「やる気をだしなさい」 「自発的になりなさい」 「主体的になりなさい」 「リラックスしなさい」の論理矛盾!?

 あなたが、マネジャーになったり、教壇にたつ立場になったり、人前でファシリテーションする立場になったり、親になったとしたら、下記のような言葉を、ついつい部下や学生や学習者や自分の子どもに使っていないか、チェックをしてみてもいいかもしれません。僕は、自戒をこめて、そう思います。

 例えば、

「やる気をだしなさい」
「自発的になりなさい」
「主体的になりなさい」
「リラックスしなさい」

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 いかがでしょうか?
 あなたは、つい、これらの言葉を口にしていませんか?
 僕はあります。
 僕は「弱い人間」です。

 でも、これらの言葉の何が変かって?
 だって、少し考えてみれば、それは「論理矛盾」だってことに気づくでしょう。

「やる気をだしなさい」と上の人に命令されて、でてくる「やる気」って何だろう? それは、本当の「やる気」でしょうか? いや、そもそも、あなたが「だせ」と命ずる「やる気」って何?

「自発的になりなさい」と他者から指摘されて、自分から動くのは、「自発的」でしょうか? 言葉をかえて「主体的になりなさい」も同じ。「強制された自発性」「命令された主体性」って、そもそも「自発的」?それとも「主体的」? 

 最後に「リラックス」。
 皆さん、いかがでしょうか。第三者から「リラックスしてくださいよ」と命令されて、あなたは、本当に心身共に「リラックス」したことがありますか? 僕は、短い人生ながら、そういう人に一度もお会いしたことがありません。

 畢竟、これらの「状態」は、他人や第三者に「命令されたり」「押しつけられたり」して「なるもの」ではないのです。
 もし、あなたがマネジャーや教員やファシリテータとしてプロフェッショナリティを極めたいのであれば、あるいは、親として自分の思いを子どもに届けたいのであれば、「結果として、人が、そういう状態になるような環境」を「自然に」知らんぷりして「整えること」です。

 逆にいうと、「やる気をだしなさい」「自発的になりなさい」「主体的になりなさい」「リラックスしなさい」と述べてしまう状態は、まだまだ「発揮できる知性」があるような気がします。「現場で蓄積したノウハウと智慧」ないしは「これまで生きてきた経験」・・・ここにこそ、これらのものが、まだまだ活かせるのではないでしょうか。

「なんだか知らないけれど、結果として、やる気がでちゃった」
「なんだか知らないけれど、自発的にかつ主体的に動いちゃった」
「時間を忘れ、自然とリラックスしちゃった」

 「介入」するべきは「本人」ではなく、「環境」ではないのかな?
 つくりだすべきは「命令」ではなく、「機会」ではないのかな?
 自戒をこめて、僕はそう思います。

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 嗚呼、今週も走りきりました。
 僕に残された体力は、もう1デシリットル?もありません。
 デシリットルという単位を久しぶりに使いました。次に使うのは10年後でしょう。

 皆さん、ありがとう。
 そして人生はつづく。