出会いと創造の場 : 飯田美樹「Cafeから時代は創られる」を読んだ!

 飯田美樹著「Cafeから時代は創られる」を読んだ。高校時代から様々なかたちで「場づくり」に関与してきた筆者が、フランス留学中にパリのカフェに心を奪われ、そこでの体験・経験をまじえつつ綴ったカフェ論。文章や構成は極めて平易で読みやすい。「新しい物事を生み出す社会的装置」としての「カフェ」に改めて気づかされる良著であった。

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 パリでカフェができたのは、1768年のこと。フランシス・プロコピオによって「カフェプロコープ」が創始された。開店当初から、ヴォルテール、ルソー、ベンジャミン=フランクリンなどが集い議論していた、という。

 このように、社会を変革する動きの中に、常にカフェがあったのは、周知の事実である。フランス革命、シュールレアリストなどの芸術運動アメリカ独立宣言、イギリス市民革命・・・様々な人々が出会い、集い、話し合い場として、カフェはあった。

 カフェに集う人々、そこを切り盛りするオーナーやギャルソン、微妙な人々のインタラクションの果てに、新しい時代が創られていった。

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 しかし、多くのフランス人にとって、カフェは「誰もが出かける場所」であったわけではない。当時のフランスのブルジョア階級にとって、カフェとは「異端な人々」が集う場所であったことも事実だった。

 本書では、あるブルジョア階級の女性の言葉が紹介されている。

「あの人たちみんな何やっているんでしょう。
 家庭がないのかしら」

 カフェとは、まさに「そういう場所」であった。

 事実、そこに集う人々の中には、「異端な人」も多かった。周囲とは違う価値観をもつ彼らは、なかなか周囲に理解されず、受け入れられない。しかし、彼らは「何者かになりたい」という欲望を強くもっていた。
 そうした彼らが連帯し、インスピレーションを刺激し合い、時には相互に扶助しあう場として、カフェは機能していた、のだという。

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 話はわき道にややそれるが、筆者によれば、カフェは「サロン」とは違う、という。

 社会学者のハーバーマスによると、

「夕食会、サロン、カフェに一連の共通な制度的基準として、社会的地位の平等性を前提とするどころか、社会的地位を度外視するような社会様式が要求され、そこでは論理の権威が社会的ヒエラルキーの権威に対抗して主張される」

 確かに、「社会的地位を度外視する」という1点においては、カフェとサロンは似ているところはあるけれど、いくつかの点において、それらを分けて考える必要があるのだという。

 サロンは、「女主人」が私財をなげうって、料理や飲み物を人々に供し、文化的な話題や政治的な話題を議論する場である。しかし、女主人の役割は「場をマネージし、人々をもてなす」役割を一人で担っているために、自らサロンのプレーヤーにはなれない。だから、女主人は、参加者からの称揚、美辞麗句によって、感情を浄化する他はない。このねじれは、様々な軋轢や不自由さをサロンの中に生み出す。

 また、サロンは女主人が切り盛りしている場であるだけに、彼女の思想とは異なる発言を許容することはできない。つまり、サロンには思想的自由がなくなる可能性が大いにある。

 対してカフェは、そこに集う人々が、自ら身銭をきって来る場所である。強力なオーナーもいなければ、過剰なもてなしもない。しかし、そうであるが故に、思想的自由が守られ、自由闊達な議論が発展する、という強さをもっている。

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 それでは、カフェに集う人々の中で成功した人は、どのようにここに集い、ここで「何者か」になっていったのだろうか。ここには、カフェに集う人々の濃密なインタラクションが存在する。

 まず、カフェには「アトラクター」と呼ばれる人々がいる。彼らを慕い、彼らのような「何者か」になりたい人々がそこに集う。

 象徴派詩人ポール=フォールをアトラクターとするクローズリー・デ・リラに、芸術批評家のアポリネールをアトラクターとする人々は「洗濯船」に集まった。

 のちに、サルトルやボーボワールが、カフェ・フロールのアトラクターとなり、そこから実存主義といわれる「投企」の思想が生まれたのは、誰もが知っている有名な話である。

 新参者がカフェのドアを叩くきっかけをつくるのがアトラクターならば、そこから先のナヴィゲーションは、様々なカフェの住人たちによって担われる。

 新参者よりも前にカフェに集っていた先輩、そこで出会った同じ世代の仲間との出会いや切磋琢磨によって、新参者はカフェの住人になる。
 そして、そこで様々なインスピレーションを得て、何か新しいものを現実に生み出していく。

 非常に興味深いのは、新参者が「何者か」になるとき、アトラクターや、彼らをカフェに誘ってくれた先輩が有する古い価値観と葛藤をおこすことである。

 新たなものを生み出しつつある新参者にとって「彼ら」は、もはや「誘う人」ではない。「彼ら」が望むと望まないとに関わらず、「彼ら」は「新たな世代」が「乗り越えるべき存在」として、カフェでの役割を担うことになる。このダイナミズムが創造に与える影響の大きさは、想像に難くない。

 この意味で、カフェとは仲間内がお互いの感情を浄化し、慰撫する場ではない。そこは時に、緊張と葛藤が走る「創造の場」であり、僕の言葉でいうならば「学びの場」である。

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 今回、カフェ論なるものを読むのは、はじめてだった。しかし、大変興味深く読むことができ、また、自分自身、深いインスピレーションを得ることができた。

 読んでいるうちに、不思議なことだけれども、自ら「カフェをひらきたくなった」。
 カミサンに言ったら、「衛生的に無理! あなたは、お片付けができないし、だらしないから」と怒られた(泣)・・・すんませんね、しょーもないことを考えて。

 閑話休題

 どうも、カフェ論には、僕が追求する「働く大人の学び論」の1章になるヒントがありそうである。巻末の参考文献をさらにたどることにしようと思う。

 うん、面白い。
 世の中、本当に面白い。