「よかれ」と思ってやった「支援」が、「過剰な依存」を生み出してしまうとき:他者をスポイルしない支援のあり方とは?
「支援」とは、まことに難しいものです。「よかれ」と思ってやった「裏目」にでる。「裏目」にでることを恐れて、支援のタイミングを失う。そういったことは、私たちの人生において、よくあることです。
とかく「支援すること」の最悪の帰結は、「依存」を生み出すことでしょう。
つまり、「人が、他者に過剰に助けてもらっている状態が続くと、助けてくれている人に依存してしまい、自律のきっかけを失ってしまう」ということですね。
ひと言でいうならば、「過剰な支援」は「依存」という「中毒」を生み出し、人をスポイルしてしまいます。支援とは、ひとつ間違えれば、悲劇的な結末を創り出すことにもつながります。支援とは、そういう「諸刃の剣」なのです。
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さて、それでは「依存」を生み出さないための支援のあり方は何か?
この「問い」には、これまで古今東西様々な研究者や実務家が回答を試みてきました。それをすべてあげつらうことは、本ブログの紙幅ではできません。
ただし、僕の考えに関する限り、特に注意しておきたいと思われるポイントは、以下の3つです。それは根源的なことかもしれませんが、チェックしておきたいポイントです。
1.そもそも「支援されるべき人」を支援しているのか?
2.支援の量と質は適切か?
3.支援を解除するタイミングを逸していないか?
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1の「そもそも"支援されるべき人"を支援しているのか?」というのは、支援というコンセプトの根幹にかかわる問題です。
支援とは、単純に「他者」を助けることではないと僕は思います。
そうではなく、それは「何らかの意図をもった他者の行為に対する働きかけ」であり、「その意図を理解しつつ、行為の質を維持・改善する一連のアクションのことをいい、最終的な他者のエンパワーメントをはかること(小橋 2000)」です。
これ、どういうことかと申しますと、「支援されるべき人」とは「何らかの意図をもった人」「行為の質を維持・改善したいと願う人」、そして「最終的にはエンパワーメントを受けて、自律を願う人」ではなければならないということです。支援とは、そういう人にこそ「提供」されなくてはならない。
逆説的に述べるならば、「意図をもたない人」「行為の質を改善・維持しようと思わない人」「最終的な自律をめざさない人」を「支援すること」は、なかなかできません。もちろん、もしかすると、「支援を必要としている人」の中には、「深刻な状況や渦中にあって、今はまだ、意図を明確に持てない人」もいるかもしれない。しかし、支援プロセスの、どこかの局面では(なるべく早いうちに)、少なくとも「意図」をもっていただく必要があるし、そういう「支援の前段階」も場合によっては必要なことなのかもしれません。
支援される側に意図がない場合、もし万が一、支援を為したとしても、その「支援」は「依存」を生み出すだけになってしまう可能性が高いようにも感じます。
支援とは「支援される側」にも、一定の「覚悟」が必要なのです。
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2「支援の量と質は適切か?」は、語り出せば、これだけで一冊の本が書けるほど深いテーマでしょう。「よかれ」と思って行った支援が、全然「あさって方向での、間違ったベクトル上での支援」になってしまったり、「よかれ」と思って続けた「支援の量」が大きすぎて、いつまでたっても、「支援対象者が自律できないこと」は、よく聞く話です。
これに関する「王道の解決」を、僕は、思いつきません。
おそらくポイントは、地道でベタベタな解決のあり方 - 支援対象者の「話を聞くこと」、そして、支援対象者の「行為の変化」をモニタリングし続けること、でしょうか。
支援のあり方を、制御理論よろしく、常にモニタリングし、コントロールする地道な努力の果てにしか、問題解決の方策はないような気がします。
文章にすればワンセンテンスです。
それは依然として「難問」であります。
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3「支援を解除するタイミングを逸していないか?」に関しては、すでに1の部分で一部を述べています。
支援は「提供すること」も大切ですが、最終的なエンパワーメントを達成した場合には、「適切なタイミング」で「解除されること」が大切なポイントになってきます。
どんな「良質の支援」であっても、いつまでもいつまでも「継続されること」は良い結果を生みません。「支援提供者」と「支援対象者」は、適切なタイミングで「分離」しなくてはならない、「別れ」を経験しなくてはならない。
ですので、「支援の提供者」は「それまで支援を注ぎ込んできた対象者から、無条件で感謝され、承認される喜びや快感」から、自ら、袂を分かつことをしなくてはならない。支援のためには、支援する側にも、「矜持」が必要です。
それは、支援の究極の目的が「自律」にあるからです。
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以上、今日は「支援」と「依存」について書きました。
とかく、「支援」というのは「よい語感」をもった言葉で、それだけで人を魅了・幻惑します。
一般に、支援という言葉からは、人は「よきもの」を想像しがちです。しかし、上記に述べましたように、支援とは「厳しい側面」をもっている言葉であり、使い方を間違えば「悲劇的な結末」を導くものであると、僕は思っています。
支援とは「支援される側」にも「支援する側」にも、「覚悟」や「矜持」を必要とするコンセプトなのです。
人は、一生涯において、誰かを「支援している」か、誰かに「支援されているか」のどちらかである
と言ったのは、誰だか忘れましたが(!?)、そんな「難しいもの」の網の目の中に、わたしたちの生活はあります。そして、私たちは、今日も「支援しているか」「支援されているか」のどちらかを生きています。
そして人生は続く
投稿者 jun : 2013年1月 8日 07:19
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