苅谷剛彦他著「杉並区立 和田中の学校改革」を読んだ!
苅谷剛彦他著「杉並区立 和田中の学校改革」を読んだ。
東京都初の民間校長として、杉並区区立和田中の校長をつとめた藤原和博さんの学校改革を、ショートエスノグラフィーと調査でまとめた小さな報告書。藤原さん曰く、和田中改革の「決算書」というべき本である。
▼
編者の苅谷先生は言う。
和田中にはメディアが注目し、全国に知られるようになった、和田中ならではの改革の数々がある。(中略)と同時に、和田中には、「普通の公立中学校としての顔」もある。前者がテレビカメラにも映える「ハレ」の面だとすれば、後者は日常の学校生活に根ざした「ケの部分」である。(中略)この二つの顔が交差するところで、改革は進行する。(中略)その動きを理解することで、私たちは、「教育を変える」、あるいは「学校を変える」とはどういうことかを、他の学校を見る以上に、明確に把握できると考えたのである。
(p3)
筆者らによると、和田中の改革は、「ハレ」と「ケ」の二つの顔が交差しながら進行する。本書では、この「ハレ」と「ケ」に質・量の側面から迫っていった。
調査の結果、和田中の改革のKey Factors of Suscess(成功の鍵:KFS)は、下記にあるという。
1)よのなか科などの「出島」をつくることによる情報の発信と、学校外部のリソースを学校内部に集めること
2)藤原氏のもつ、あるいは、出島によって集められた社会関係資本を集中投下すること
3)成果の可視化と効率性の追求
4)有名性の資源化
▼
しかし、何より重要なことは、編者の下記の「資源」に関する指摘である。
ただでさえ、資源が乏しく、多忙化の渦中にある公立中学校を変えるには、教師主導の内側からの改革だけに期待するには無理がある。生徒たちの学習をより充実したものにすることにあるとしたら、いかにして新しい資源を掘り起こし、それを活用することで、学校の力を活性化させるかが重要な戦略となるはずだ。(中略)
和田中改革の一つの特徴は、「資源の制約」という問題に真っ正面から向き合ったことにあるといえる。和田中の改革メニューは、その多くが「学校外の資源」を活用したものであり、そのことを通じて、和田中の生徒たちの経験の幅と多様性は確実に拡大した。(中略)
外部の力や資源を最大限に活用することで、あれもこれもと無理な注文が、教師たちに向かわない限りにおいて、たしかに教師たちは、自分の授業改善や指導の時間に向き合うことができる。
(p4-5)
この考え方は、いわゆる従来の学校改革論とは、違いがあるように思う。
それは、ともすれば、それは生徒にとってよいと思われること、教師にとってよいと思われることを、「資源の問題」を考えずに、ポジティブリストとして掲げてしまう傾向があった。それゆえに、教師の負担は増加し、時に疲弊した。
また、「学校のコアコンピタンスは授業である・・・ゆえに、授業がよくなりさえすれば、学校がよくなる」という背後仮説を前提にして、教師同士による授業改善さえ実行すれば、学校は変わる、問題は解決する、といったような予定調和の議論がなされる傾向があった。
もちろん、それらの努力は貴重である。誤解を避けるために言っておくが、授業を改善することは貴重である。
しかし、そう思うものの、そうした議論に欠損しているのは「資源の制約」の問題であり、「学校が変わること」に対するゼロからの思考であったと僕は思う。
▼
本書最後の対談でも述べられていることだが、和田中や藤原氏の改革を、その内実をきちんと見つめようとせずして、「新保守主義」というラヴェルをつけて批判し、揶揄することはたやすい。
しかし、それは、ほぼ「思考停止」である。「ハレ」の部分だけを見て、「ケ」を見ない行為は、賞賛される知性の動かし方とは言えない。
本書は「岩波ブックレット」なので、薄い小さな本である。それゆえに、1)対象年度が2003年に限定されており、現在の和田中の様子を反映したものではないこと、2)扱われている施策が限定されていることなどの、限界もある。それは「総決算書」というよりは、四半期ごとの「決算」に近い。
しかし、そこで提案されている内容は、これらの限界を考慮しても、非常に示唆に富むものだと思う。僕個人としては、ここ最近読んだ学校改革論の本の中で - この本よりも「厚い本」も、「難しい本」も含めて - 本書の内容が、最も腹に落ちたし、面白かった。