「何かに挑戦している大人」と「何をやってもつまらなそうな大人」 : 「素朴概念」と「組織の枠」をはずして考える
「何かに挑戦している大人」「働きがいをもって仕事をする大人」は、組織の大小にかかわらず、探せばどこにでもいる
逆にいうと、
「やらされ感漂いながら疲れ果てて仕事をしている大人」「何をやってもつまらなそうな大人」は、組織の大小にかかわらず、探せばどこにでもいる
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文章にしてしまうと「アタリマエのコンコンチキ」のように思えることかもしれませんね。いやー、まことに失敬。でも、ここ数年、学部生の方々と話していると、必ずしも、そうは思っていない方がいるよな、と思うことがあります。
場合によっては、
大きな企業=組織の歯車として働く
ベンチャー企業=夢をもって挑戦して働く
ないしは
大きな企業=言われた仕事をやる
ベンチャー企業=自分のやりたいように働く
みたいな「イメージ」をもっておられる場合が少なくありません。
別に他人が組織にどういうイメージをもとうが、それは「人の勝手」なので、僕としてはどうでもいいです(社会人面してアドバイスする気はありません)。採用や就職は専門外、全くの門外漢ですし、上記の命題を検証できる手持ちのデータはありません。
ただし、この十年以上、本当に様々なビジネスパーソンとお会いしてきた経験からすると、この認識とはちょっと違う現実があるような気がするのです。
ひと言でいうと、人の働き方や仕事に対するモティベーションを考えるときに「組織の規模」や「組織の枠」に囚われすぎると、判断を誤ってしまうことも少なくないな、と思うのです。
別に大きな企業を擁護する気は「さらさらない」のですが、「そういうのは組織の規模じゃない」ような気もします。「何かに挑戦している大人」や「何をやってもつまらなそうな大人」は、組織の規模にかかわらず、どこにでもいるよ、と。
大企業にいても「新技術の開発、新たなマーケティング戦略、新たな商品開発に、夢をもって取り組んでいる人」もいる。部署間をつないだり、社外の様々な企業と連携して、イノベーションをおこそうとやっきになっている人もいる。
もちろん、一方で、働きがいを失っている人もいる。いやいややりたくない仕事に取り組む人もいる。
他方、ベンチャー企業だからといって、「自分のやりたいように働ける」場合が必ずしも多いわけじゃない。ひたすら金策に走り回ることに疲れ果てることもある。人数が少ないので、すべての業務を自分で引き受け、全く自宅に帰ることがままならない人もいる。
もちろん、夢をもって、自分の事業を大きくすることに取り組む人もいる。新技術を片手に、世界を相手に仕事をしている人もいる。仕事を通じての成長に生き甲斐を感じている人もる。
どっちが多いか、と言われると、正直、わかりません。
一方で、「もし、どちらかが多いのだする」と、そのことで、自分の進路を選択しちゃうのですか? とも聴きたくなります。
おおよそ「人」に関することなんだから、意識やモティベーションは、時期に応じて日々かわり、アップダウンを繰り返すでしょう。意識やモティベーションが、ずっと「高い人」は、ある意味で危ない気もしますし、ずっと「低い」のも危ない気もします(笑)。
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やや話が「脱線」しました。
要するに、こういうことです。
「組織の規模が、人の働き方やモティベーションを決定する」
と考えることは、ある種の「ステレオタイプ」のようにも思います。それは、いわゆる「素朴概念」・・・仮に名付けるのなら「素朴労働観」「素朴組織観」「素朴モティベーション観」といってもよいかもしれません。
こうした「固定的な認識」に依拠かぎり、そこで「思考停止」できますので、「他に何も考えることがなくってて楽」なんだけど、どうも「現実」はそうなっていないんじゃないだろうか。
「組織の規模」や「組織の枠」でものを考えることをやめてみると、いろいろ見えてくるものがあるんじゃないかな、と思います。
「組織に縛られたくない」とよく人はいいます。もしそうであるのなら、自分が働き方を考えるときに、自らが「組織の枠」に囚われていないかを、チェックしてみてもいいのではないでしょうか。「組織に縛られたくない」人が、「組織の枠」を通して物事を見つめているのだとしたら、それは論理矛盾です。
「何かに挑戦している大人」
「働きがいをもって仕事をする大人」
「やらされ感漂いながら疲れ果てて仕事をしている大人」
「何をやってもつまらなそうな大人」
誠に、世の中には、いろんな人がいます。
学生にも多種多様な人がいて、大学時代をいろいろに過ごすように、ビジネスパーソンといっても、多種多様。働き方に対する意識やモティベーションも多種多様。
島倉千代子の「人生いろいろ」、今度、カラオケで歌ってごらん(笑)。
もしアドバイスするのだとしたら「組織の規模」「組織という枠」で判断する前に、いろいろな人に、あってみて、話をしてみると、いいんじゃないかなぁ。
そして、そのうえで「自分はどうなりたいか」を考えて見れば、また違ったパースペクティブが広がるのかもね。
本当に情けないほど陳腐なアドバイスでごめんなさい。でもね、本当にそうとしかいいようがないので、しょうがないんですけれども(笑) なんか、こういうの、しゃべるの、オッサン臭いね。もうやめるね。
そして明日に、人生は続く
投稿者 jun : 2013年3月 6日 06:42
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