怒ること考

 怒ることは、体力と気力のいることである。

 先日、TAKUZOとカミサンで、お好み屋さんに出かけた。TAKUZOは食べているときは落ち着いていた。しかし、自分が食べ終わったとたん、「ウ○コ、ウ○コ」と大きな声で放送禁止用語を連発し、さらには、足をバタバタして駄々をこねるので、大変困惑した。
 その場で注意しても、聞くわきゃない(泣)。駄々をこね続けるので、さすがに参った。

 他のお客さんも、困惑している様子だったので、足早に店を出て、おうちに帰る。

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 自宅の玄関に入ったところで、大きな声で怒った。

 1)レストランでは大きな声をだしてはいけないこと、2)自分が食べ終わったあとでも、ママが食べているのだから、少しおとなしくしていてほしいこと、を伝えた。

 TAKUZOは、鼻水をたらして泣いていたけれど、「ここは、やむをえない、ちゃんと言うべきときだ」と思って、叱った。

 TAKUZOは、泣いてママに助けを求めていた。いつだって、パパは「悪役」である。

 フー。

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 かつて自分が子どもだった頃には全く気づかなかったけれど、「怒るためには、体力と気力を必要とする」。

 本当のことをいうと、仕事に疲れて帰ってきてまで、僕は「怒りたい」とは思わない。
 仕事では、心に「起伏」があるし、「ストレス」だってないわけではない(いつもヘラヘラしているように見えることとは思いますが・・・笑)。
 だから、せめて、家庭では、心を平静に、そして静かな時を過ごしたいと願う。
 
 しかし、僕とカミサンの夫婦2人での暮らしなら、それも可能だろうけれど、子どもとともに過ごすということは、そうはいくかのタメゴローである(死語)。

「言うべきとき」には、たとえ体力と気力をふり絞ってでも、親として「正しいと思っていること」を言わなければならない。
 一切の躊躇なく、僕は言う。
 それが本人のためでもあるし、ひいては、家族のためでもあるし、僕たち親のためであると思うからだ。

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 子育てをしていると、ふっと、自分の昔を思い出すときがある。
 かつて僕を叱ってくれた多くの人々は、どんな思いで、僕を叱ったのだろうか。そんなことを、ふと、考えてみる。

 セピア色に色褪せた想い出をたぐりよせてみても、そのときの人々の感情までは、僕は類推できない。
 しかし、おそらく、僕と同じような感情を持ちつつ怒っていた人も、いるのではないかな、と思う。

「怒ること」の反対語は「褒める」ではない。
「無関心」である。

 親になって、このことを実感する。