対話のない学会、議論できない学会

「学会で話をすること、なかなかできないもんね・・・」
「学会で顔をあわせていても、じっくり話せないねぇ」

 ここ一ヶ月ほどのあいだに、何度か、同期の研究者と会い、じっくり話す機会があって、こんな話になりました。

 年に一度開催されることの多い、学会の大会(年会)が、次第に「議論のない(できない)学会」「対話のない(できない)学会」になりつつあるね、という話でした。

 もちろん、大会(年会)自体や、その運営について、あーだこーだ言うつもりは全くありません(僕の参加する学会は、毎年、様々な挑戦をしていると思いますし、運営も多くの場合、パーフェクトに近いと思います。皆様お疲れ様です。裏方のお気持ちはよくわかっているつもりです)。

 正確に、かつ、自戒をこめていいますと「対話できずに学会に参加している自分たち」「議論できずに学会に参加している自分たち」がいるだけであるような気がします。この問題は、あくまで「自分ごと」としてとらえております。

 自分たちの置かれている環境・境遇・時には怠慢から、その場が、なかなか「議論することができない機会」「対話することのできない機会」になってしまっていることに「危機感」や「焦燥感」をもっているということです。
 少なくとも、僕は、そうです。だからこそ、自分で、半年に一度は、同年代の研究者に声をかけ、対話し、議論できる場所を敢えてつくろうとしているのです。

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 「議論のない学会」
 「対話のない学会」

 一般に、この言葉は、少し「変なもの」として感じられるかもしれません。
 なぜなら「学会」とは、「共通の学術的関心をもつ研究者が集まり、最新の知見を披露し、議論・対話する場所だと考えられている」からです。「議論のない学会」「対話のない学会」とは論理矛盾ではないか、と。

 しかし、特に「中堅以降の研究者」にとっては、学会で、そのようなコミュニケーションをとることは、なかなか難しいのです。
 学会の合間に、様々な寄り合いやら、なんちゃら委員会などに招集される。プロジェクトや科研の打ち合わせが、ここぞとばかりに入ってしまう。
 大学院生の発表を聞きに行かなくてはならない(僕は敢えてしません)・・・などなど、要するに、そこが「オペレーションを回す場」になっているのです。本当に忙しい。

 かくして興味深いことに、「顔をあわせていても」、挨拶をするくらいで、話をする時間が全くない、という状況が生まれます。同じセッションにいても、発表をして、質疑応答というお決まりのコミュニケーションでは、じっくり話をすることは難しいでしょう。

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 若年層の場合には、学会は、業績を積む場・発表練習を行う場として、あるいは、リクルーティングの機会として、位置づけることができるのかもしれません。
 しかし、中堅以降のミドルキャリアの研究者にとっては、なかなか、その意味づけ・位置づけが難しい。

 でも、このままでは、ちと、「まずい」かもしれませんね。
 少なくとも自分に関しては、学会(年会)参加のあり方を考え直すべきときにきているのかもしれないな、と思います。
 時間をかけてせっかく参加するのであるならば、インサイトやラーニングに満ちあふれた機会にしたいものです。

 そして人生は続く。