「場づくり」できる人をどのように育てるのか?

 今日の朝方、「場」についてブログを書きました。このエントリーには、皆さんから、いろいろなメールやコメントをいただきました。誠にありがたいことです。とても嬉しいです。

 いやー、小生「お調子コキマロ星」に生まれました(笑)。「中原おだてりゃ、木に登る」と言ってもいいかもしれません。
 皆さんからのレスが多いと、すぐに「お調子」をコキはじめます。というわけで、今日は「掟破り」の「二つめエントリー」をやります(おい、暇人!というツッコミは勘弁してね)。

 「掟破りの2つめのエントリー」のテーマは、ズバリ、「場づくり」について。

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 実は、昨日、面白いことに、3人の別々の実務家の方々から、異なる相談を受けました。それが、こちらです。

「うちの会社は、一般社員にやり方を教えて、研修は"内製"している。研修といっても、最近は、受講生が話し合ってもらったりする、いわゆる双方向型のものが多い。でも、それがなかなかうまくいかない。あるいはスキルに差がありすぎる。どうしたらいいんだろう。」

 3人の方の中で1名の方は、時間があったので、よくよく詳しく話を聞いてみると、ここで「なかなかうまくいかない」ことは、3つのレイヤーに分かれる気がいたしました。

1.参加者の人が無理なく動き、学ぶことのできる「カリキュラム」をつくることができない

2.「研修」で利用する効果的な「教材」をつくることができない

3.「研修」において、学習者同士のやりとりをうながすことができない。学習者の間にインタラクションが生まれない

 1も2も重要なんだと思います。でも、本質的に、そこは慣れや経験で何とかなる。むしろ、そのうち「3」の課題がもっとも深刻であると僕は感じました・・・あくまでワンサンプルですが(しつれいー)。
 つまり、本日のもうひとつのエントリーの話題と重ね合わせると、問題は、やはり「場をつくること」なのです。

 双方向の学習機会において、「学習者の相互作用をうながし、そこに共有可能な文脈≒場をつくることができる人をいかにつくるか」ということが問題だということですね。

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 確かに、いわゆる「場をつくること」は、そう簡単なことではありません。それはなかなか難しいことです。
 しかし、一方で、「場」をつくりだす振る舞いが、「専門家」にしか担うことのできない「専門性」というものか、というと、僕自身は「違う」と思っています。

 よく指摘されていることですが、ワークショップなどに代表される「学習者双方向の学びの場づくり」は、あくまで公教育(formal education)に対するカウンターカルチャーに、その「出自」があります。
 プラグマティズムのジョン=デューイが典型的ですが、彼の思想は、どう考えても、「その当時のメインストリーム」ではありません。それは、「めちゃくちゃラディカルなカウンターカルチャー」であった。

 そして、だからこそ、その背後には、「教育は専門家によって支えられる」という「公教育の理念」に対する「カウンターカルチャー」、つまりは「学習機会は、志のある市井の人々の手によって、つくりだすことができる」という理念が存在しているのではないか、と、僕は勝手気ままに感じてしまいます。

 しかし、ここに「場づくりのアポリア」が生じてしまう。
 志さえあれば誰もが「場」をつくりだすことは、原理的に不可能です。それは「理念としては可能」でも、実際は難しいものです。
 志が大きいばかりに、「教育手法」がついていかない。つまり「理念」が大きすぎるだけに、それを実現する「方法論」がついてこない、という問題はよく起こりえることです。
 また、かの人々が「内容知」や「充実した経験」を有するだけに、それが絶対化・固定化・教条化してしまう。よって「場をつくること」に関する本質的な理解がともなわない、といったことも、よくおこります。

 つまり、ひと言でいうと、

「場をつくること」は、新たに「学習」される必要がある

 のです。

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 で、あるならば、それをどのようにして学ぶのか、ということが問題になります。この問いに対する答えは、残念ながら、僕は完璧なものを持ち合わせていません。また僕は、こういう研究をしていません。下記に述べることは、あくまで「経験論」でしかありません。
 ですが、経験論でよろしければ、いくつか「言えることはあるな」と思っています。

 まず第一に言えること。
 それは、ややアイロニカルな言い方ですが、

 場をつくるために、まず必要なのは、ファシリテーションの技術ではない

 ということです。
 ファシリテーションの技術や手法が「大切ではない」と言っているわけではありません。それらも最終的には重要なのかもしれません(僕自身は学んだことは一度もありませんが)。

 しかし、その前にもっとやるべきことがある、と僕は思います。

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 「その前にもっとやるべきこと」が、「第二に言えること」です。
 それは、場をつくることのために、まず必要なことは「プロセスや出来事をつぶさに見る目」だということです。
 これに関しましては、かつて、下記のブログで書きました。少し長いですが、下記に引用してみましょう。

プロセス・出来事に対するまなざし
http://www.nakahara-lab.net/blog/2011/02/learning_bar_34.html

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 僕が「プロセスの知」、具体的には「フィールドワーク」を体験したのは、学生の頃でした。学生時代やったフィールドワークで、徹底的に、当時の指導教員に指導されたのは、「一般論でくくるな、固有名詞で把握しろ」、「アウトプットを見るな、プロセスを見ろ」ということでした。教室に入ったその瞬間から、子どもの名前を憶え、その一挙一動を見るように強く指導されました。

 「子どもは・・・であった」という「一般的現象」を記述するのではなく、どんなにベタでもいいから、「●●ちゃんは、○○君は・・・あのとき、していて、こうなった」というプロセス、出来事を記述するように繰り返し、繰り返し言われたのです。

 僕は「頭でっかちな学生」でした。
 最初は、先生の言っていることが全く理解できず、非常に困惑しました。ある先生には「こんな個別具体的な事象を積み重ねたって、学問にならないんじゃないですか」と迫っていたこともありました。
(ちなみに、この先生とのやりとりは、ある学術論文に掲載されています。小生が「困った学生」として描かれておりますが(笑))

 これは、後日談ですが、ある先生は、「当時の僕」を評して、

「あの学生は、心から納得していないときは、それがすべて顔にでている」
「あの学生は、まだ、疑っている」

 とおっしゃっていたそうです。それくらい、僕には、先生方のおっしゃる意味が、わかりませんでしたし、時々、激しい「違和感」を感じていました。

 先生は、月一で論文指導の時間を設けてくれました(ありがたいことですね)。僕が、「一般論」を持っていたいったときなんかは、

 「おぬしのいう、この子どもってのは、<誰>なんだ?」
 「おぬしのいう、この出来事は、誰がどういうことをしたときに起こったのだ?」
 「くだらない一般化をするな」
 「頭の中で考えたことに、見たことを、勝手にまとめるな」

 と言われました。

 「おぬしのフィールドでは、最近、どんな"ストーリー"があった?」
 「おぬしの面白かった"出来事"は何だ?」

 正直ベース、当時は「かったるくて、ぬるくて、ウザい問いかけ」だと思っていたけど、なるほど、先生の問いたかったことがよくわかりますね。僕は、本当に「頭でっかち」の学生でした(今もだね・・・反省)。

 ようやく、今になって思うのです。
「固有名詞で語る」「プロセス・出来事を見る」は、当時は非常に困惑しましたが、大変「ありがたい経験」「貴重な経験」であったな、と。今になって思えば、様々なところで重要な視点になっていると思います。

 特に、ワークショップ、ファシリテーション、場づくりなど、自分が「実践家のひとり」として実施していることで必要な最大のポイントは、「プロセスに対する敏感なまなざし」「今起こっている出来事に対する洞察」であるように感じます。
 その上で必要なのは「プロセスや出来事」に敏感になり、それに忠実に、準備していたものを臨機応変に変えていく力といいましょうか。インプロ(即興)が重要なのです。
 
 しかし、くどいですが、インプロをなすことは簡単なことではありません。
 少なくとも、そのためには、目の前の人たちがどう動いているのか、何にワクワクしていて、何に困惑しているのか。何を話して、どういう状態にあるのか。それをきちんと「見ること」「聞くこと」「解釈すること」ができなければ、その先に、どんな「打ち手」、どんな「ファシリテーション」の手法を身につけていても、それを、適切なタイミングで「行使」することは「不可能」であるからです・・・

 難しいですね。これらに関しては、小生も修行中です。
 修行は、一生、終わらないかも、なんて思うときもあります。

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 最後に、第三に言えること。

 それは、他人のつくりだす場に、自分が「参加」して、あーなりたいな、と思える人や団体を、見つけることです。
 できれば、あなたが「あーなりたいな」と思える人が、場をつくりだすプロジェクトに「参加」し、その人と一緒に、場をつくりだすことができれば、最高だと思います。いわゆる「協働の経験」とでもいうのでしょうか?

 つまり、場づくりの機会そのものが「場」として機能しているところに、参加して、ともに何かを創りあげる歓びを得るということですね。

 最初は「模倣」からはじまるかもしれません。でも、場というものが、いわば「言語化とはほど遠い概念」であり、それに影響を与えるものが「身体技法」のようなものである以上、それを継承するには「直接的なインタラクション」がその源泉になり、かつ、「場が生まれているところに自分が居合わせること」が決定的に重要になる、と僕は思います。

 今、あなたの目の前に「場」が生まれている。そのときに、あなたの傍らには、即興的に場づくりを行っている先達がいる。今、ここで、どのような判断をして、どのように振る舞うか、その意志決定そのものが「学習材」なのです。

 かつて、マルセル・モースは「威光模倣」という概念を提唱しています。「威光模倣」とは、師の背後に広がる世界の「善さ」を感じ、師がその身体技法によって成功するところを目の当たりにするとき、学習者は、師の「わざ」を模倣し、獲得・習熟することに動機づけられる、という状態をあらわす概念です。
 場づくりにも、この「威光模倣」の機会が大きいのではないか。最近、そんなことを考えています。

 実は、先日行ったPARTYstreamでは、開場は午後4時でしたが、実際は、当日アルバイトにきた「場づくりに興味のある学生さん」向けの「スタッフ開発」が、午前11時から開催されていました。12名の学部生が、それに参加しました。

 「場づくり」に関するレクチャーを受け、コンセプトを理解し、場所の見学を行い、各持ち場にわかれて、実践を行い、リフレクションを行う。帰宅後は、もう一度、冷静な頭でメーリングリストにリフレクションを行う。今週末、それらのメールが、少しずつ飛び交っています。
 これらは舘野君、牧村さんが担当したので、その詳細は、また彼/彼女から説明があるとは思いますが、そうやって、当日の運営がなされていたのです。

 場づくりのプロセスの中に、自分も参加し、ともに場をつくる経験と内製を通して、そのエッセンスを学ぶ

 という「再帰的な学習」、そこには存在します。
 
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 今日は「場づくり」ができる人を、どのように育成するのか、ということについて、「わたしの経験論」を述べました。ちょっと話が長くなりましたが、こんなことを最近(ていうか、昨日から)考えています。

 ちなみに、「場をつくること」は、"研修・セミナーの内製化"にとどまらない話だと思っています。そもそも、知識創造理論における「場」とは、知識経営の根幹をなすものとして位置づけられていたでしょう。

 思うに、「場作りの智慧」は、現場で仕事をすること、職場をつくることに役立つと思うのです。
 異なる社会背景をもった人々に、どのように同じ目標をもってもらい、どのように協働してもらうのか。それは、現代のマネジャーに必要な経験のひとつかもしれません。
 
 嗚呼。それにしても、今日の話、3人の方々の「研修の内製化のお悩み」には、全く答えてないものになってしまいました(泣)。すんません。お詫びでございます。

 いずれにしても・・・(強引なまとめ)そんなことを僕は考えています。
 ラーニングプロデューサを、いいえ、私たちの「仲間」たちにもっと出会えないかな、とひそかに、いろいろ、企みつつ。

 そして人生は続く。