若さとは「漂流権」をもつということである!?

 ちょっと前のことになりますが、ある真面目な学部生の方に、相談を受けました。
 入学から約数ヶ月。ようやく大学に慣れ初めて、「うんとこしょ、どっこいしょ、それでもカブは抜けません」という感じで(意味不明)、嗚呼、気がついたら、夏休み。

 彼曰く、

「これから長い休みなんですが、何をやったらいいか、わからないから、何もはじめられない」

 とのこと。
 うーむ、そうか。それは、ぼんやり、「霧の摩周湖」だろうなぁ(死語?)。
 今から20年前、かつての小生も、そうだったな、と思いながら、しみじみと聞いていました。

 一寸、僕は考えました。
 で、少しだけ、僕の考えたことを、彼にお伝えしようと思いました。
 社会人と学生が対峙するときに、非対称な関係の中、自分の考えを学生に押しつけるというのが、僕は、あまり好きではないので、彼には、少しだけ、かつ、控えめに言うことにしました。

  ▼

「何をやったらいいか、まずは頭でわかってから、人は、何かをはじめるんだろうか? 何かをはじめた人は、まず、頭で計画をしっかりたててから、何かをしたんだろうか?

頭で考えて、アクションを起こすというよりも、むしろアクションを起こして、そのつど、"軌道修正型"でもいいんじゃないだろうか。

もし、そちらに、時間があるんだったら、現段階の自分としてはイマイチだな、と思うことも、嫌だなと思うことも、とりあえず、何でもいいから、全部、「頭で好き嫌い」せず、やってみれば。

僕は、大学時代に、たぶん、このバイトは自分にはあわないだろうな、というバイトをやって、意外に続くなってことがあった。反対に、これ面白いだろうなっていうバイトをやってみて、うわ、全然オレにはあわんわ、と思った。面白いだろうなって頭で考えたことを、そのまま仕事にしなくてよかった。

最初、大学に入った頃は、●●学をやりたいな、と思ったけど、概論の授業聞いたら、全く自分にはあわないな、と思った。まさか、●●の授業は、僕にはあわないだろうな、と思ってとったら、意外にハマった。頭で考えていた専門を、自分の専門にしなくてよかった。

好き嫌いせずに、やってみれば、嫌なことは嫌だな、とはっきりわかるし、いいなと思うことは、いいなと思えるようになる。大学4年間で、そんなふうに「動いて"違い"を見つけ」てみればいいんじゃない。

そのうち、いろんな場所で、きっと魅力的な人にも出会うでしょう。そうすれば、その人に、流されちゃえばいい。そこで面白いことに出会えば、そのまま、流されていけばいいんじゃないの。

若いということは、そういう"ドリフト(漂流)の特権"、"漂流権"をもっているんじゃないの?」

 一字一句同じというわけではないですが、小生の、クソの役にも立たないアドバイスは、別名「わたしの大学生キャリア論」は、以上のようなものでした。

 要するに、言いたいことは

「動きの中で"軌道修正"してもいいんじゃないの?」
「人のやりたいことは、"差異"の中でしかわからないんじゃないの?」
「若さとは"漂流権"をもっているということなのではないか」

 ということです。

「漂流」したまま、「軌道修正」しないのなら「遭難」しちゃって「あべし」ですけれども(笑)。まー、そういう人もなかなかいないでしょう。みんな、コンパスくらいは持ってるから。

  ▼

 最近、大学生研究×組織研究の学際的研究ということで、京都大学溝上慎一先生と東大・中原研有志で実施した共同研究のデータを、しこしこ分析しています。

 そして、そのデータを見るにつけ、

「何事にもほどほどにしかやらない」
「頭では考えるけれど、実際に動かない」

 ような大学時代の過ごし方が、「その後の顛末」を見ていますと、残念に思えてきます。もちろん、人の生き方ですので、人それぞれでいいと思うけど。

 で、ついつい、40近いオッサンとしては、思っちゃうんですよね。大学生の頃は、世にも貴重な「漂流権」をもっているのだから、自分の動きの中で「差異」をつくり、「軌道修正」して欲しいな、と。ついついね。

 ま、オッサン臭くなってきたら、このくらいでやめます。

 いいなー、漂流権。
 僕も、今から、がんがんに、漂流したいよ。

 そして人生は続く。