時間、空間、身体、言葉

 先日、ある先生と、とりとめもなく、こんな話をした。

 子どもの学びは「空間」により分節化されるところが大きい。
 砂遊びをするときは「お砂場」へ。絵を描くときには、「図工室」で。身体を動かすときには「体育館」へ。「活動」にとって「最適な空間を選ぶ」という発想が、どこかにある。
「時間」が全く意識されないというわけではないけれど、それが分節化に果たす役割は、それほど大きなものではない。時間は、ゆるやかに流れていく。

 しかし、年をへるにしたがって、「空間」よりもむしろ「時間」が気にされるようになる。

 誰もが「時計」を気にし始める。「空間」により学びを分節化することは少なくなる。何をしようが、基本的には「教室」でいいよね、ということになる。

 学びの時間は、「時間割」「カリキュラム」というものに分節化され、細切れにされる。「いかに早く」「いかに効率化するか」が問われるようになっていく。

「時間」が学びを支配しはじめるのである。

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 「身体と学び」という問題もある。

 最も幼い頃は、「身体を動かすことが学ぶこと」でもある。身体を思い切り動かすこと、動かすことができるようになることが、学びである。しかし、いつのまにか、学びにおいて、身体が果たす役割は少しずつ失われる。
 
 一方、役割を大きくしていくものもある。「言葉」である。
 特に、最初の頃は、「発話」が果たす役割は大きい。学ぶこととは発話すること、意見を交換すること、ということになる。小学校の教室では、発話が溢れている。教室には、活気のある子どもたちの「声」があふれている。

 しかし、その時期も長くはない。

 知らないうちに、「書くこと」が、重視されるようになる。子どもの声は失われ、教室には「沈黙」のけだるい雰囲気がただよいはじめる。
 学ぶこととは「板書をすること」「ノートを書くこと」と見なされる。学びはテストという「書き物」によって評価されるようになる。

「書くこと」が学びを支配し始める。

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 空間、時間
 身体、言葉、発話、書くこと

 上記のような視点から、自分の生きてきた軌跡を - つまりは、あなた自身の学びの軌跡 - を、あなた自身、たどってみるとよいかもしれない。

 あなたにとって、「時間」を気にしながら、机の上で「書くこと」が、「学ぶこと」になったのは、いつのことだろうか。

 あなたは、何を得て、何を失ったのか。
「今のあなた」は、「あのときのあなた」がなりたかった、「あなた」なのか?

 自分の学びについて考えることは、生きてきた軌跡をふりかえることでもある。