"おもちゃ"になってしまった大人の運命
中原君、子どもの前で、一度、"おもちゃ"になってしまった大人は、決して、大人には戻れない。あとで、どんなに挽回しようと頑張っても、子どもにとっては、ずっと"おもちゃ"のままだ。
"おもちゃ"になってはいけない。"大人"として子どもの前に立ちなさい。変に「おもねる」わけでもなく、かといって、変に「厳しく」するのでもない。一人の人間として、アタリマエに、子どもに、人間に向き合ってごらん。
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今から十数年前、はじめて小学校の教室に出かけた僕に、ある先生がそっと教えてくれた言葉です。
当時の僕は、ある小学校の授業を参与観察していました。たとえ大学生の身分であっても、子どもの目から見れば立派な大人。その先生は、教室で子どもに接するときの心構えとして、上記のことを僕に教えてくれたのです。大変ありがたいことです。
(ちなみに、このときの先生が、現在、青山学院大学で教鞭をとっておられる、苅宿俊文教授です。当時は、港区の小学校で図工の先生をしていらっしゃいました・・・僕は、卒業論文で、その現場を参与観察させていただいたのです・・・下記はそのときの写真。後ろの方でノートをとっている僕がいます)
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昨日、某企業の某プロジェクトでご一緒した、企業人材育成の講師の方に、この話をしました。その方は、新人研修を担当なさっている方でした。
「それは、子どもだけではないです。新人だって、大人だって、同じですよ。新人研修の最初に担当した講師の対応によって、その後の講師のやりやすさが、どんなに変わるか・・・」
ほほー。
子どもも大人も、結局、同じなのだな、と思いました。
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よく小学校の現場では、
「新学期の最初の7日間で、その後一年の学級の雰囲気が決まる」
と言われると聞きます。
要するに、新学期、真新しい教科書を開きながら、子どもは、教師を「値踏み」しているということです。教師が望むと望まないとにかかわらずして、教壇にたつ人間は、「値踏み」される運命にあるということです。
そのとき、一度「おもちゃ」と認定されてしまった教師は、その後、教師に戻ることには、大変な苦労がともなうのもかもしれません。
やはり、最初が肝心なのかもしれません。
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追伸.
昨日、某プロジェクトの会議の進行を聴きながら、ふと思ったことに、企業人材育成の現場の講師の方のPD(professional Development : 専門性開発)はどうなっているのかな、というものがあります。「研修の最初に担当した講師の対応によって、その後の講師のやりやすさが、どんなに変わるか」という言葉から、ふと疑問に思いました。
講師の方々は、そもそも「教える内容」をどのようにアップデートしているのでしょうか。そして、教壇にたつ前に(preservice)、あと教壇にたった後に(inservice)、どのように自分の「教え方(教育技術)」を振り返り、改善しているのでしょうか。
また個人としてではなく、組織として、「講師のクオリティアシュアランス(品質保証)」をおこなっていくための「仕組み」は存在しているのでしょうか。それはどのような原理で実施されているのでしょうか。
そういえば、僕自身は、あまり考えてこなかったな、とふと疑問に思いました。
ちなみに、学校教育であれば、「免許制度」があります。学校内には、教師の教育技術を改善するための校内研究会があります。そして、それを支えるための理論があります。教育技術学、教育方法学、教師教育学という研究領域もあります。
僕個人としては、現在の教員免許制度で学ばれるべき内容は、決して十分ではないと思っていますが、それでも、上記のように、既に仕組みが存在し、制度化されていることには意味があります。
「大人を前にして教えるあなたは、どのように学んでいるのですか?」