弟子は「師が見ているもの」を見なければならない!? : 仕事の価値軸をつくることの意味

 伝統芸能の世界でよく言われる言葉のひとつに、

「弟子は、師を見てはいけない。
 師が見ているものを見なければならない」

 というのがあるそうです。
「ダバダー」と香ばしさが漂う(笑)、非常に含蓄のある、深い言葉ですね。

 この言葉、何度も見つめるうちに、つい考えてしまうのは、「師を見てはいけない理由」と「師が見ているものを見た方がいい理由」についてです。
 どうして、前者がネガティブで、後者が推奨されるのかについて、考えてしまいますね。

 先ほど述べましたように、この2つ自体、非常に多様な解釈を含みうる要素ですし、また、僕は伝統芸能とは、全く縁遠い世界に生きておりますので、もっともな解釈ができるとは全く思えないのですが、足りない知識を「妄想力」で補いつつ、この2つの部分で言いたかったことは、こんなことなのかな、と想像しました。

 すなわち「師を見てはいけない」とは、文字通り「師を観察してはいけない」という意味ではないのではないだろうか。
 もし、それが「弟子による、師の技の観察学習の否定」を意味するならば、「師 - 弟子という徒弟制」そのものへの「疑義」となってしまう可能性があります。
 むしろ、それは「師の過去を絶対化してはいけない」という意味として解釈可能なのかな、と。

 そして「師が見ているものを見る」とは、「今の師が、見ているものを見つめ、師が何を"よい"と思い、これから未来に向けてどういう方向に自らを発展させようと思っているのか」を想像しながら、己の稽古・自己研鑽をつめということなのかな、と思いました。

 もっとざっくり述べるのならば、「師が見ているものを見ること」で、「よい芸とは何か?」を考え、「さらによりよくあるために何を変えなければならないかを考える」、ということでしょうか。「芸のよさ」という曖昧なものに関する「価値軸を」つくる、といってもいいのかもしれません。

 ま、上記は、小生の妄想力たっぷりの(たぶん誤解を相当含む)解釈ですが、どうかご容赦ください。ぜひ、伝統芸能の先生方に、解釈を伺いたいものです。

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 ちょっとレベルもコンテキストも異なるので、ここは明確に「論理的飛躍」することを「予告」しつつ、「論理飛躍」しますけれども(笑・・・伝統芸能と一般の企業を重ね合わせることは明らかに変です)、最近、僕は、よく思うことがあります。

 それは、仕事にとって「価値」「軸」「基準」というのは、本当に大切だな、ということです。
 そういうものを、いかに仕事をおぼえるときに、つくりあげていくのか。それが出来ている人と、できていない人では、その後の熟達が変わっていくな、と思うのです。

 先日も、あるマネジャーの方と話していたのですが、

 なぜなら「何がよい仕事なのか」をつかめていないひとに、どんな手法や技法を教えても、なかなか、役に立たないよね。だって、価値とか基準がないから、打ち手をたくさんもっていても、間違った方向で使っちゃうんだよね・・・

「師が見ているものを見ること」には、そのことに関するヒントが何かあるような気がしております。

 そして人生は続く