大学と企業のつながり、10%の可能性 / 現代大学生の価値観「何事もほどほどに族」の今後

 先日、「大学生研究と企業研究をつなぐ」をコンセプトにしている共同研究、東大中原研究× 京大溝上研の共同研究打ち合わせがありました。

 大学生研究をなさっている溝上慎一先生(青年心理学)と、不肖中原の研究チーム(経営学習論)がタッグを組むことで、高等教育研究 × 組織研究のシナジーが生まれる!?かもしれない、ということで、ここ数年、ひそかに、地道に、シコシコと、取り組んでいる活動です。
 中原研からは、中原・舘野さん、木村さん、保田さん、溝上研からは溝上先生、河井さんが参加しています。

 研究会では、昨年行った調査データをもとに、いろいろな分析結果が示されました。そのどれも興味深いものでしたが、僕個人としては、特に2つ印象深い議論がありました。

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 ひとつめ。
 それは、「大学での生活・学習・経験」などが、「会社入社後のキャリア・パフォーマンス」に与える影響は、おおよそ「10%」前後であることがわかってきたことです。これは先行研究においてもおおよそ確認されていますが、本研究においても、輪郭が明らかになってきました。

 だとするならば、この「10%」を高いと見るか、低いと見るか。もちろん「10%」でOKということはなく、この値を高めていくことが社会的には要請されていることなのでしょうけど、現段階の「10%の可能性」を様々な角度から検討することが、研究会では行われました。

 一般にはね、、、「10%」といいますと、「すごく少ない」「無視してよい数字」のようにも感じます。だって、残りは90もあるんだぜ。10なんてよ、おいおい、という感じです。

 しかし、よくよく考えてみますと、「企業の中でのキャリア・パフォーマンス・行為の質」という「複雑怪奇・魑魅魍魎・七転八倒的な不条理な世界」の10%を説明する(予測する)というのは、そうそう「低い数字」ではないようにも感じます(10%で満足であるというわけではありません)。

「企業の中でいかに働けるか、生きうるか?」を説明する要因の、残りほとんどは言うまでもなく、職場要因、組織要因です。
 どんな組織に入るか、そこでどのようなマネジャーに出会い、どのような環境で、どのような仕事をまかされるかで、その人のパフォーマンスは決まりますよね。あたりまえのことですね。それがもっとも大きな要因ですね。

 個人的には、「大学教育の説明率」が「10%」前後というのは「そんなもんだろうな」とも思いましたし、むしろ現段階で「へー、そんなに高いんだ」という印象がありました。

 先ほども述べましたように「魑魅魍魎、伏魔殿、複雑怪奇な不条理な社会(しつこい?)」での行為を、現段階で10%「も」説明しうるのは、そんなに低い数字ではないと思えましたので。

 ふりかえってみますと、確かに最大要因である「職場要因」は確かにパワフルです。しかし、これは外部からコントロールすることはほぼ不可能です。
 現場で、どのようなマネジャーに出会い、どのような仕事を任せられるかは、そのときどきの状況に応じますし、ひと言でいえば、「運」です。

 大学教育は、大学改革?の結果によりますが、それが意図的な試みである限りにおいて、外部から「統制」は可能かもしれません。おそらく、この値を高めることは、今後、ますます大学に求められるようになるのではないか、と推察します。

 また、学生が、どういう大学を選ぶかで、そこで自分が受けられる「教育の質」は変わると思われます。大学生は、長い大学生活4年間を通じて「いかに学ぶか」「いかなる経験を積むか」を自分で決めることもできます。そこに発揮される主体性は決して少なくない、とも思われます。

 なお、この研究、詳細な分析は、まだまだこれからですが、初期キャリア(1年目から3年目)に限れば、この説明率は、もう少し変化するかもしれません。

 あたりまえのことですが、大学教育が就職・初期キャリアを規定し、就職と初期キャリアが、その後の実務担当者としての活躍、マネジャーとしての活躍を規定すると思いますので、それぞれごとに別のモデルを立てうるのかもしれません。

 まー、要するにだね。
 まだ、現段階で、詳しいことは、わがんねー(笑)。
 今後の分析をとても愉しみにしています。

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 ふたつめ。
 それは、研究会の席上で、「現代大学生の有する価値観」について議論になったことが、印象的でした。これは僕個人的なヒットかもしれません。他の方は、「中原さん、なんで、そんなにツボにはいってんすか?」という感じでしたので(笑)。

 研究会では、「現代大学生のもつ価値観」でもっとも多いのは、第一位「勉学第一」、第二位が「何事もほどほどに」であることが話題になりました。

 歴史的には、80年代もっとも多かった大「学生の価値観」は「対人関係重視」で、90年代にはいってから「対人関係重視」は減少し、この2つ「勉学第一」「何事もほどほどに」が台頭してきたそうです。

 このうち「勉学第一」はわかります。ま、そりゃ、「まんま」だよね。勉強してちょ、学生なんだったら。でも「何事もほどほどに」のイメージが、最初、僕にはつかめず、研究グループで議論になりました。
「何事もほどほど」には、勉学、サークルなど、いろいろなことをちょこちょこと行い、しかし、どれにも「敢えて熱はいれない」、という価値だそうです。うーん。

「何事もほどほど族」は、「何事もほどほど」にしていて、「そこそこの仕事」について、「そこそこ幸せ」になれればいいと思っているそうです。
 いろいろな ことをやっているのに、「敢えて、どれにも熱をいれない、敢えて入れ込まない」というのが興味深いな、と個人的には思いました。

 だってさ、「敢えて!」なんですよ(笑)。あのー、おもしろがってるのは僕だけすか。
 たぶんね、僕はふだん、研究室で「前のめり気味の大学院生」ばかりにあってるから、感覚がズレてるのです。
 学部の授業で学部生にあうこともありますが、僕の専門に興味をもつ学部生は(社会にでていないのに、企業・組織の中の人材育成に興味を持つ人は少ないでしょう)、一風、変わっている方が多いようにも見受けられます。

 ともかく!「主体的に熱をいれない」、「主体的に入れ込まない」というかたちで、「主体性を発揮する」ことが、芳醇でアイロニカルな香りが漂い、興味深いことで、ダバダーですな(ネスカフェのCM的に読んでください)。それは僕個人が学生だった頃の価値観とは、すこしズレるので、個人的に興味があったのかもしれません。

 しかし、個人的には、同時に「危ういだろうな」とも思うのですね。
 「何事もほどほどに」という価値観をお持ちの方が、「そこそこの仕事」を得て、「そこそこの幸せ」につながるとよいと本当に思うのですけれども、昨今の経済状況・企業の経営状況を見ていて、「微妙だな」とも思います。
 「そこそこ幸せ」ってのは、どのレベルなのかっていう問題もあるんだろうけど、常識的に考えれば、自分の親の世代の家計くらいってことなのかなぁ。だとしたら、なおさら「かなり危うい」だろうなぁ。でも、人は、なかなか生活レベルおとせないよねぇ。

 仕事柄、人事・経営企画の方々によくお会いしますが、「現在、そうした仕事に従事なさっている皆さんが、5年後の人事課題としてお悩みになっていること」から(怖くて口に出せません・・・)、「今後、近い将来の雇用・給与・処遇」を想像するとき、正直、「厳しいな」という印象を持ちます。

 それは「何にもコミットしません」ので、一見、「失敗するリスクがない」ように見えます。「敢えて」「主体的」に何にも挑戦しないのだから、「失敗の可能性」は下がります。
 ただし「何にもコミットしない」ということは、一見「リスク」がないようでいて、「もっともリスキーな生き方」であるかのようにも、僕は感じます。まだデータを示せていないので、印象論なのですけれども。

 このあたりを、今後、数年かけて、実証していくことに興味を感じます。「何事もほどほどに族」のその後を、ぜひ、探究していただきたいものです(これは木村君が担当でしたか)。

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 なお、この共同研究の知見は、来年、中原・溝上の編著にて、研究専門書を2013年に出版の予定です。どうぞお楽しみに!

 僕個人としては、現在行っている研究の中で(単独研究:マネジャー研究、単独研究:グローバル関係研究、共同研究:大学・企業研究の3本柱)、自分に土地勘がなく(大学生研究は僕の専門外でした)もっとも「先が読めない研究」ですが、もっともよい勉強になっている研究です。
 溝上さんとは、今後、長い時間をかけて、この研究を推進していこうという話になっています。溝上さんから多くを学ばせて頂きたいと思います。

 ちなみに、これが進行していくと、僕の研究ですと「大学生 - 新入社員 - 実務担当者 - マネジャー - グローバルの活躍」までの「学習プロセス」が、一気通貫的に、かつ、オボロゲながら、見えてくることになるのですね。知りたいよねぇ、この一気通貫的学習プロセス。ツモりてーぜ、ドラ2くらいで。
 人事プロセス的にいうと、「採用 - 配置 - 育成 - 昇進」くらいに、学習の観点から、いろいろなことが言えるようになるのではないでしょうか。

 また、個人的には、近いうちに「採用の研究」や「Swift Organizational Socializationの研究(迅速に新人を組織適応・即戦力化するためには何が必要か)」のヒントが見えてくるんじゃないか、とひそかに願っております。

 そして人生は続く。