罵倒されて「目を輝かせる人」はいない!? (罵倒 - なにくそ - きらきらはありえない!?):「発憤させる」というロジックで行使される「象徴的暴力」

 かなり前から何度となく言っていることですが、僕は「発憤(はっぷん)」という言葉が、どうも好きではありません。今日のネタは、全く個人的なことですが、「個人のブログ」なので、お許し下さい(笑)。皆さん、お忙しいでしょうから、真に受けないで(笑)

「発憤」とは、辞書によりますと「気持ちをふるい起こすこと」とあります。もちろん、この意味自体に、小生、ことさら「好き嫌い」があるわけではありません。どっちでもいいよ、別に。

 しかし、「発憤」の「巷における具体的な利用例」に話がうつってくると、話は別です。どっちでもよくない、全くよくない。
 僕は「発憤させるというロジックのもとに行われる人々の行為」があまり好きではありません。
 その用語に、あまり「知性を感じないこと」も、その理由のひとつなのですけれども、何より「効率的」ではないように思います。

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 発憤という言葉のもとに、現場で、どのようなことが行われるかというと、たとえば、こういうことです。

「上の人が下の人に対して、下の人が反発心を憶えるような"相当厳しいダメだし"を行い、下の人が、"なにくそ"と反発心を憶えることで、モティベーションがあがり、物事に積極的に向き合うようになる」

 というようなイメージでしょうか。

 ま、簡単にいうと(笑)、

 反発を憶えるような強烈なダメ出しで、
 目を輝かせるようになった!
 前とは見違えるように物事に取り組むようになった!
 なにくそ! きらきら!

 ということでしょうか。

 ワンセンテンスでいえば

 罵倒 - なにくそ - きらきら!(笑)

 単純化しすぎかもしれませんが、あと10分しか、僕には時間がないので、お許し下さい(もう10分すれば、カミサンとTAKUZOが起きてきます)。
 
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 確かに「強烈なダメ出し」も時には必要なこともあるでしょう。
 もちろん、「人格否定につながりかねないダメ出し」は差し控えることが必要でしょうが、とはいえ、この世の中では「どんなに厳しいことでも、言わなければならないことは言わなくてはならない局面」は、確かに存在しそうです。

 ただし、それが行きすぎ「反発心を喚起するような強烈なダメ出し」につながると、話はどうか。
 特に発憤が想定する「ロジック」である「反発心を喚起するような強烈なダメ出しで、目を輝かせることにつながる」というセンテンスになりますと、確率論的に、これが奏功する可能性がどうでしょうか。
 僕は、必ずしも、そうはいえないことの方が多いような気がするのです。

 といいますのも、僕は、40年弱生きてきて、自分自身、

「罵倒されて、目をきらきらと輝かせたこと」など一度もありません。

 単純に相手に対する「怒り」が、フツフツ、メラメラとわいただけ(笑)。「いつか、コ○すリスト」に、罵倒した相手の名前を書き加えただけです。そして、丑三つ時に、そのリストと釘をもって、神社にでかけただけ(笑)。すみません「根暗」で(笑)。

 また、僕は、40年弱生きてきて、

「罵倒されて、目をきらきらと輝かせる人」など、一度も見たことがありません。本当に見たことがないんです、そういう光景を。そもそもね、一般人の口から「なにくそ!」という言葉すら、聞いたことがありません。
(なにくそ!という言葉を口にするのは、アニメ業界の人と、教育業界の人くらいなんじゃないでしょうか)

 ダメ出しを行う方と、行われる方に、長期にわたるよほどの強固な信頼関係があれば、そういう事例がないわけではないのかもしれませんし、ケースバイケースなのでしょうけど、実際には、「そうならない局面」の方が圧倒的に多いのではないか、と思います。もちろん、うまくいくケースもあるんだろう。でも、確率的には、奏功する確率は高くないと言えるような気がするのです。

 つまり「発憤させよう」として「発憤しない」。
 ありゃりゃ?

 むしろ、

 反発心を憶えるような強烈なダメ出しによって、心が折れてしまう
 強烈なダメ出しによって、やる気を失ってしまう
 強烈なダメ出しによって、反発心だけをもつ・・・メラメラ

 ことの方が多いような気がしますが、いかがでしょうか。

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 つまり、僕が、発憤の「何が嫌か」と申しますと、「発憤を喚起するようなやり方」は、それほど、「効率がよくない」と思うのです。もちろん、うまくいくことも、ないわけではないのかもしれない。しかし、それは確率的には高くなく、むしろ「逆効果」になることの方が多いような気がします。

 しかし、一般に「発憤させる方」はそうは考えない。激昂していますから(笑)、感情高まってますから、おらおら。
 その場合、ともすれば「反発心を憶えるような強烈なダメ出し」を行ってさえすれば、「発憤して相手の目が輝く」と思ってしまう。しかし、それで可能になるのは、たいがいは、「激昂している自分の感情のカタルシス(浄化)」だけ。そういうことが多いのです。だから、効率がよくない。

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 これも、まことに「一般論」ですが、たいがい、上の人が下の人を指摘する場合、「指摘した内容」には間違いはないことの方が多いものです(それさえ間違っているのなら、もう論外)。つまり、下の人が「まぁ、それを言われたら、そのとおりです」ということです。

 問題は、その「指摘の仕方」です。その「指摘の仕方」によって、下の人は、反発したり、傷ついたり、しょぼくれたり、してしまいます。

 ここで、大切なことは、上の人が「指摘した内容」に下の人は反発したり、傷ついたりしているわけではない、ということです。
 むしろ、それよりは「指摘するやり方」が問題であることの方が、圧倒的に多い気がします。

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 さらにいうならば、この「発憤が想定しているロジック」は、行きすぎれば、「反発心」どころか、「人格否定につながりかねないような強烈なダメ出し」すら、「正当化」してしまう可能性をもっています。だって、下の人が、それに抗すれば、上の人が、つい口にしたくなる言葉はこうでしょう。

「だって、(オレがダメだしてんのは、)オマエのためだろうが?」

 このような認識のもとで、つまりは「反発心を喚起する」というロジックをもとに、「下の人のモティベーションをあげよう」と思ったのだから「何をしてもいい」と上の人が考え、どんな行為でも許されることになることを危惧します。

 つまりね、「発憤のロジック」は一見「教育的」なのです。
 しかし、そのロジックの背後に蠢く「根拠レスな権力性」や「根拠レスな暴力性」を、時にそれは「正当化」してしまう可能性を有しています。
「発憤させるためだった」ということで、どんな"教育的"行為も許されるのだとしたら、それは間違っています。僕は、そういう「象徴的暴力」には嫌悪感を感じます。

 こんなわけで、どうでもいいことかもしれませんが、
 僕は「発憤」が嫌いです。

 少なくとも、僕を、「発憤」させないでください(笑)。
 僕、それで、全く「発憤」しませんし、目もキラキラさせませんから(笑)。
 いやー、中には、そういう性癖をもっている人もいるかもしれないけど、
 僕は違うから(笑)

 だってね、これはさ、ここまで言葉を積み重ねなくてもさ、
 すごくシンプルなことですよ。

 もし仮にあなたが、「罵倒して他人を発憤させたい」と思ったとしたら
 ぜひ、逆の立場になって考えて下さい。
 そういう、あなたは反対に
 「第三者から罵倒されて発憤させられること」を望みますか?

 静かに言おう、ちゃんとね(笑)。
 自戒をこめて。

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追伸.
「成功した人」は、時に自己をふりかえり、「過去の発憤の経験」を「美談」として語ることがあります。つまり、「あのとき、あのひとに反発心を憶えて、発憤して頑張ったから、いまの成功がある」というストーリーを悪意なく語りやすいということです。要するに、圧倒的少数の「成功した人」は、「発憤のストーリー」の「ストーリーテラー」になりがちです。

しかし、僕自身は、この「発憤のストーリー」を、少し「割り引いて」考える必要があると思います。

 第一の理由。
 それは「発憤のストーリー」が、「メディア論」的に「わかりやすい」説明でありすぎるから。当の本人に、「悪意」がなかったとしても、読者を魅了するストーリーとして、事実がねじまげられて語られる可能性がゼロではないように思います。

 第二の理由。
 それは、「発憤によって挫折し成功につながらなかった人」の方が、確率的には多いのにもかかわらず、そちらには、そもすれば、焦点があたらないからです。
 確率論的にごくごく少数の事例を過剰一般化してしまう可能性があるからです。つまり、「ごくごく少数の成功者」の語りにしか注意が向いていないという意味で、その認識は「錯誤」をおかしています。
 もし、こういう錯誤に興味のある方は、Gilovoch, T.の古典的名著「人間この信じやすきもの―迷信・誤信はどうして生まれるか」をお読み下さい。

 世の中が注目するのは、いつも「圧倒的な成功者」です。かくして、「発憤のストーリー」は美談として流通し、発憤させる行為が正当化されることになります。もちろん、それらの「発憤のストーリー」がすべて無意味であるとか、すべて錯誤だとは決していいません。中には、本当にそういう場合もあるのでしょう。
 でも、僕は、上記の2つの理由から、その主張は割り引いて考えるくらいがちょうど良い、と思っています。