暗黙知を饒舌に語る!?

 ものすごく細かいことかもしれませんが、最近、妙にひっかかることに「あの技術の暗黙知を伝える」「あの人の暗黙知が伝わってきた」という言い方があります。
 ビジネス書などを読んでいると、こうした表現が頻発します。そういうものを目にするたびに、「うーん」と考えさせられてしまうのです。

 それはもしかすると、一般に流布する「暗黙知」というもののとらえ方が、僕のとらえ方と、ちょっと違うことに起因するのかもしれません。今日は、これについてお話ししましょう。あと20分で会議ですので、あくまで手短に(笑)。あと、手元に本がないので、ごめんなさい、記憶ベースで(笑)。

  ▼

 よく知られているように、暗黙知とはマイケル=ポランニーが、概念化したものです。

 僕の理解に寄れば、ポランニーは、我々の創造的行為を可能ならしめる機序ではあるが、言語では語り得ぬ、しかし、我々の賢さの中にどこかに存在していると考えなければ説明がつかないプロセスを仮定して、暗黙知(tacit knowledge)と名付けたと考えています。

 ここで重要なのは、暗黙知が、言語によって分節化できない、つまりは「語り得ないもの」であり、存在の確証さえも確認できないものである、ということです。また、それはプロセスであるということです。暗黙知は、通常tacit knowledgeと言われますが、そのコンセプトに忠実な言語を用いるのだすると、それはtacit knowingに近いと思います。

 ポランニーは、著書においても、暗黙知が何かを言明すること、また、暗黙知が作動する機序について説明することには、かなり慎重でした。それがなぜかは、僕はポランニーではないので(笑)、わかりません。でも、おそらく、その概念が、そもそも語り得ぬものだからだと思います(だから、ポランニーの本を読んでも、僕は、腹におちません・・・)。

 メタフォリカルな言い方が許されるのであれば、

 暗黙知とは、自己が「語り得ぬもの」であり
 他者からも「語られえぬもの」なのです。

 ポランニーは、暗黙知という概念を提唱しながらも、それに対して「饒舌」になることはありませんでした。その著書からは、自らが生み出したコンセプトのもつ「曖昧さ」「とらえどころのなさ」を、彼なりに引き受ける覚悟が感じられます。

  ▼

 もう、勘のよい方なら、なぜ僕が「あの技術の暗黙知を伝える」「あの人の暗黙知が伝わってきた」という表現が気になるか、おわかりだと思います。

 一言でいうと、こうした言い方では、暗黙知が「語られている」のです。
 前者の「あの暗黙知」という言い方が可能になるためには「暗黙知が何かをわかっていること」が前提になります。
 また、後者の「伝えられた」という表現が可能になるためには、暗黙知の存在を知覚し、さらにはその伝達の完了を知覚していることが前提になります。

 さらにいうならば、暗黙知とはプロセスに近いものとして概念化されているのにもかかわらず、それが「右から左」に「モノ」を動かすように「伝えられる」というメタファを使って表現されているのも、大変に気になります。暗黙知が、いわば「物象化」されている、というこです。

 大変大変細かいことなのですが、僕が気になるのは、こんな理由からです。

  ▼

 暗黙知という言葉を、僕は授業や講演などで、極力使いません。
 なぜなら、それは「僕は暗黙知について語る言語をもっていない」からです。語り得ぬものには沈黙せざるを得ません。

 暗黙知に限らず、世の中には「語り得ぬもの」がたくさんあります。「語り得ぬもの」の奥深さ、曖昧さ、とらえどころのなさに我慢がならなくなり、それを「語ってしまった」とき、その語られたものは、全く違うものになっていることが、ままあります。

 暗黙知について、なぜ、人がこんなにも「饒舌」になりうるのか。そして、その「饒舌な語り」によって伝えられているものが、何なのか。
 時に、僕にはわからなくなるときがあります。