はじめて見ること / 見ることを失うこと:「視覚」と「記号」に支配された日常

「盲人は、視覚を失う最後の瞬間、一体、どんな光景を見たのだろうか」
「生まれてはじめて、海を見たら、人はどんな表情をするだろうか?」

 ちょっと前のことになりますが、原美術館で開催されている展覧会「ソフィ カル―最後のとき/最初のとき」にいってきました。

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原美術館
http://www.haramuseum.or.jp/generalTop.html

 ソフィ・カルさんは、フランスの女性現代美術家で、知覚、認識、アイデンティティといった、一見、具象物とは遠いところにあるものをモティーフとして、主に、写真、映像、言葉といったメディアを駆使して、様々な物語性のある作品をつくりつづけていらっしゃる方です。

Shooting : Photo & Movie Navigation Magazine(ソフィ・カル展)
http://shooting-mag.jp/news/exhibition/00500.html

 ソフィ・カルさんの作品を見ていると、見ているわたしたち自身が、「今、自分が見ていること」とは「何なのか?」を考えさせられます。
 同時に、彼女の諸処の作品は、"わたしたちの社会が「視覚支配社会」であること"を、問いかけているようでもあります。

 見ることとは、何か?
 それを失うとは何か?
 
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 考えてみますと、僕自身の生活は、とにかく「視覚」に依存しています。文献を読むのも、分析をするのも、視覚、視覚、視覚。とりわけ、視覚の中でも、文字・数字といった「記号」といったものに、囲まれていることに気づかされます。

 視覚、視覚、視覚、記号、記号、記号。
 自分の人生を取り巻いているものが、そういうものであったことなど、これまで一度も考えたことはありませんでした。

 もし、自分に「最後のとき」が訪れたしたら、自分が「最後に見る光景」は何だろうか、と想像しながら、「見ること」について、深く考えた、静かな美術館での1時間でした。

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 展覧会自体は、それほど大きなものではありませんが、自らの感覚について考える、静かな時間を過ごされたい方には、おすすめです。

 テラスカフェに腰掛けていると
 隣の展示室から
 「海のさざ波の音」が聞こえてきます。

 そして人生は続く

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追伸.
 わりと自分で気に入っている「セルフワーク」があります。ふだん何気なく通っている通勤路を利用します。
「今日一日は、徹底的に耳を澄まして通ってみる」「今日一日は、徹底的に見ることに集中して通ってみる」というのをやってみてください。
 そうすると、「いつも気づいていない音 / モノ」に毎回出会えるから不思議です。わたしたちは、見ているようで、見ていない。聴いているようで、聴いていない。いつもの通勤路の、また違った側面を発見できるかもしれませんよ。