小石と虹と軍手:都会で子どもを育てるということ
田舎出身者の「感傷」と言われればそれまでなのですが、「都会で子育て」をしていると、時に、「困惑してしまうシーン」に出会うことがあります。
以下に書くことは、「都会での子育て」の「是非」を論じたいわけではありません。つまり「都会での子育て」がよい、悪いと言っているのではありません。一言でいえば、「都会でも、田舎でも、子どもは環境に適応して育つ」でしょう。結論は以上です。
しかし、僕は、時に戸惑いを感じます。その困惑の根源は、僕自身が、都会で育ったことはないことに由来します。どうしても、自分の子ども時代と、TAKUZOを比較して、その違いの大きさに、戸惑ってしまうのです。
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たとえば、TAKUZOは「小石」が大好きです。どこにでも落ちている単なる「小石」です。
なぜ好きか、というと、日常生活の中では、「小石」に触れることがなかなかないからです。
あたりまえですが、自宅前の道路はアスファルト、保育園のグランドもきれいな舗装がなされています。都会に生まれたTAKUZOは、小石に手で触れるということが、あまりないのですね。
だから、たかが小石を見ると、とても喜びます。そういう無邪気な姿を見ていると、僕は、すこし「切なく」なります。
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先日、TAKUZOは、生まれてはじめて「虹」を見ました。
広く視界が開けて、空がどこまでも広い場所は、都会にはなかなかありません。部分的には、空に「色」がついているものは見たことはあるかもしれません。しかし、いわゆる「半円型」になった大きな虹を見たのは、これがはじめてだったのではないかと思います。
「虹」を見せられてよかったと思う反面、TAKUZOにとっての「空」とは何かを、考えさせられました。
TAKUZOにとって「空」とは、「ビルの谷間に見える青い空間」なのかもしれないな、と思うのです。それは、僕が、毎日、子どもの頃見ていた「空」とは違います。
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先日、商店街の一角にある、少し開けたタイル張りの公共空間で、小学生の子どもたちがサッカーをしていました。ワールドカップ直前でしたので、皆、サッカーに選手になりきっているのでしょう。とても楽しそうです。
しかし、子どもたちのサッカーには、ひとつだけ、普通のサッカーとは違うところがありました。
子どもたちが蹴っているのは「サッカーボール」ではなく、「軍手を数枚まるめたボール」なのです。軍手をまるめて、器用に蹴って遊んでいます。
奇妙なことに、「きれいなサッカーボール」は、子どもたちの自転車の中に入っていました。でも、彼らが蹴っているのは、「軍手」なのです。
なぜか・・・
最初は、理由がわかりませんでした。しばらく見ていて、理由がわかりました。そうです。この都会の一角の限られた空間では、普通のサッカーボールを使うと、ボールが飛びすぎてしまうのです。だから、彼らは「軍手」を蹴っているのです。
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僕の自宅の近くは、自然が比較的多い地域です。また、僕自身、超お出かけ好きなので、休みのたびに、公園やら海やら、自然がある場所に子どもを連れて行きます。
もちろん、妻も僕も、現在の仕事にも、現在の自宅にも、満足していますので、ここを離れることは想定していません。
小石と虹と軍手・・・僕の子どもの頃とは全く異なった環境で、TAKUZOは、静かに、音もたてずに、すくすくと育っています。
親としてそれを喜ぶ反面、ど田舎出身の僕は、「都会で子どもが育つプロセス」というのが、なかなかイメージしにくく、戸惑うことが時にあります。
子育てをどう工夫しようか、、、
どういう風にしたら、親も子どもも楽しめるのかな、、、
と思案します。