「プレイングマネジャー」と「マネジングプレーヤー」の狭間で:マネジャー・移行・学習

 最近、ひそかに思っていることのひとつに、「マネジャー学習研究」に「移行(Transition)」という概念を強調し、かつ、このプロセスを詳細に見ていく必要があるのではないかな、ということがあります。

 かつてのマネジャー研究の前提になっていたのは、ざっくりいうと、つまり、こういうことです。

 マネジャーとは「ソロプレーヤー」とは異なる「固定的な役割」をもつ人であり、その役割を会社・組織から付与された人は、その瞬間から「プレーヤーとしての役割」を棄却し、「マネジャーという役割をパフォームするのである」ということです。

 つまり、「プレイヤーであった自分」と「マネジャーとしての自分」の間には、大きな「断絶」があり、そこはあたかも「ゼロイチの世界(digitな世界)」である、という前提です。多くの研究は、この前提を共有していますし、それに基づいて構築された研修やセミナーなどの学習機会は、カリキュラムの背後に、この前提を持っています。

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 しかし、僕の研究(調査やヒアリング結果)に関するかぎり、このような「完全なる役割転換モデル」は、「現代組織を生きるマネジャーの仕事の実状」には、あまりあっていないような気がするのです。ていうか、もっと、ドロドロしてる。

 よく言われることですが、現代のマネジャーは、0と1のディジットな世界に生きているというよりは、「ソロプレーヤーとしての時間」と「マネジャーとしての時間」をやりくりしながら、そこにときに矛盾を感じ、あるときには、それを利用しながら、生きている。

 最近の調査結果によると、9割以上のマネジャーが、何らかのかたちで、「ソロプレーヤーとしての時間」をもっていることがわかります。つまり、マネジャーといいつつも、「成果をだす自分」の部分を棄却できないでいるということです。

 これらの結果は、「多忙化」「業務負担」「二重役割」といったキーワードとともに、ネガティブな結果として語られがちです。もちろん、過剰な多忙感・業務負担は、人を苦しめ、永続的に働くことを不可能にしますので、絶対に避けられなければなりません。
 特に昨今の組織においては、ミドルマネジャーに期待される役割が、年々高まっています。組織の中で生じるあらゆる問題を解決する存在として、ミドルマネジャーが位置づけられることが多いということです。あたかも「問題のゴミ箱」のように。繰り返しになりますが、そうした現状は、反省されるべきだと僕派思います。

 一方で、マネジャーがマネジャーでありながら「ソロプレーヤとしての仕事」をもつことは、すべてが「ネガティブかことなのか」というと、過剰な労働・業務負担に苦しまない限りにおいて、そうとはいいきれない側面もあります。

「マネジャーになることの不満・不安」でもっとも多いのは「現場を離れる不安」であり、「仕事がわからなくなること / マネジメントしかできなくなることへの不安」です。

 やっぱり、多くの人にとって「現場」が、一番面白いのです。また「現場から離れることは怖い」のです。いろいろな出来事が即興的かつ連続的に起こる「現場」には、しんどさがあります。しかし、同時にその現場はやっぱり面白い。現場から離れることの辛さや喪失感は、ある程度の年齢をへた方なら、おわかりいただけるかもしれません。

 そして、ソロプレーヤーとしての側面を少しでももつことは、この不満や不安を軽減する可能性もないわけではない。それがカタルシス(感情浄化)に果たしている役割も、見過ごすことはできないな、と思います。

 まして、今の時代は、マネジャーになったからといって、この先、ずっと「マネジャーとして長期雇用される可能性」は、かつてよりは低くなっています。
 だとするならば、もし「雇用不安」に陥ったときでも、「マネジメントしかできない自分」というよりは、「ソロプレーヤとしても働ける自分」を維持していたい、と思うのは、当然のことのようにも思います。

 また「プレーヤーとしての時間」を生きることは本人以外にも影響を与えます。で、それこそ「部下が背中を見て学ぶ」「部下と同行して学ぶこと」が可能になる側面もある。また、職場の雰囲気やロールモデルをつくるため、マネジャー自身が率先垂範することも求められることもあるかもしれない。
 つまり、マネジャーでありながらも、部下や職場を動かすために「ソロプレーヤーとしての役割」を利用している可能性もあるのです。

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 もちろん、大局的かつ俯瞰的にみれば、マネジメントをはじめてから、少しずつ、「シングルプレーヤーとしての時間」は減少し、徐々に「マネジャーとしての時間」は増加していくのでしょう。しかし、それは、おそらく従来のモデルが想定していた「ゼロイチの世界」ではない。

 つまり、「マネジャーになる」ということは、

 プレイングマネジャー(プレーヤーとしての時間が長いマネジャー)
 マネジングプレーヤー(マネジメントに費やす時間が長いプレーヤー)

 の間のどこかの中間地点に、居場所を見つけて生きることなのかもしれないな、と思うのです。

 だとすれば、マネジャーは、自らの役割をいかに再学習し、移行を果たし、中間点を見つけていくのか。またあるとき見つけた中間地点をはなれ、いかに新たな一点を探すのか。このプロセスに潜む、生々しさが興味深いな、と思っています。

 上記は、思っていることを、つらつらかきました。まだ、僕自身もモヤモヤしています。「モヤモヤしたわからないこと」を、理論とデータに基づいて「言葉」にかえるのが、「研究」という営為なのですが、今、僕は、自分自身が考えていることの1%も、きちんとした「言葉」にできた気がしません。まだまだ研究途上といった感じです。

 もう少しデータと対話しながら、このあたりを考えていきたいものです。

 そして人生は続く