「がの応酬」を超えて
シンポジウムへの登壇が続いている。この時期は、本当にイベントが多い。
シンポジウムのパネルディスカッションなどに登壇するたびに、なぜか、僕は、大学外の方々、特に企業の方から、「大学関係者」あるいは「教育関係者」として、「お叱り」を受ける。
大学教育は、何をやっているのだ?
日本の教育は、なぜ、どうしようもないのだ?
ペーペーの僕一人に「大学」や「教育」を負わせるなよ、と心のどこかで思いながらも真摯に耳を傾ける。
先日は、
「最近の新人は挨拶ができない、、、。電話の受け答えもできない。大学教育は何をやっているのだ・・・大学がなってない、いや、公教育全体がなってない、、、世界に比べて、なんだ、あの画一的な教育は」
というありがたいご指摘を受けた。
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ふーん、「挨拶」なんだ・・・
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以前は、こういう議論がでてきたら、真面目に懇切丁寧に、我が国の教育現場の動向、そこにかけられている資源の問題、そして世界比較を行ったときの卓越性について、懇切丁寧に説明してきた。
多くの場合、人々が思っている「教育現場のイメージ」は、我が国の教育の現状とズレている場合が多い。そういうズレをデータを引き合いにだしながら、説明してきた。
でも、最近、あまりにこういう議論が多いので、正直にいうと、少々、疲れぎみである。もちろん、それを諦めることはしないけれど、限られた時間の中で、この問題の複雑性をわかってもらうことは、かなりストレスを感じる。
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思うに、こういう問題を、どこかひとつの教育機関(主体)のせいにするのは「思考停止」に近い。
「あいつが悪い」「こいつが悪い」と「がの応酬」を繰り返していても、感情の浄化(すっきりしたなー)にはつながるかもしれないけれど、問題の解決には絶対に至らない。
「がの応酬」を超え、「わたしたちが一緒に取り組めることは何か?」という立ち位置に立つ必要がある。
これは僕の信念だけれども、「人を育てる」という問題は、決してひとつのエージェントだけが担うべき問題ではない。
「人を育てる」という難問に対して、「みんな」が限られたリソースの中で、各自で何を行い、何を一緒にやっていけるかを考えていく必要がある。そして、そのことを真面目に「対話」するべきである。
皮肉なことではあるけれど、教育問題に対して熱い人ほど、「対話」を拒み、自分の被教育経験から、どこか一つのエージェントを断罪し、問題をさらに複雑にする傾向がある。
重ねていうけれど、それは「感情の浄化」であり「思考停止」である。知性的な態度とは言えない、と僕は思う。
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今、我々を襲う未曾有の不況の中で、僕は思う。
教育にかけられる資源を増やしてもらうというアピールは、教育の内部の人々が、これまで以上に行っていく必要がある。しかし、近い将来、それが「倍増する」というシナリオは、少なくとも僕には、想定しにくい。
そうであるならば、「既にある教育資源」 - それも、家庭、地域、学校、社会教育施設、企業など、様々な資源を「つなげる」ことで、有効に「機能」させることが重要である。
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追伸.
電車で多くの人が咳こんでいるのを見ると、風邪が流行っているんだろうな、と思う。TAKUZOもご多分にもれず体調不良である・・・嗚呼。