Learningful work!?
「授業をする」「ゼミをする」- つまり、教育活動を行うということは、「自分で、自分のための学びをつくりだすことだ」、と最近思う。
授業で扱っている書籍や論文の多くは、僕にとっては何度も読んだことのある論文である。これは僕にとって、「復習」の機会になる。
授業の前には、一応、原典を少し読み直すから、たとえば「○○は、そういえば、こんなことも言っていたんだよなー」と思い出すことにつながる。
たまに原典を読んでいると、以前読んだときには、発見すらできなかった事実を発見してしまうこともあるから不思議である。
ゼミの文献は、一部は読んだことはあるけれど、中には読んだこともないものも含まれる。事前に(ほとんど前の日、、、下手すりゃ、直前)、一応、目を通しておく。
中原研究室は、今年、「ネットワークと学習」ということをテーマに、主に「エゴセントリックネットワークのもたらす学習・成長・組織への影響」について文献を読み進めている。
たまにはわからないことがあるけれど、研究室の大学院生と一緒に、新たな領域の論文を読んでいくのは、なかなか愉しい。
ゼミで得たアイデアは、だいたい数年以内に、意外なところで、何らかのアウトプットにつながる(つながりそうになる!?)から不思議である。
こうして考えてみると、いろいろなことがわかってくる。
通常、「教育活動」は「研究活動」とは切り離されたものとして考えられているが、実は、それらは深くつながっている。
教育と研究のバランスは大学教員の永遠の課題であるから、いろいろな意見をお持ちの方がいるとは思うが、少なくとも僕にとっては、僕の仕事のクオリティを左右するものとして、教育活動があるのは間違いのないことだ。
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先日、もう少しで定年を迎える、ある先生がこんなことをおっしゃっていた。
「中原君の世代の大学教員は、僕の若い頃の3倍は忙しいと思う」
「はぁ・・・」と、ため息が出そうになるけれど、まぁ、仕方がない。確かに大学教員は、数々の大学改革の中で、多忙を極める職種になりつつあるのかもしれない。
先日、某新聞では、「大学教員が1日に2時間しか研究に没頭できない」という記事が掲載されていた。
それを見た、ある理系の先生のつぶやきが忘れられない。
「1日2時間もどっぷり研究に没頭できる時間がある教員って、最近、そんなにいないよなー。そういう人だから、このアンケートに回答できたのかもしれないよな・・・」
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多忙化に抗しつつ、自分の「学び」を確保するための方法は、いくつしかない。最も有力な手段のひとつは、
「自分の学びの機会」を「自分の仕事のルーチン」の中に、いかに埋め込むことができるか
ということである。僕の仕事の場合は、本を読むこと、論文を読むことが重要であるけれど、そればかりではない。
自分の仕事のルーチン、やり方の中に、「振り返りの機会」をいかに埋め込むことができるのか、ということも、また重要なことであると思う。
別の言葉でいうのならば、いかに「Workそれ自体を、Learningful workにできるのか」ということが問われるのかもしれない。
追伸.
最近、「Learningful work」という言葉が気に入っている。
「Learningful」というのは、たぶん「造語」である(笑)。こないだ辞書を引いても、のっていなかったから(笑)。
仕事は仕事である以上、そこには厳しさも伴うし、辛いこと(Hardship)もある。でも、どうせやるのだったら、学びと洞察に満ちたLearningful workに従事したいと、僕は願う。
でも、ここで注意しなければならないことがある。Learningful workはどこから来るのか?ということである。
どこかの誰かが、Learningful workを与えてくれるのなら、それはそれで幸せではある。が、それを口を開けて待っていても、拉致があかないことも、また事実かも知れない。
つまり、Learningful workは、自分自身の力で「つくりださなければならない」のかもしれない、とも思う。
正確にいうのならば、「Workそれ自体をLearningful workにするのは自分なのかもしれない」とも思う。
先日、あるところで知り合った学生さん - 内田洋平君が、こんなことをおっしゃっていたことを思い出す。
楽しい仕事があるのではなく
楽しもうとする人がいるだけである
楽しい仕事!?
http://www.nakahara-lab.net/blog/2009/04/post_1480.html
内田洋平さんのブログ
http://entrepreneur1986.seesaa.net/
しかし、これを敷衍するならば、こうも言えるのかもしれない。
Learningful workが他人から与えられるわけではない。
WorkをLearningfulにしようとする人がいるだけである。