マネジャーがひとりで育成を担う!?

「マネジャーによる部下育成」というお題を与えられたとき、すぐに、私たちの脳裏に思い浮かぶのは、「現場でマネジャーが自ら、直接、部下を指導したり、アドバイスしたりする姿」です。

 いくらマネジャーがプレイング化し、その時間が断片化しようとも、マネジャーは直接部下の面倒を見なければならない。そういう論調が支配的ですね。そして、そういう論調に従って、「マネジャーを対象とした部下育成のための様々な施策(研修)」が、企画され、実施されることになります。

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 もちろん、マネジャーに「部下育成の責任があること」は、僕の認識に関する限り、否めぬ事実です。そして、本当に必要なときには、マネジャーが自ら直接部下に接し、指導したり、アドバイスをすることが求められるでしょう。

 しかし、「いつもいつも、マネジャーが直接、部下の面倒を見なくてはならないか」、それが義務であり、責務なのか、といわれると、僕は「そうではない」という意見(信念)を持っています。

 マネジャーが、直接、あれこれ部下の面倒を見るというよりも、むしろ、「部下が育つ人間関係を、職場にセッティングし、ナヴィゲートする役割」の方が大きいのではないかと思います。

 去年、僕と富士ゼロックス総合教育研究所、松尾先生と一緒にやった共同研究のデータを、昨夜、共分散構造分析にかけていました(次回の講義に備えて)。

 ざっくりとモデルをつくっただけなので、まだまだ綺麗な結果がでているわけではないのですが、いくつかわかってきたことがあります。
(これに関する重回帰分析を使った分析は、既に、"人材開発白書2009""企業と人材"の中で、富士ゼロックス総合教育研究所の坂本さん、西山さんらが行っており、その仮説を指摘なさっています)

 職場において個人が内省を行うポイントを左右しているのは、大きく分けて、「マネジャーのM機能(マゾなマネジャーではないですよ、、、ここではマネジャーが行う人間関係の調整とお考え下さい)」「職場の対話機能」「職場の互酬性規範」です。

 しかし、マネジャーの人間関係の調整が、直接、「職場における部下の内省」を高めているというわけではありません。それはどちらかというと弱い。
「職場の内省」に影響を与えているのは、「職場の対話機能」「職場の互酬性規範」ということになります。
 むしろ、「マネジャーの人間関係の調整」は「職場の対話機能」や「職場の互酬性規範」との関係が強いことがわかります。間接的に「職場の内省」に影響を与えているのですね。

 つまり、想像力をフルフルに働かせると(やや妄想気味)、こういう仮説がなりたちます。

 マネジャーは、職場の人間関係を調整しつつ、職場の対話機能や互酬性規範を高める。そういう職場の風土の中にいる部下の方が、内省が促され、成長する。

 さらに妄想力を高めると、下記のように言えるかもしれません。

 マネジャーが部下育成の責任を担うといっても、直接、部下を指導・アドバイスをしなくてもよい。部下が育つ環境、職場をセッティングし、そこに部下をナヴィゲートし、適宜、モニタリングしていればよい。

 まだまだ検証しなくてはならないことはたくさんあるのですが、どうも、こんなことも言える可能性があるんではないかな、と「妄想」しています。

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 どうして、こんなことを言うかというと、「マネジャーに、少しでも"楽"になっていただき、職場目標の達成のためにさらにやるべきことをやってほしい」と思うからです。

 マネジャー論に関する書籍は、本屋さんにいけば、たくさんあります。それらを見ていると、「マネジャーのやらなければならない仕事って無限だよな」と「ため息」が出てしまうのです。その仕事は増えることはあっても、減ることはない。

 近年では、コンプライアンスがさらに厳しくなっていますから、マネジャー自身が、その仕事いかんでは、訴えられる可能性もでてきました。
 コンプライアンスのみならず、さらに、今後も、職場では問題が生まれてくるでしょう。

 巷にあふれるマネジャー論では、職場でおこる問題は、すべてもれなく「マネジャーの仕事」とされています。で、その「対処の仕方」が説明してあります。思わず、「マネジャーとは問題を放り込むゴミ箱なのか」と思ってしまいそうになります。

 中には、根性論、精神論っぽいマネジャー論もあって、「気合いで乗り切れ」だの「朝5時に起きなさい」だの、読んでいて目眩がしそうになります。

 マネジャーに責任を押しつけると、みんな、「思考停止」し、「安心」するのです。あらゆる問題は「マネジャーの問題」であり、その解決を行うのがマネジャーである、というかたちになります。 その様子は、さしずめ、「マネジャーロマンス」「マネジャー落ち」と言ってもよいのかもしれません。

 中には、

「その問題って、本当に、課長の問題ですか?」

 と問い直したくなる問題もあります。

 なんだか熱くなってきました(笑)。でも、なんか自分に置きかえて考えてしまうのですね。
 大学教員と「マネジャー」を重ね合わせることには、どだい無理があることは承知しているのですが、どうも、僕は妄想力が豊かなせいで、「自分」だったらどうかな、と置き換えて考えてしまう。

 僕も「研究室」というものをもち、大学院生を指導しています。そして、僕自身も、まだまだプレーヤであり、走り続けています。組織の中では、様々にやることがあり、その役割に対する社会的圧力は増えることはあっても、減ることはありません。

 その立場からして、今のマネジャーの置かれている立場(マネジャーがやらなければならないとされていること)は、かなり「惨い」ものがあるように思います。
 このままいけば、マネジャーは「身体的に無理」と言わざるをえない状況に追い込まれるのではないか、と思うのです。

 あるいは、これからミドルにさしかかる若手が、「上司拒否。」とか「マネジャー?、悪い、パス。」と、マネジャーを忌避する傾向につなるのではないか、と思うのです(笑)。

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 僕は「マネジャーの仕事や役割を減らすべき」だと思います。もちろん、責任を放棄するべきだと言っているわけではありません。

「要諦」を押さえながらも、職場の他者に任せられるところは、積極的に「分かち合うこと」も重要なのではないか、と思います。

 比喩的に言うのであれば、

 マネジャー自身が育てるのではなく、
 人が育つ環境をマネジャーがつくる

 ということになるのかもしれないな、と思います。

 あるいは、

 部下育成とは、マネジャーによってセッティングされた職場のネットワークの中にある

 ということになるのかもしれません。

 このあたり、さらに考えてみたいと思います。