ください。

以上、ご了承いただいた方は、下記のフォームよりお申し込みください
ますようお願いいたします。それでは、皆様とお会いできますこと愉し
みにしております!

■参加申し込みフォーム
https://docs.google.com/forms/d/1XP6lVHcFVIQD3OTnHe3NvazX44aguNU14mXOYVv5agw/viewform

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企画:経営学習研究所 理事 板谷和代
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投稿者 jun : 2013年8月 8日 08:04


<弱いわたし>のダイエット私論!? :「衣服による制約」と「どストレートな他者」

 この2ヶ月、小生、密かにダイエットに取り組んでおりました。

 10年前と比べて4キロくらい体重が、少しずつ少しずつ増えておりました。あたかも、お腹回りに「薄皮」を巻いていくかのように・・・(オッサンの薄皮巻という感じですな・・・苦笑)。
 で、そろそろ、大台の70キロを超えそうだったので、ベスト体重の66キロー67キロまで、落とそうと思ったのです。

 ダイエットといっても、特にハードなものではありません。自分のできる範囲で、やるべきこと決めて、毎日コツコツに行動を継続するだけです。
 フィジカルに執り行った施策(?)は、毎朝、腹筋をすること。朝食・昼食の量を、「ちょい抑えめ」にすることです。間食もなるべく避けました。
 2ヶ月かけて、無事、現在、67キロですので、何とか元の体重近くまで、戻った感じです。

 めでたし、めでたし。

   ▼

 ダイエットといっても、僕は専門家でもなんでもありませんので、効果的な方法はわかりませんし、あまり興味がありません。
 結局、「自分の身体的特徴と身の丈にあった体重管理の方法は、自分で考えなければならない」というのが、僕の結論です。
 ただ、自分は、もともと「かなり太りやすい体質」なので、人一倍気をつけているつもりです。これまでにも、何度も何度も、ダイエットに取り組んでおりますので、「ダイエットの方法」を自ら考えることには、人並み以上に取り組んでいるような気がします。

 で、その経験からすると、「体重管理」で大切なことは、実は「フィジカルな運動」や「食事節制」ではないように思っています。
 先ほど書いたことと矛盾するようですが、それらは、体重が予想以上に増えちゃった場合に採用される「場当たり的な対処療法的」であり、根本的な解決には、なかなか至りません。
 むしろ、「日常的に、自分の体重を管理していくための方法を考えた方がよい」ような気がします。全く個人的な意見ですが。

 僕は専門家ではないので、あくまで僕の場合という「ただし書き」がつきますが、運動や食事節制よりももっと大切なことは、「自分の体重をマネジメントしていくために人工物と他者をいかに利用していくか」にあります。

 すなわち、第一の視点「人工物」とは、自分が太ったこと、身体に変化が生じたことを、どのように人工物を利用して把握し、制約をかけるか、ということです。
 第二の視点「他者」とは、「最近太った?」「なんか、顔むくんでない?」と「どストレート」に言ってくれる「第三者」を、いかに持つか、ということです。

 こうした「人工物」や「他者」の日常的利用こそが、己の体重をモニタリングし、コントロールするための外部環境として機能する気がしています。

  ▼

 もう少し具体的にいいますと、たとえば、「人工物」のところで、最も影響をもっていると考えられるのは「日常、自分が着用している衣服」であるような気がします。

 僕が心がけているのは、日常的に、敢えて「タイト気味の衣服」を選ぶこと。タイトな衣服とは、体重の変化にセンシティブです。すなわち、体重が増えれば、すぐにきつくなりますので、「あ、痩せなアカンな」と思えるようになります。
 逆に、絶対にしてはいけないと思われることは「少し太ったとしても、着ることのできる衣服」を選ぶことです。これをやってしまうと、「落ちるところまで、落ちます」(笑)。要するに「もともとルーズな衣服が、タイトに感じられる」まで、自分の体調変化に気づかない、ないしは、行動を抑制しない、ということです。

 第二の視点「他者」とは、そのまんまです。
 体調の変化、身体の変化を、そのものズバリ、「どストレート」に指摘してくれる人が身近にいるかいないかで、体重管理のモティベーションが変わるでしょう。
 あるいは、体重の変化、身体の変化に対して非常にセンシティブな人々の社会ネットワーク中に、自分が入っていれば、太ってしまった場合に、行動抑制がかかる可能性が高くなるのではないでしょうか?
(このあたりは、ネットワーク論の議論と重ね合わせると面白いかもしれませんね)

 逆に、「他人が太ったこと」を、「ししし、ざまーみろ」なんて心の中で思いながら、「もっと食べなよ、その方が健康的だよ」といってしまう人々が周囲にいれば、行動に制約はかかりません。
 あるいは「食って、食って、太っていくこと」をよしとする社会的ネットワークの中に、自分がいれば、おのずと、そういう行動をとってしまうように思います。

 ま、データも根拠ないけど、
 何となく、直感的に、そう思います。
 自戒をこめていいますが、人は流されやすいので。

 ▼

 今日は、専門外のことを書きました。「ついに、あいつもダイエットまで論じるようになったか」という嘲笑が聞こえてきそうですが、今日で最後になると思います。

 というわけで、いつにもまして、「真に受けないでいただきたい」のですが(笑)、よくよく考えてみますと、それほど専門分野で僕が主張していることと離れていない、とも思います。

 おそらく、僕の思想的根幹・行動の基盤をなしているのは、「自己の弱さ」であるような気がします。
 僕は、僕という人間自身が「意志が弱いこと」「行動を継続するモティベーションがあまり強くないこと」を知っています。そういう人間観のもとで、いろいろな研究をしています。

 だからこそ、この「弱さを抱えた脆弱なわたし」をいかに、外部環境を通じてモニタリングし、コントロールしていくかについて、興味があるのかもしれません。

 それが、ダイエットの場合は、「タイトな衣服」と「どストレートな他者」であるということになるのかもしれませんね。

 世界はつながっているんだね。
 そして人生は続く

投稿者 jun : 2013年8月 7日 10:11


夏休みの絵日記

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 TAKUZOが夏休みの絵日記を、ひーこら、ひーこら書いています。
 親子の体験は、子どもの目から見ると、こんな風に映るんだ。
 なかなか発見があります。

 ふと、
 自分が、夏休みの絵日記を書いていたころを思い出しました。

 時がたつのは早いものです。
 そして人生は続く。

投稿者 jun : 2013年8月 6日 08:53


ひとやすみ、ひとやすみ

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 あわてない あわてない
 ひとやすみ ひとやすみ

 (一休さん風に読んでください)

 2013年盛夏
 中原 淳

投稿者 jun : 2013年8月 5日 09:13


ステータスを乱高下させることで達成される仕事:ヒラメとラオウと白昼夢

 インプロヴィゼーション(即興劇)の概念に「ステータス(Status)」という概念があります。
 英語で「ステータス」とは、文字通り「状況・立場」という意味ですね。ここでは、その言葉を「ステータス=意思疎通を行う相手にあわせて、自分がその場で採用する相対的な社会的位置」と把握しましょう。

 要するに「ステータスが低い」とは、「相手をたてて、自分が謙っていた態度をとっている(へりくだった)様子」です。その様子は「サーバント」に近い状況かもしれません。
 対して「ステータスが高い」とは「相手に毅然たる態度を示し、自己主張している状態」と考えることにします。
「ステータス」は社会的身分とはとりあえず関係ありません。エライ人でも、大変腰の低い、つまりはステータスの低い人もいます。一方、若者や新入社員でも、ステータスの高い人もいます。

  ▼

 ところで「世の中にはステータスを上下させることで成立する仕事」があります。
 すぐに思いつくのは、たとえば、研修講師や教師という仕事も、典型的な、そのひとつです。

 時に、意図的に自らのステータスを下げて、学習者に主導権をわたし、それぞれの自発的・創意工夫にあわせて意見を述べあってもらう。
 しかし、一方で、時には、自らのステータスを上げて、学習者に毅然たる態度で、物事を伝達する。

 意図的、かつ、戦略的に(しかし熟達していれば自動的に)ステータスを上下させることで、集団を「考えさせる」方向にもっていくことが求められます。

 教える側のステータスがずっと高い状態であれば、学習者のあいだに「押しつけられ感・やらされ感」を生み出します。
 一方で、ステータスがずっと低い状況であれば「なんで、オマエがこの場に必要なんだ感」を生み出します。
 その仕事は、ステータスの適切な管理で成立しているともいえそうです。

 ところで、話は変わりますがマネジャーというのも、「ステータスを上下させる」役割を担った職種です。

 かつては、ステータスがずっと高いマネジャー、すなわち、ごりごりの「北斗の拳のラオウ的オラオラマネジャー」も、通用していたのかもしれません。一方で、ステータスが常に低い、常に誰かの機嫌うかがっている「ヒラメのようなマネジャー」もいるのかもしれません。

"ラオウ"みたいなマネジャーになれ!:上司によるリーダーシップ開発とラオウ再生産理論!?
http://www.nakahara-lab.net/blog/2013/02/post_1959.html

  ▼

 が、しかし、一般には、マネジャーの仕事は、状況にあわせて、ステータスを乱高下させて、時には部下の意見を「ひきだし」、時には毅然とした態度をとることが求められます。どちらがいいとか、悪いとか、そういう問題ではありません。チームで成果をだし、個を伸ばすために、自分のキャラクターにあった、ステータスの適切な管理が必要になる、というだけです。

 しかし、一方で、「ステータスを乱高下させること」、すなわち、「自らの社会的ポジションが、常に不安定で定まらないこと」は、精神的な疲労も、生み出します。社会学者ホックシールドならば、この状況に、いわゆる「感情労働の地平」を見るかもしれません。
 なぜなら、「ステータスを乱高下させなければならない」ということは、常に「役割演技」をしなくてはならないということです。
 また、適切な役割演技をしなくてはならないということは「常に相手をモニタリング」していなければならないからであり、「相手の状況」におうじて「自分を変えなければならない」からです。

 ずっと「一カ所」にいることができるのだとしたら、もしかすると、ずっと楽かもしれない。
 ずっと同じポジションを守れれば、こんなに疲れることはないのかもしれない。
 ステータスを乱高下することで仕事をなす人々は、時に、そんな「白昼夢」を見るのかもしれません。

 今日のあなたは
  どんなステータスで
   誰に接していますか?

 そして人生は続く

追伸.
 今日の話の詳細に、もしご興味をお持ちになったとしたら、高尾隆×中原淳著「インプロする組織」をご参照下さい。

投稿者 jun : 2013年8月 2日 10:29


「間身体的な模倣力」を欠如した親子、合気道教室に通いはじめる!?

 ここ最近、TAKUZOと合気道のクラスに通いはじめました。
 ちょっと前に、人づてに「合気道というのは、自分から攻撃するワザではなく、相手の力を受けて流す武道なのだ」ということを耳にして、漠然とあこがれを感じたのがきっかけでした。

 ま、一人でいくのは寂しいし(小生、極度の寂しがり屋なので)、何が何すると何なので(?)、TAKUZOを誘って(だまくらかして・・・)、親子クラスに通うことにしました。究極、子どもは「だし」です。TAKUZOは、いつも小生に連れ回されています、、、あべし。

 合気道、やってみると、(今のところ)面白いものです。
 独りで、先生の型を見て、練習しているときには、「なぜ、こんなことをやっているのか」、さっぱり不明ですが、ずっと「あと」になって、敵の動きが想定されたときに「意味が立ち現れて」くる。単なる「動作」が「意味」を持ち得る瞬間が、興味深いな、と思います。ま、現段階で把握している「意味」らしきものも、いずれ熟達につれて変化がくるのでしょうけれど。

 それにしても、誠に困惑、トホホなのは、小生とTAKUZOの「間身体的な模倣力」の欠如です。
「間身体的な模倣力」とは、ここでは「自己の身体と、他者の身体を重ね合わせ、その動きを想像し、再現・模倣する能力」としておきましょう。
 100%明瞭に断言できますが、小生、そして、わが愚息のTAKUZOも、この能力が、著しく欠如しています。何度やっても、親子そろって、なかなかうまくできません。

 しかし、ま、そのことは、行く前からわかっていました(笑)。
 どうにも僕は「真似して身体を動かすこと」が苦手なのです。我ながら、その部分の神経を、ねこそぎ喪失しているのではないか、と感じるほどです。

 そういえば、以前、ふとした気持ちで、フィットネスジムでヒップホップのクラスに紛れ込んでしまい、「タコ踊り」を披露したことがあります。あれは、惨かった(笑)。
 おれにもできるかなーと軽い気持ちで入ってしまったのですが、その認識が甘いことは0.3秒でわかりました。
 とはいえ、途中で出るのも迷惑かな、と思い、バレないように、バレないように後で踊っていた(揺れていたら)?、先生が後にきて踊り始め、全員が僕を中心にして踊りはじめたときは、失禁するかと思いました。あー、恥ずかしかった。

 やや話がそれました。
 合気道は、ぜひ楽しんでいきたいと思っています。
 「すぐには意味がわからないこと」をやりたいです。
 「意味」に最近食傷気味なのかもしれません。

 そして人生は続く

投稿者 jun : 2013年8月 1日 08:57