経験獲得競争社会を生きる!? : 資源化・資本化する直接経験!?

 生態心理学とプラグマティズムという全く異なる2つの領域を越境しながら、独自の現代社会論を論じている人にエドワード・リードがいます。

 リードは、現代社会の特質を論じるうえで「経験」ということを重視します。リードが描き出したい現代社会は「直接経験の消失する社会」です。その背景には、情報環境が高度に発達した現代においてもっとも脅かされるのは「直接経験」である、というリード自身の認識があります(Reed 2010)。
 高度に発達した情報環境においては、いわゆる「間接経験」が、「我々が事物を独力で経験することを可能にすること」 - すなわち直接経験- を凌駕してしまうということになります。
 そういう社会環境においては、個人が「生態学的」に環境・事物と相対し、相互作用すること、すなわち「思考すること」と「学習すること」が消失するのだいいます。

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 先日、ある対談で、「学びの観点」から、僕自身が「現代の就職や就業」をどう見ているのか、という話題になりました。そこで出させて頂いたキーワードが「経験獲得競争社会」です。このネーミング、先に論じたリードの議論に強い影響を受けていることは言うまでもありません。

 要するに、現代社会は「事物・他者と直接かかわり、社会的に意味があると期待される直接経験を獲得し、保持すること」が、これまで以上に、大きな価値をもたらすような社会になってきているのではないか、と思うのです。社会的付加価値の高い経験をめぐる、人々の戦い。それが先に示した「経験獲得競争社会」というメタファです。
(もちろん、これまでの社会だって、経験の果たす役割は大きなものであったことは容易に想像できますが、ネットでのコミュニケーションや間接経験の増大の動きは、相対的に直接経験の価値を高めるのではないかということです)

 経験獲得競争の影響がもっとも強く、かつ、鮮明に現れ出るのが「現代の就職や就業」のシーンです。「現代の就職や就業」においては、たとえば「学歴」といった従来からの指標も、まだまだ有効に機能しているとは思うのですが、それに「プラスアルファ」して、「直接経験の価値」がさらに「肥大化」している。
 学歴や学力も大切だけれども、いったい、「他者とは違う、しかも、社会的に意味のある経験」をどの程度、これまでに為してきたのかが、問われる社会になりつつあるのではないか、と思うのですが、いかがでしょうか。

 インカレのテニサーで、主将やってたんで
   リーダーシップあります!

 といったような面接の回答が、やや牧歌的で、かつ、ノスタルジックに感じてしまうのでは、僕だけでしょうか(笑)。

 それ自体が、大学教育にとってよいことかどうかはわかりませんが、大学教育の中にも「体験」を重視した「経験型アプローチ」ともいうべき学習機会が増大しつつあります。
 それらは、従来のアカデミクスが重視してきた概念理解・概念操作を中核とした学習機会と拮抗しつつ、現在、併置しています。
 
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 ところで、上記のような「経験獲得競争社会」のエピステモロジーにおいて、「経験」とはいかなるものでしょうか。この場合の「経験」にはいくつかの特色があるように感じます。

 第一に「経験」とは「資源」であるということです。
「事物や他者とかかわりながら、社会的に意味をもちうることを為すような直接経験」は、誰しも「体験」できるものではありません。つまり「数」に制約があるし、また誰もが担ううるものではない。
 その意味で「社会的に意味をもちうる経験」は「資源」であるというメタファで語られうるのではないか、と思います。

「社会的に意味をもちうる経験」は、この意味で、同年代の人々に均質的に配分されず、そもそも「不平等な配分」、言葉をもう少し丁寧に用いるならば「選択的な配分」にならざるを得ない特質をもつのではないか、と想像します。

 それは、おそらく家庭の経済資本・文化資本・社会関係資本の影響を強く受けますでしょうし、それらを「再生産」することに、一定の寄与を行うのではないか、と想像します。専門家ではないし、実証データをもっているわけではないので、本当のところはわかりませんが、何となくそれと無関係であるとは思えません。このあたりは精査が必要なところです。

 第二に、それは「他者から他者に」簡単に「複写すること」はできません。誰かが行った経験を、第三者が簡単に「複写」し、あたかも自分がおこなったかのように語ることはできません。ディテールにどうしても無理が生じます(笑)。
 現代は複写が容易な社会、すなわち「高度複写社会」でもあります。こうした「高度複写社会」において横行する「コピペ」に対して、「コピペ不能であること」という直接経験の特質が、さらにその価値を高めることが予想されます。

 第三に、「経験」は「さらなる経験」をよびこむという意味において「資本」としても機能するのではないかということです。デューイならば、それを「連続性の原理」といったのかもしれませんが、ここで描き出したい経験の特質は、それより、もう少し生々しいことです。

 たとえば、あるタイミングで「海外でNPOなどの活動をした」という「経験」をした場合、その「経験」がもとで、後日「様々なチャンスが広がる可能性」があります。つまり、先行する良質経験が、「資本」として機能し、「さらに良質な後続する経験」を獲得できる可能性があるということです。
 その意味では、最初の「やるか、やらないか」の「やらない」は「決定的なマイナス」をもたらします。やらないことには、その後は、はじまらないからです。

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 ところで、経験が上記のように「資源」として、ないしは「資本」として「就職機会や就業機会」において機能するためには、いくつかの条件がありそうだ、ということも、また言えることのように思います。経験が上記のような特質を持ち得るのだとしたら、それを「生」のままに保持しておくだけでは、価値につながらないだろうな、と勝手に想像するからです。ちなみに、別に就活生に下記のように振る舞いなさい、と言いたいわけでは断じてありません。僕はその手の言説空間に1ミリも興味がありません。

 経験が資本として有効に機能する条件は、シンプルにいえば「経験を選ぶということ」と「経験をそのままにしないこと」です。

「経験を選ぶ」というのは、「そもそも論」ですので、よいですね。既述しましたように、すべての「直接経験」が「資本」として機能するわけではありません。「資本」として価値をもたらす経験とは、おそらく、社会が伸びていくベクトルや、社会が関心をもつベクトルと、有る程度符合していなくてはなりません。さらには、そこには「他者と何かを成し遂げる」というニュアンスがあった方がよりベターのように感じます。
 まずは、そうした、限られた「経験資源」を選択的に見抜くことが、おそらく大切になってくるでしょう。

 そして、あなたは何かの「経験」をしました。
 「経験」をした、ということにしましょう。

 第二のポイントである「経験をそのままにしない」とは、経験をそのままにほおっておいても、それ自体がすぐに機能しはじめることは希ではないかということです。
 それでは、経験が資本として機能し始めるためには、いったい、何が必要か。ひとつに必要なことは「第三者に知られること」であり「第三者に共感してもらうこと」です。ということは、経験は経験のままそのままほおっておくのではなく、しっかりと、ここに向き合い、内省しておくことが必要になります。
 経験をそのままにせず、そのプロセスを内省し、記述しておく。その上で、先行する経験と後続する経験のつながりを考え、物語化していく。こうした「物語化した経験群」こそが、場合によっては、ソーシャルメディア等によって増幅され、本人の「キャリア」や「将来の見通し」を代理で語りうるものとして人々を魅了します。そこに「レピュテーション」や「評価」が発生するのではないか、と想像します。
 さらには、このプロセスにおいて実施される「経験の内省」とは、「学び」といっても過言ではありません。先行する経験の内省、そして、そこから学んだことは、後続する経験において「よりよく行うこと / さらに質の高い何かを為すこと」につながりです。

 くどいようですが、「こうしなさい」と言いたいわけではありませんので、あしからず。

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 今日の話は「経験獲得競争社会」という視角から、「現代の就職や就業のエリアでどういうトレンドがおこっているか」を、僕なりに描くことでした。
 就職・就業問題などは僕の専門ではないので、説得的な議論ができたとは全く思えません。また、このように「経験」が「資源化」「資本化」していく社会が本当によいものかどうか、僕にはわかりません。また、物語化された経験、それによるレピュテーションや評価が、本質的なものかは僕にはわかりません。

「わからないの三連発」の中、それでも、でも、どうも、最近、こっちの方向だよな、とは思います。
 世の中を見ていて、僕には、そんな風に感じますが、いかがでしょうか。特にデータや理論をもってお話ししているわけではないので、どうか「真に受けないように」なさってください(笑)。いつものような、「ブログの与太話」です。

 就職や就業の際にいる皆さん。
 皆さんは、今、どんな直接経験をなさっていますか?

 そして人生は続く。