「わたしの経験」を超えること
哲学者・中島義道さんの「対話のない社会」を読みました。中島氏によると、「対話」の特徴とは、下記のようにまとめることができるのだそうです。
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1.あくまで1対1の関係であること
2.人間関係が対等であること
=対話が言葉以外の事柄(身分)によって縛ら
れないこと
3.相手に一定のレッテルをはる態度をやめること
=相手をただの個人としてみること
4.相手の語る言葉の背後ではなく、語る言葉その
ものを問題にすること
5.自分の人生の実感や体験を消去してではなく、
むしろそれらを引きずってかたり、聞き、判断
すること
=対話とは自分の人生を背負って語ること
6.いかなる相手の質問も疑問も禁じないこと
7.いかなる相手の質問に質問に対しても「答え
よう」とすること
=わからなくてもいいから、わかろうとすること
8.相手との対立を見ないようにするあるいは避けよ
うとする態度を捨て、むしろ相手対立を積極的に
見つけようとすること
9.相手と見解が同じか違うかという二分法を避け、
相手との些細な違いを大切にし、それを発展させ
ること
10.社会通念や常識に収まることをさけ、常に「
新しい了解」に向かっていくこと
11.自分や相手の意見が途中で変わる可能性に対し
て、つねに開かれてあること
12.それぞれの対話は独立であり、以前の対話でこ
んなことを言っていたから、私とは同じ意見の
はずだ、あるいは違う意見のはずだ、というよ
うな先入観を捨てること
(同著より引用、一部改)
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個人的には「対話とは自分の人生を背負って語ること」というメッセージが非常に印象的でした。これに関しては、「ダイアローグ 対話する組織」でも下記のように書いています。
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一方、自分の意見を述べるときには、なるべく「私は~思う」「私は~したい」「私は~の経験をした」という一人称の語りを重視するとよいでしょう。
私たちは、よく大きな問題を議論する段になると、多くの人主語を「私」から「我々は」「一般的には」「業界的には」などにすり替えがちです。つまり、「私は」という一人称のスタイルで語らなくなるのです。
「そもそもこの商品の存在意義は何だ?」と聞かれると、「世の中の流れとしてはこうだ」「過去の経緯を踏まえるとこうだ」「社の方針としてはこうだ」といった評論家的な議論になります。これは「対話」とはいえません。
「私」を前面に出した一人称的発話のやりとりの中で、今まで気づかなかった新たな意味が生み出され、物事の理解が深まったり、新たな視点が生まれたり、気づきが生まれたりする。このような状態を「対話」(ダイアローグ)と呼ぶのです。
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しかし、ここには10との間に、パラドクスが存在します。
「自分の人生や経験を背負って語る」一方で、対話の果てには「客観的な真理」を見る。一見、相反・矛盾するような要素を同時に実現するコミュニケーションスタイルが、対話なのかもしれません。
つまりは、「自分の経験」を超えて、「新しい了解(意味)」「変わること」に自分が開かれていなければ、対話は成立しないのですね。
「わたしの経験」が教条(ドグマ)化することだけは避けたいものです。以前にも述べましたが、ドグマ化した揺らぎのない「わたしの経験」は、皮肉なことに、「わたし」を超えて、導管モデルとして「わたしたち」に「伝達」されてしまいます。 そこで「新しい了解」や「変化」が生まれる可能性は、極めて低いと言わざるを得ません。
中島さんの指摘は、そのことを思い出させてくれる一冊でした。