「変革」のポリティカルな利用:「つっこみどころ満載」風「言ったもん勝ち」的世界に忍びよる「改革者」

「カリキュラム」や「教育体系」というものは、括弧付きの「改革者」(つまりは、何かを変えたこと、それ自体をポリティカルにアピールしたい、改革者)にとって、非常に「都合がよい」ものです。
 つまり「今までやってきたこと」を「ちゃぶ台がえし」しやすく、かつ「何かを変えたこと」自体が、自身の手柄とされやすく、ポリティカルに利用しやすい性質をもっています。

 これにはいくつか理由がありますが、最大の理由は「評価の難しさ」と「効果の遅効性」にあります。つまり、「研修」や「教育」というものは、そもそも評価が難しくうえに、その効果を測定することは、そもそも難しい。またもし万が一効果があったとしても、それが表面に出てくるまでには、時間がかかる性質をもっています(遅効性)。

 この2つの要因が、重なるとどうなるか。
 第一の要因「効果測定が難しさ」は、別の言葉でいえば「つっこみどころ満載」ということです。一般に企業・組織で行う研修には、統制群を置くなどの実験計画を組むことはできません。このような条件下では、どんなにデータ採集を頑張ろうとも、きっちりした効果を明示的に示すことはできません。要するに、どんなに頑張ろうとも、そこで得られるロジックは「つっこみどころ満載」なのです。このことが、「既存のカリキュラムのあり方」に対する「有利な攻撃材料」を「改革者」に与えてしまう。つまり、これまでのすべてを容易に「ちゃぶ台」しやすい性質をもつ。

 しかも、都合がよいことに、「変えたこと」による悪影響がでるまで、時間がかかるので(遅効性)、もし「変えたこと」が「改悪」であったとしても、責任をとらなくてすむ。つまり、「変えたこと」それ自体が、「評価」されることになりやすい。

 要するに「言ったもん勝ち」なのです。
 文句を言えば、通りやすい。
 変えれば、手柄になりやすい。

 問題は、そのあと中長期に、どのような変化が、組織や現場に生まれてくるかです。しかし、いつだって、その時分には、「改革者」は、悠々自適に「退出」しているものです。

「カリキュラム」や「教育体系」を改革するときには、それなりの覚悟を決めなくてはならないのだ、と思います。もちろん、世の中に、本当に「変化させなければならないもの」はたくさんある。古い因習に囚われているもの、現場の足かせになっているものは、多々あるので、非常に判断は難しい。

 しかし、本来、中長期にわたって、本来、戦略的に考えなければならないものが、責任者の交代とともに、右や左から、左から右に、グラグラに揺らぎ、「ちゃぶ台返し」が繰り返されているという事態がもしあるのだとしたら、「変えたこと」がポリティカルに利用されている、という「証左」だと僕は思います。

 そして人生は続く