「どうせ、自分の授業や会議では、メンバーは意見なんか出さないよ」と嘆くときに、ちょっぴり考えてみたいこと:「良質の問いかけ」と「受けとめる勇気」
もう今となっては随分昔のことにように感じられますけれども、「対話」という言葉や、「対話を活かした授業」という考え方が、まだ、今ほど、それほど人口に膾炙していない頃、東京大学の僕たちの部門(僕は教育課程・方法開発部門の長をしております、意外にも、ひそかに、なんつって!)では、他機関と連携し、「ひとつの無謀な挑戦」を試みたことがあります。
当時2010年は、ハーバード大学のマイケル・サンデル先生が、NHKで「ハーバード白熱教室」をやっていらっしゃったときでした。
某企業につとめる僕の大学時代の同期からの打診で、この「白熱教室」を、東京大学本郷キャンパス・安田講堂で実施してみないか、というまたとないチャンスを得ました(感謝)。僕は、大学にとって、このチャンスは大きなメリットをもたらすと考えました。事態は急転直下、フリーフフォール状態で、動き出しました。
この打診から、当日、2010年8月25日まで。つまりは、サンデル先生が東京大学安田講堂の壇上にたつまでの数ヶ月間・・・七転八倒、阿鼻叫喚、四面楚歌、想像を絶するような会議と各種のネゴシエーションが続きました。中には、、いろいろな「葛藤」が生まれることになるのですが、もう3年もたった今となっては、その詳細を僕は憶えていませんし、それ自体に1ミリも興味はありません。
実務のど真ん中、ドロドロの泥沼をかけずり回っていた僕や僕の部門のスタッフとしては、その間の記憶は「全くの白紙」です。重田助教らと、とにかく、全速力で走り抜けたことだけが思い出されます。
8月は、本郷キャンパスの安田講堂に続く道は、本当に熱く煮えたぎっていました。今となってはよい思い出です。
▼
かくして、2010年8月25日、サンデル先生が安田講堂で授業をなし、その様子が日本全国のお茶の間に放映されることになりました(東京大学大学総合教育研究センター × NHK共催イベント)。
そのときの様子は、今もデジタルアーカイブに残っておりますし、下記のサイトで見ることもできます。もしまだご覧になられていない方がいらっしゃったら、どうかご覧下さい。
ハーバード白熱教室 in JAPAN@東大テレビ
http://www.todai.tv/contents/event/sandel/001/index.h%EF%BD%98tml
ハーバード白熱教室 in JAPAN@東大iTunesU
https://itunes.apple.com/jp/itunes-u/maikeru-sanderu-habado-bai/id448069376?mt=10
この授業にあたっては、当時、サンデル先生の公共哲学に関する授業内容もさることながら、それ以上の、様々な「波及効果」がありました。特に、様々なところで、日本の大学の行っている授業のあり方、カリキュラムのあり方について議論が起こりました。
「学習環境の革新」をめざす僕の部門としては、この光景こそが、一番大切にしたいものでしたので、非常に嬉しかったことを憶えています。 対話、対話型授業、対話を活かした学習・・・何といってもよいのですが、そういうものの大切さが、それまで以上に、人々の話題になりました。
▼
ところで、実務の詳細は忘れてしまいましたけれども、今でも、3年前のことで鮮明に憶えていることが、ひとつだけあるとしたら、このことです。
それは、サンデル先生をお呼びして、東大で講義をしていただきたい、という話がでてきたときに、いろいろなところから噴出してきた「ありがたい・ご懸念」です(どこからとは、敢えて、申し上げません)。
そもそも、大学教員が大人数授業なんかして、意見を学生に求めても、
「手を挙げる人がゼロで、意見がでないんじゃないか」
「ネガティブな意見しかでないんじゃないだろうか」
「多くの人に話をふると、まとまらないんじゃないか」
つまり、ひと言で申しますと、「学ぶ側への信頼がない」という事態です。そして、そうした言説とうまく共振するのが、「だからこそ」、「教える側」においても、「意見を出るような授業をしないほうがいい」「しゃべらせない授業の方がいい」「多くの人に話をふるような授業をしないほうがいい」という「教え手の言説」になります。この「学び手 - 教え手」の「共犯関係」については、すでにこのブログでもお話ししました。
どちらがどう、というわけでなく、双方が「授業の作り手」である、という認識を、双方が「大の大人」なんだから、持ったほうがいいよね、と僕は思います。
大学教育をめぐる「共犯関係」と「共創関係」
http://www.nakahara-lab.net/blog/2013/02/post_1944.html
ところで、
「手を挙げる人がゼロで、意見がでないんじゃないか」
「ネガティブな意見しかでないんじゃないだろうか」
などなど、こうした懸念に関しては、一定の理解を示す一方、僕は、きっと事態はそうならないだろうな、と思っていました。はっきり言って「野生の勘」です、北海道人をナメないでください(笑)
それぞれの懸念をひとつひとつ払拭しつつ、ようやく当日を迎え、さて会場は、どうなったでしょうか。学生はどのように振る舞ったでしょうか。
サンデル先生のファシリテーションによって、1200名を超える会場は、こうなりました。
「手をあげる人が多すぎて、意見をのべたい人が多すぎて、授業時間が、当初の2倍程度かかりました」
「ネガティブな意見だけでなく、様々な観点からの意見がでました」
「まとまることはないにせよ、それぞれの意見の保持たち達が、他の意見を持つ人々の存在には気づき、問題の奥深さを知りました」
▼
ここで「何を言いたいか」は明確です。
確かに、当日は、非常に類い希なるグローバルプロフェッサーの授業でした。ですので、誰がやっても、こうなるかどうかはわかりません。むしろたぶんならないでしょう。
また、また1200名の聴衆のうち4分の1くらいは東大関係者でした。圧倒的に一般聴衆が多いとはいえ、そのことの影響はゼロではありません(東大関係者が多いことは、個人的には、意見がでることにとってプラスになるとは思っていませんが・・・そういうご意見もでてきそうですね)。
ただし、少なくとも下記のことを考えてみることの意味はゼロではないことがわかります。
「意見が出ない」のは、まずは、人々の思考を「駆り立てる問い(Driving Question):良質の問いかけ」が、ないからではないだろうか?。
そして、「意見を出したとしても」、きちんと、それを「受けとめる勇気」をもっているだろうか。どんな意見がでたとしても、「積極的に耳を傾ける姿勢」をもっているだろうか?
「ネガティブな意見しかでない」のは、「物事の多様性」に気づくようなファシリテーションがうまくいっていないからではないだろうか?立場や考えの違いに気づくことこそが大切であるという価値観が、そもそも、うまくメンバーに共有されているだろうか?
「なかなかまとまらない」のは本当に「ダメなこと」なのか? 「無理矢理意見をまとめ、全員を落としどころにハメようとすること」を、急ぎすぎていないだろうか?多様な意見が、中空に存在し、それぞれの脳裏に少しは刺さっている状態。そういう理解状況だって、理解にとっては必要な状況ではないだろうか?
さて、以上の3点、いかがでしょうか。もちろん、不肖中原修行中、自分も、これらの問いにかかげられた問題に、時に、自らもからめとられていることを正直に告白します。以上、自戒をこめて、あげてみました。
ちなみに、このことに少しだけ関連して、先日、ある企業で、企業内研修の講師(ファシリテーション)をなさっている方と少しだけお話をする機会を得ました。その方は、企業内で研修やワークショップを担当なさっていて、いつも、このような感想をお持ちになるそうです。一字一句同じではないですが、下記に捕捉しながらお言葉を引用させて頂きます。
その方曰く、
「(本当にこの仕事をやっていると)みんな、企業で働く大人は、本当は、喋りたいんだって思いますよ / 本当に大人って、ここは大丈夫、面白いと感じた場では、関をきったように喋りたがるんです。いったん火がつくと、もう止まらない。大人に意見がないなんて、絶対にうそ。みんな意見はもっている。でも、それをふだん押し殺している。意見を持っていないように、みせかけている」
「でも、マネジャーの中には、完全に誤解をしている人もいます。うちの社員は、誰も意見を持っていない。そしてネガティブなことしか考えない。そして、全然まとまらない。そう思っていることもゼロではないのです / 本当は違うのです。意見を喋っても聞いちゃいない。ポジティブな意見しか聞き入れない。無理矢理まとめとして、誰が話しても、同じだな、と思う。そういう状況を、さんざん、下の人は見て、そう振る舞っているだけなのです」
▼
マネジャーと、グローバルに活躍するプロフェッサーを日本にお招きする際に噴出した懸念は、一見、異なる問題のように感じます。
しかし、ただ一点においては、同じ問題を抱えています。それは「学ぶもの - 教えるもののあいだの信頼関係の欠如や誤解」「リーダーとフォロワーのあいだの信頼関係の欠如や誤解」です。
もちろん、片方は「教える現場」、片方は「仕事の現場」です。おいそれと並べるという即物的な比較は慎まなくてはなりません。また、権力関係的には双方は「非対称」ですので、学ぶものの思惑と、教えるものの思惑がぴったり重なることはありません。
しかし、それが変な方向に重なり合い共振しあいますと、「デフレスパイラル(負の方向)への共犯関係」が作動することを忘れてはいけません。
▼
今日のブログ記事は、若干の思い出話も含みながら、「意見がでない」「ネガティブな意見噴出」など、「学びの場 / 仕事の現場のコミュニケーションをインタラクティブ」にしたときに起こる懸念について考えました。
「手を挙げる人がゼロで、意見が出ない」
「ネガティブな意見しかでない」
「意見がぜんぜんまとまらないんじゃないか」
こうしたことにお悩みをお持ちの皆さまが、このブログの読者の方々にもいらっしゃるかもしれません。それぞれの状況の詳細については、わたしはわかりませんし、残念ながら、知るよしもありません。
ただ、そうした現象を「個人のせい」「学習者や受講者のせい」だけに帰属しようとなさるのならば、少しだけ立ち止まって考えてみることも無駄ではないかもしれません。。
どうか、一寸だけでも考えてみる時間はあってもいいように思うのです。
そういう社会的状況は、「なぜ、生み出されているのか」
「本当に、こちら側になすべきことはないのか」ということです。
そういう場合、「教える側」「マネジメント側」にも問題がないとはいえない場合が少なくないな、と個人的には思いますが、いかがでしょうか。
そして人生は続く
投稿者 jun : 2013年2月15日 07:00
【前の記事へ移動: できる講師と、そうでない講師の分かれ道:現場の人に「刺さる言葉」をつむぐ ...】【次の記事へ移動: "教えることを教えるプログラム"の先進事例がわかります!:T ...】