「大型書店の領収書」が消えちゃった!? : ネット書店とブログの連携

 年に一度の「憂鬱」 - 「確定申告の書類づくり」のシーズンですね。我が家では、カミサンに手伝ってもらい、帳簿をつけます。

 僕一人でやってもいいのですが、いいえ、たぶん「無理」でしょう(はなっから諦める)。僕をご存じの方は皆同意していただけると思うのですが、僕は「細かいこと」が、とても苦手なのです。カミサンには申し訳ないですが、「コラボっつーことで、そこんとこ、よろしく」という感じです、、、スンマセン。カミサンに、このコラボでどんな付加価値やメリットがあるのかはわかりません、、、返す返すも、スミマセン。

 とはいうものの、最初から最後まで「コラボ(労働力搾取!?)」というわけにもいかないので、一ヶ月くらい前から、僕は、ひとり「領収書のまとめ」の準備をしていました。できることは、一人でやらなね。

 一年間ためれば、ゴミ袋いっぱいくらいの領収書があります。これを、ひとつずつ見て、書籍費、交通費・・・といったかたちで、領収書の束をつくります。で、そこであることに気づきました。それが今日のネタです。

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 といいますのは、「書籍」の束に、紀伊●屋、三●堂、●京堂、●善などの大型書店の領収書がほとんどないのです。

 あるのは、AMAZONか、あるいは、近所の中規模の本屋・・・。
 以前は、たくさんあったはずの大型書店の領収書が消えていて、この二つに偏っていました。AMAZONが8割、近所の中規模のものが2割といったところでしょうか。

 かつて、僕の「書籍」の領収書は、こんな分布をしていませんでした。つい数年前までは、紀伊●屋、三●堂、●京堂、●善などの領収書がほとんどで、AMAZONが全体の二割といったかたちであったことを記憶しています。

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 一ヶ月に僕が購入する本は、ほぼ4万円程度だと思います。もちろん、これは個人で購入する本であって、大学を入れれば10万円は軽く超えます。
 大学院の修行中に、ある尊敬する先生から、こう言われたことを思い出します。その先生は、自宅の床が、本で足の踏み場がないことで有名な方だったのですが、彼が僕にこう言いました。

「研究者って新しいことをしなきゃならないんだよね。新しいことって、古いことを知らないとできないよね。僕を含めて前の世代を超えるほど、君自身が本を読まないと、お話にならないと思うよ・・・」

 厳しいご指導ですが、もっともなことです。前の世代の読書量を超えずして、何が「新しいこと」か・・・ちゃんちゃらおかしいですね。以来、まだまだ不十分ではありますが、本はとにかく手当たり次第読むことにしています。

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 閑話休題
 話を元に戻しましょう。

 僕の領収書が、なぜAMAZONが8割を超え、大型書店が激減し、中規模の書店がパラパラになってしまったのか。これはいくつかの理由があるように思います。

 まず、AMAZONは、現在、もっとも早く確実に書籍を手に入れることのできる書店であるということです。別にAMAZONの「回し者」というわけではないです。事実としてそうなんです。
 即日発送の「AMAZONプライム」のサービスは、それをさらに加速させています。このことは、僕にとってはかなり大きいことでした。

 とにかく、僕は「せっかち」です。どちらかというと「生き急ぎ系」かもしれません。「今、考えていること」「今、思っていること」に関係する知識がどこかに存在するのなら、それを一刻も早く手に入れたいと願います。
 だから、「出かけて探してみなければ、在庫があるかどうかわからない書店」よりは、「あるかないかがはっきりして」いて、しかも「あるのならば、明日には必ず送ってくれる」AMAZONを利用してしまうのです。

 子どもができたことも大きいかもしれません。
 かつては、カミサンと街をブラブラして、話すことがなくなったら、「どれ、暇つぶしに本でも買いに行くか」ということになったのだけれども、そういう外出はほとんどゼロになりました。

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 もちろん、大型書店には、大型書店の醍醐味があります。自分の専門以外の書棚をブラブラして「掘り出し物」を見つけたりすることで、思わぬ発見やブレークスルーになることがあります。こういった「遊泳」が、自分の教養や見識を広めることにつながっている場合もありうることです。

 学生を見ていていつも思うことがあります。
 学生には二種類の人がいます。

 書店に出かけたときに、「自分の専門の書棚しか見ない人」と「自分の専門以外の書棚も見る人」です。どちらが、自分の研究をより広い文脈に位置づけることができるか・・・すこし考えてみれば、結果はおのずとわかります。

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 しかし、残念ながら、今の僕にとっては、「大型書店を遊泳する時間」はありません。それでは、その分をどうカバーしているのか。それが「他人のブログで書かれる新刊案内、書評」なのですね。

 僕のRSSリーダには、国内外の数百のブログが登録されています。教育、学習のみならず、医学、看護学、建築学、人類学、哲学、社会学、宗教学、心理学、経営学といった具合に、「それぞれの領域で、もっとも情報が早く、感度のよさそうな人のブログ」を登録してあるのです。

 こうした「感度の高い方々のブログ」、現在、「遊泳のできない僕」にとっての貴重な情報ソースですね。
 当然のことではありますが、僕が登録しているのは「感度のよい方々」ですので、それぞれの分野で注目の新刊が出ると真っ先に、自分のブログに感想を書いていただけます。
 この感想を参考にして、AMAZONで発注をすれば、敢えて「大型書店」を遊泳しなくても、似たような効果(同じ効果)が得られるのですね。

 つまり、「大型書店の遊泳」が「ブログの書評+AMAZON」にすべて置き換わっているということです。
 僕自身が「遊泳」しなくても、僕は擬似的に「遊泳」しているのです。「分散した知を協調させること」で賢く振る舞おう、という「社会分散認知」の考え方に「近い」ものがありますね。

 ちなみに、それでは、近所の小中規模の書店の領収書は、なぜ存在するのでしょうか。それは簡単。残されたものは「雑誌」です。雑誌をAMAZONで買ったことは、まだ一度もありません。雑誌は、やはり「特集のタイトル」と「表紙の雰囲気」を見て、発注したいです。

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 僕のような書店利用は、どちらかというと、職業研究者のそれであり、変わっているのだと思います。全く一般化するつもりはありません。多くの人々の利用形態は、ここで紹介した書店の利用方法と異なっているでしょう。

 しかし、僕にとっては、かつてあれほど通った「大型書店」の領収書が、ほとんど消えてしまったことは、軽いショックでした。

 ここ数年で大きな変化が「書店」におとずれているのかもしれません。