母親とは「存在」であり、父親は「役割」である
絵本作家・きむらゆういちさんのエッセイ「たいせつなことはみんな子どもたちが教えてくれた」を読んだ。
きむらゆういちさんの絵本「あそびえほんシリーズ」といえば、子どものいる家庭ならば、どこの家庭にでも1冊はあるようなベストセラーである。
木村さんの活躍は、絵本だけではない。造形教室を主宰したり、NHKの幼児テレビ番組のブレーンをつとめたり、、、その活躍は多岐にわたる。
エッセイの中に、印象的な一言があった。
母親とは「存在」であり
父親とは「役割」である
要するに、子どもにとって、母親とは「存在するだけで安心」するものであり、だから「どーんとしていればよい」。
それに対して、父親は、「役割」を果たさなければ、父親にはなれない。
一緒に遊んであげるだとか、本を読んであげるだとか、そういう「子どもにとって重要な役割」を果たしてはじめて、ようやく「父親は父親になることができる」というのである。
なるほど、その通りだよな、と思った。
きむらさんの指摘は、僕がこの2年間でうすうす感じていたことにかなり近く、それを端的に表現しているな、と思った。そうだ、カミサンは「存在」であり、僕は「役割」だったのか。
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僕は父親としての「役割」を果たせているだろうか。
いささか、というか、かなり不安ではあるけれど(カミサンには申し訳なく思う)、愉しみつつ、無理なく、一緒に生活していく他はないのかな、と思う。
そして、父親の人生は続く。