「大人の学び」と「アート」
土曜日、やはり仕事へ。
午前中は、学会の大会企画委員。
今年の日本教育工学会は、9月19日(土)から21日の3日間、東京大学本郷キャンパスで開催される。
大会企画委員では、1)シンポジウムのテーマ、2)課題発表のテーマ、本年度の大会から新たに実施される様々な試みについて、議論。
僕がメインで担当するシンポジウムが、学会全体のシンポジウムになるかもしれない。忙しくなりそうな予感がした。
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午後、東京大学情報学環福武ホールで開催された「人茶カフェ2008」へ。
人茶カフェ2008@東京大学 情報学環・福武ホール
http://www.edu.gunma-u.ac.jp/bijutu/6-6.html
群馬大学の茂木一司先生が代表をつとめ、同社女子大学の上田信行先生らと開催した「アートワークショップの可能性」をさぐる公開シンポジウム。
シンポジウムの基調講演は、僕の尊敬する哲学者「鷲田清一先生(大阪大学総長)。
鷲田清一先生 Wiki
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B7%B2%E7%94%B0%E6%B8%85%E4%B8%80
鷲田先生は、ご自身がコンセプターとして関わった「湊町アンダーグラウンドプロジェクト」のお話をなさった。
「湊町アンダーグラウンドプロジェクト」の舞台は、バブル時代に企画され、その後の不況で開発が中止された「総面積3000平方メートルに及ぶ圧倒的な地下空間」。
その空間は、このプロジェクトが目をつけるまでは、「存在をなかったこと」にされ、封印なされていたという。
しかし、ひょんなことがきっかけで、この空間の存在は「陽の目」を見ることになる。
人づての紹介で、建築家、アーティスト、哲学者、学生、技術者、弁護士、サラリーマンなど、多様な社会的背景と専門性、多様な世代の人々が集まり、約1年にかけて、この場をどのように利用するかのプランニングをした。
プロジェクトは大人の「遊び」であり、大人の「学び」であった。「存在をなかったことにされた空間」には、当然のことながら、電気も水道もガスもきていない。所有者、役所、インフラ事業者、、、様々な人々との交渉をへて、ようやくこの場の利用がきまった。広大な空間を用いて、多くの人々が参加可能な、光のインスタレーション(アート作品)をつくることがきまった。
一般に、物事を何か成し遂げる際には、組織という集団を維持するためには、確固たる「理念」や「ビジョン」というものが必要である、と言われている。
しかし、このプロジェクトにおいては、それはほとんどなかった。敢えていうならば、人々に共有されていたことは「なんかわくわくするものをつくりたい」「最後まで何かをやりとげよう」という意志のみであったという。
敢えて「共有できることをミニマム」にして、プロジェクトが進行した。結果として、このプロジェクトには、のべ数千人の人々が関わることになり、大成功を収めた。
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鷲田先生は言う。
湊町アンダーグラウンドプロジェクトは、「みんなはじめて、もぐろうとした、およごうとしたプロジェクト」であった。
現代を生きる私たちは、日々「自分が職場、組織、地域などから浮いているという感覚と、「自分は他人に泳がされている」という感覚に苛まれている。
自分の感じる欲望までもが、自分のものではない感覚 - 自分のものであるはずの欲望が、実は、自分のものではなく、社会構造的に「欲望させられていること」に気づく瞬間がある。
湊町アンダーグラウンドプロジェクトで、人々が結集し、物事を成し遂げられた理由は、そのプロジェクトに参加し、没頭することが「浮いている、泳がされている自分」を拒否し、「自らもぐり、自ら泳ぐ感覚」をわたしたちに想起させたから、だと考えている。
それでは、なぜ「アート」であったのか。換言するならば、数千にも上る多くの人々が「もぐる、泳ぐための手段」として、アートがその役割を果たしたのか。
これには、いくつかの理由が考えられる。以下、鷲田先生の話を頼りに、若干、僕の言葉を補いつつ、下記に解説する。
まず第一に、参加型アートは「やってあたりまえのことではない」。対して、私たちの社会は「やってあたりまえのこと」ばかりである。「やってあたりまえのことではない」ということは、「いつ辞めてもよい」ということと裏表の関係にある。
よって、参加者は、「なぜ、自分はここにかかわっているか」を常に考えながら、このプロジェクトに参加した。それが「自らもぐり、自らおよぐ」感覚につながったのではないか。
第二に、アートは敷居が広い。また、アートは題材を選ばない。アートにかかわることにも、既存の知識もいらないし、関わろうと思えば、誰でも関われる。
第三に、アートは「ゴールイメージ」は誰も、もっていない。このことは、自分たちが今何をしているかという意味自体も、今何かをすることからつくることしかないことを意味している。
それに対して、一般に私たちの日常は、誰かがリーダーとして振る舞い、誰かが青写真を描いて、結集して、何かをなしとげることになれている。
こうした場には関われる人も関われない人もいる。また、関われたとしても、そこに「関わることの意味」を見いだせない人もいる。
「ゴールイメージを誰ももっていない」というアートの特性は、「自分たちが今何をしているのか」「自分たちとは何者であるか」を問うきっかけになる。
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シンポジウム終了後、カフェパーティに参加。
以前、僕が主催したワークショップで、お料理をお願いしたことのある「たかはしよしこ」さんが、コンセプチュアルなお料理をサーブなさっていた。
たかはしよしこさん
http://takahashiyoshiko.com/
カフェパーティには、東京芸術大学の大学院生の方や、美術教育の大学教員の方、広告代理店の方など、多くの方が参加なさっていた。彼らから「参加型アート」の話をたくさん聞いた。
アートに関しては僕は全くの専門外なので誤解を恐れず(ちなみに図工はいつも2か3であった・・・涙)、彼らの話を要約するとこうなる。
1.かつて、アートは「タブロー(静的な、いわゆる絵画)」のかたちであった。
2.アヴァンギャルドの運動が生まれ、「タブローの内部で、その描画形式を壊す」運動がはじまった。モダン以降のアートの歴史は「壊す歴史」となる。
3.タブローの内部で描画形式を壊したり、崩したりする「限界」まで達すると、「壊す対象」が「形式」ではなくなってきた。私たちがふだん行う日常コミュニケーションや、我々のものの見方、感じ方を、アートが対象化し、ズラしたり、壊すようになってきた。
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ここまでくると、なぜ、僕がこのシンポジウムに敢えて参加したのか(work life balanceを多少犠牲にしたが・・・泣)、勘のよい方なら、おわかりいただけるだろうか。
ここでは詳細は述べないけれど、「アート」という言葉に囚われず、ここまで述べてきたことを考えれば、不思議とその骨子は、「働く大人の学び」の領域で問題になっていることに近くなってくる。
たとえば、「もぐりたい」という問題は、
大人が自分のアイデンティティやキャリアを維持・確認しながら働くためには、社会にどのような学びの場のデザイン、コミュニケーションデザインが必要か?
ということだろう。
同じように、「アートという言葉」に囚われたり、過剰反応しなければ(ほとんどの場合、こういう反応をする人は、食わず嫌いである)、今回のシンポジウムには、働く大人の学習に関して考えるためのリソースがたくさんあふれていた、と思われる。
去年あたりから「デザイン思考」という言葉が人口に膾炙し、大人の学びとデザインの領域がつながりつつある。
さらには、アートの世界も、きっと近くなっていくことだろう。僕には、その「つながり」が見えた気がした。
そして人生は続く。
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追伸.
予想通り、期待を裏切らず、鷲田先生はオシャレだった。ジャケット、メガネ、マフラー、、、いずれもパンピーではない。さすがはファッションを哲学するだけはあると感じ入った。「オシャレ総長」ですね。