俳句はよくデザインされた「学習システム」である
「俳句」というのは、つくづくも、シニアにとって素晴らしい学習システムだと思う。
「自己で学ぶ」観点、「ともに学ぶ」観点、そして「身体づくり」につながる観点から、それははよくデザインされたシステムである。
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ひとつめ、自己学習の観点。
まず、俳句をたしなむためには、季節に「敏感」にならなくてはならない。
花の名前を覚え、見て、触って、識別できるようにならなくてはならない。日々変化する草の色を感じ、毎時毎分変わる風の匂いを知る必要がある。
「変化」を感じることができなければ、そして「変化」に応じて必要であるならば柔軟に「学び」、そして思考することできなければ、言葉を紡ぐことはできない。
ふたつめ、ともに学ぶという観点。
多くのシニアは、俳句を独りでは愉しまない。月に1度、仲間と集まり、お互いのつくった作品を鑑賞し、吟味するといった会に参加している人も多い。会では、時にコメントを求められ、時にアドバイスをすることがあるのだとしたら、俳句会には協調学習が埋め込まれている。
独りで家に籠もりがちになってしまうシニアにとって、この定期的なエキシビジョンは、非常に重要な意味をもつ、と思う。
最後に「身体づくり」の観点。
上記2点を満足させるためには、何より身体を整える必要がある。 自然の変化を感じるために、日々外にでて歩く必要がある。俳句を詠むことは、一見知的な作業だと思われがちだが、その中には、いわゆるウォーキング、外にでて動くことが埋め込まれている。
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つくづく、俳句はよくデザインされているな、と思う。
それは、「学びとは言わない学びのシステム」である。