「穴埋め問題としてのアート」、この、不幸せな出会い!?

 僕の場合、生まれてはじめて美術館に出かけたのは、記憶に残っている限り、高校生くらいのことだったように思います。「高校生くらい」と書いたのは、それさえも、確たる記憶にないのです。もしかしたら、中学生の頃だったのかもしれませんし、高校生の頃だったのかもしれません。
 ひとつ間違いのないことは、生まれ故郷にある公立の美術館には、記憶に関する限り、一度も行ったことはなかった、ということです。
 
 のっけから、自分の「文化資本の低さ」を露呈するようで、いささか気が引けるのですが、それも、仕方がありません。過去や生まれは、変えることができません。
 小生、子ども時代から、アート、美術、芸術とは全く「縁遠い」生活をしてきました。そのことを、なんでだったのかなぁ、と今になって考えることがあります。

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 アート、美術、芸術というよりも、子ども時代の僕にとって、まだ身近であったのは「図工」であったように思います。しかし、かつての僕は、完全に「誤解」をしていました。

 つまり、図工も、どこかに「正解」があるものだと思っていた節があります。図工の鑑賞には、「この作品には、こう答えておけば、無難な答え」が存在し、それを暗記することが「鑑賞」なのだと。
 僕の予感は、

「ゲルニカとは・・年に制作され、作者は・・であり・・・の影響を受けている」

 という命題に対して、回答を求めるような「穴埋め問題」が、定期テストに出題されたことをもって、「確信」にかわりました。

 要するに、ここまでをまとめると、アート、美術、芸術と僕は、「幸せな出会い」をしていなかったように思います。

 今だったら、「アート作品の穴埋め問題」を見て、

 この問題こそが、"現代アート"ではないか!

 と叫んでしまい、拍手喝采してしまうところですが、そういう余計な智慧と皮肉は、当時の僕は、持ち合わせていませんでした。

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 上野行一著「まなざしの共有」を読みかえしました。


 本書では、対話型鑑賞の主導者であり、かつてニューヨーク近代美術館で実践を積み重ねてきた「アメリア・アレナス」の概念・手法を紹介し、対話型鑑賞についての理解を深めていきます。

 アレナスの実践で、重視されているコンセプトは、

「芸術とは、作品の中に込められているものではなく、作品と私たちの関係である」(p48)

 という考え方です。
 ロラン・バルトが「テクスト」と「作家」の特権的立場を批判し、「テクスト - 読み手」の関係性を問うたように、アレナスにおいても、芸術を「見るもの」へと開放させます。

 この対局をなす考え方は、

「作品の中には、作家が込めた意味や理論がたくさん詰まっていて、それを読み取ればいい」

 とする作品観ですね。
 こちらは、先ほどの、子どもの頃の僕の美術観に似ているような気もいたします。

 かくして、彼女は、作品を前に、鑑賞する人々に問いかけます。静謐を旨とする美術館に対話が生まれます。

「この作品について話しましょう。これは何でしょうね?」
「この作品では、いったい、何が起きているの?」
「何を見て、そう思ったの?」

 対話型鑑賞とは、この一連のコミュニケーションの連鎖の中に生まれます。

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 本を読みかえし、つくづく思ったのは、「子ども時代に、アートと、こうした出会い方をしたかったな」ということです。
「学校教育の研究」を離れて10年以上立ちますので、僕は、現在の状況がどうなっているか、知りません。また僕は美術や芸術の専門家ではないので、専門的議論や乗り越えられるべき課題は知りません。

 おそらくは、僕のような「果てしない誤解」をしている子どもは、少なくなっていることと思います。

 それにしても、
 子ども時代には、
 事物と「よい出会い」をしたいものです。
 
 そして人生は続く。