人材育成の言説は「極」がお好き!?:オレオレ、マッチョ、修羅場主義

 人材育成の言説空間というのは、ほおっておけば、「オレオレ、マッチョ、修羅場主義」の方向に解釈され、染まっていく傾向があります。

 つまり、どういうことかと申しますと、

「自分一人でギリギリと自分を鍛錬し(オレがオレが)」
「できる個人が、さらに経験を積んで強くなればいい(マッチョ)」。
「そういう人を伸ばすために、組織は"修羅場"を用意すればいい(修羅場主義)」

 みっつあわせて「オレオレ、マッチョ、修羅場主義」です(笑)。
 怒らないでね(笑)。
 真に受けないでね(笑)。

 もう少し真面目に、かつ、品のよい!?、アカデミックコレクト!?な言葉を使うのだとすると、とかく、人材育成の言説空間とは「個人還元主義」「経験至上主義」に解釈され、普及していきがちだということですね。

 「経験」を積むのも「個人」の力
 「内省」を行うのも「個人」がひとりでうんうんやるべきこと
  そういう個人に、組織は
 「とびっきりの修羅場」を与えればいい。
 「強い個人」が、さらに強くなる

 すべてとは言いませんが、その背後には、こうした「人間観」「組織観」「経営観」が透けて見えます。

 もちろん一概にこれが「間違い」であると否定することはできません。また、これは「経験・内省・個人を探究する研究」「生産された人材育成の言説」それ自体の問題ではありません。

 経験を積み、内省を個人として行うことは、人材育成の「基本中の基」であり、何も疑うことはありません。できる人にさらに面白い仕事を提供することは、人材マネジメント上間違っていることではありません。
 企業・組織は「学校」ではありません。「学校」とは異なり、「Equality」を追求することが、組織の倫理的基盤として位置づけられているわけではありません。

 それでも、やや問題だと思われるのは、人材育成の言説空間において、様々な研究・様々な事実が、多種多様な利害をもったステークホルダーに解釈されていくあいだに、それがバランスを欠いた状態で変質していく事態です。
 それは言説の生産者のせいではありません。それらの思惑を超えて、時には、その言説の一部を切り取る形で、大切な部分が意図的に無視され、様々なステークホルダーの解釈を通して、言説が変質して行くのです。

 たとえば、「経験からのリーダーシップ開発」を主張したMcCallらは、リーダーシップの向上のために必要なものは、「タフなビジネスの経験」であることに加えて、様々な要因をあげました。例えば、セーフティネット、メンタリングなどの支援、挑戦が公平に評価される評価基準であることなどを喝破し、それらへの言及を忘れませんでした。
 しかし、結果はどうでしょうか。
 人材育成の言説空間において、主に人口に膾炙しているのは「タフなビジネスの経験」だけであり、後者のような要因は、あまり省みられることがありません。「セーフティネット、メンタリングの機会、評価基準の公正性をともなわない、タフなビジネスの経験」って、どういうものかわかりますか? 挑戦して、ひとつつまづけば、落ち続ける、ということですよ。
 少し想像してみればわかると思うのですが、かなり「ブラ○クな状況」であることが想像に固くないでしょう。

 以上は、やや極端な例ですが、これに類する事態は容易におこりえるのです。
 言説の変質の過程、意図的な切り取りの過程においては、とかく、個人を支える社会的関係、社会的環境に対する「目配り」が、ときに失われ、「個人」が肥大化し、組織内における人材マネジメントのバランスがとれなくなる事態が生まれがちです。

 そうした個人が、どのような世代に属し、どのような時代背景のなかで生きていたことが忘れ去られ、それに対する必要な支援が省みられなくなる事態も、また生まれがちです。

 要するに、かくして「バランスを欠いた人材育成のあり方」が生まれてしまうのです。

 人材育成の言説解釈は「極」を好みます。
 「極」にふって解釈した方が
  世間には「わかりやすいから」です。
 
 「極」にふって解釈した方が、
  短期的には組織においては得であることも
  あるからです

 「極」にふって解釈した方が、
  それへの対処法を提供する「個人の経済的便益」
  につながりやすいからです

 そうした様々なステークホルダーの思惑のなかで、時に「バランスが崩れること」が僕の懸念です。

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 最近、人材育成の言説空間において、「僕だからこそできること」を考えます。

 それは、その言説空間の内部にいる覚悟をきめて、全体に目配りを行い、「極にふれた物事」に対する「対抗言説」を生産し続けることなのかな、と思います。

 先ほどの「オレオレ、マッチョ、修羅場主義」の場合ですと、

 個人を支えるものに「職場」があったでしょう

 内省は「他者」を媒介として達成されるでしょう

 修羅場の経験には、支援やセーフティネットが
 必要でしょう

 修羅場といっても、若い世代に、何の支援もなしで、そりゃ、無理でしょう

 ということを敢えて主張することです。

 奇をてらっているわけではありません。それが自分の研究成果からしても「事実」であるから。先行研究の多くも、本来は、そうしたことをデータとして提示しているから。
「事実」「データ」をもとに、それらを相対化しつつ、崩れたバランスに目配りを行うことが、僕のなすべきことなのかな、とも思うのです。
 あまり「得」な役回りではありません(笑)。
 ぬるくて、わかりにくくて、煮え切らないから(笑)。
 
 先ほど述べましたように、人材育成の言説解釈とは「極」を好みます。どうしても、「オレオレ、マッチョ、修羅場主義」が強くなります。
 それは、ネオリベラリズム的な思想が少しずつ盛り返しつつある、今だからこそ、なおさらなのかもしれません。この考えは、いわゆる「自己責任論」と共振し、人々の人口に膾炙しやすい特徴をもっています。

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 面白いことに、1980年代以降の学習論の趨勢は、いかに「個人」を乗り越えるか。いかに「経験」を乗り越えるか、ということにありました。

 社会構成主義しかり、学習環境という概念しかり、この30年間、研究者が格闘してきたのは、こうした「個人還元主義」「経験至上主義」に対する知的チャレンジでした。
 マクロにみれば、人文社会科学の趨勢も、その延長上にあると考えて良いと思います。しかし、人材育成の言説解釈は、それらとは、時に「逆行」します。

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 まだまだこれからなのかもしれませんが、40歳ちょっと手前にして、ようやく、自分が果たすべき言説の特徴、依拠する人間観、めざす世界観みたいなものが、朧気ながらわかりかけているような気がします。

「遅い!」とお叱りをうけるかもしれませんが、ようやく、ようやく、「自分のやりたいこと」「自分のなすべきこと」がわかりかけているような気がします。

 そして修行は続く