有元典文×岡部大介著「デザインド・リアリティ」を読んだ!
有元典文先生(横浜国立大学)、岡部大介先生(慶應義塾大学)から、ご著書「デザインド・リアリティ ー半径300㍍の文化心理学」(北樹出版)をご献本いただいた。
本書は、スタバ、焼肉屋、コスプレ、プリクラ、やおい、腐女子、童貞など、通常の「心理学」が扱わない内容を素材として、新しい心理学のあり方を論じた専門書である。
我々の「身近な日常的実践 - 半径300メートルの出来事」を題材として(僕の半径300メートルにやおいはいない!?)、人間が、いかに人工物を活用し、世界を秩序だったものとしてデザインし、生きているのかを問う、心理学の専門書である。
焼き肉屋、やおい、腐女子、童貞・・・こう書いてしまうと、いわゆるサブカル系の、軽く薄っぺらい本を想像してしまうかもしれない。しかし、本書は「断じて」そういう類の書籍ではない。
本書は、Serious fanな「学術書」であり「専門書」である。そのことは、手にとってご一読いただければわかると思う。
▼
本書の面白さは、「本書が様々な読み方が可能な書籍」であることに由来する、と個人的には思う。
第一の読み方。
それは、扱っている題材の具体性、そして、その面白さである。
たとえば、本書で扱われている事例にスタバがある。
スタバでは、1時間に300個のコーヒーのオーダーが入る。メニューは約40種類。客ごとの好みにカスタマイズも可能なので、バリスタが受ける可能性のあるドリンクの種類は100種類以上になる。
それでは問題。
次々と、矢継ぎ早に客から寄せられるオーダーを、スタバの店員は、どのように記憶し、どのように処理しているのだろうか?
実は、この問いには、いわゆる「伝統的な記憶の心理学」は、適切な答えを用意できない。答えは、ぜひ、本書を手にとってご覧下さい。
▼
第二の読み方。
それは、「状況的学習論のガイド」としての読み方である。
本書で扱われている理論家は、マルクス、ヴィゴツキー、カロン、レイヴ&ウェンガー、ワーチ、サッチマンと多岐にのぼる。
マルクスからヴィゴツキー、そして、レイブ&ウェンガーを経てサッチマンやカロンに至る理論の布置がわかって、非常に面白い。
人間の本質は、ひとりひとりの個人に内在する抽象物ではない。現実には、人間の本質は社会の諸関係の総体である。
(マルクス 1845)
発生的に見て、社会の諸関係、つまり実際のひととひととの関係が、すべての高次精神機能の基礎となっている。これらの機能のメカニズムは、社会の写しである。それらは、社会秩序の中の諸関係が内化され、個人のパーソナリティに引き写されたものである。精神の構成と発生と機能、つまり、その本質は社会的である。
(ヴィゴツキー 1929)
状況的学習論に関しては、これまでにも、たくさんの専門書がでていたが、本書は、上記のような「半径300メートル」の事例を用いて、平易に解説してある。
ちなみに、AMAZONの「出版社&著者からの紹介文」には下記のように記されている。
こんな方へ:
◇ヴィゴツキー、レイヴ&ウェンガー、エンゲストローム、上野直樹、茂呂雄二を途中で投げ出した人へ=やり直しの状況論
◇正統的周辺参加? 活動理論? アクターネットワーク? ハイブリッド・コレクティヴ? 難しい理論にへきえきした人へ=涙なしの状況論
◇なんで勉強するの? 良い授業とは? 仕事がつまらない!=教え・学び・実践をデザインする全ての人へ
本書を一読した僕個人の感想としては、上記のアドバタイジングに嘘はないと思う。
本書を通じて、筆者らは「物事の本質はディテールや具体的な場面に宿ること」、それを、いわゆる海の向こうの人たちが創造した他人の言葉で語ることをせず、何より「自分の言葉で語ること」が重要であることを、自ら伝えようとしていると感じた。
事実、著者の有元先生によれば、「本質は具体性に宿る、ということが若い読者に伝わるとよいのですが」とのことである。
その試みは成功していると、僕は思う。
(もうひとつ注目すべきは、こうした「具体的場面のエスノグラフィー」が、有元先生、岡部先生がご指導する学部生、大学院生の研究知見であるということである!)
▼
第三の読み方。
それは、本書が、伝統的な心理学 - というよりも、学問全体 - に対する強烈な批判をおこなっていることである。いわゆる「批判心理学」の書物としても読むことができる。
本書を「誰として誰にむけて」書くのか、という設定は、執筆の舞台裏のことだが、同時に本書の重要なテーマを含んでいる。(中略)
この「誰として誰に」という問いは、学問の領域において往々にして問われることがない。研究者として、つまり「誰なのか」とあえて問われることのないそのことで、超越的な視点から、彼ら研究者の見いだした対象を、彼らの興味に従って、彼らの定めた客観性にそって、誰かに向けて描写する。そのプロセスの中で、「誰がだれに」という問いは問われなくても問題にならなくなってしまう。
(p14より引用)
なぜ記憶実験や学校では、わざわざ私たちの日常の当たり前の工夫を停止(して実験を行うのか)するのかを考えてみて欲しい。当たり前の工夫を停止することで、いったい、何を試しているのだろうか。
(p29より引用)
心理学の研究は、私たちの日常を代表していない可能性がある。日常とは異なるいわば非常事態心理学だったのかもしれない。
(p50より引用)
その批判は「痛烈」でありが、小気味よく「痛快」である。
▼
第四の読み方 - それは本書が「人間とはどのような存在か」「なぜ人は学ぶのか」に関して、筆者なりの答えを提案していることにある。
自分たちの世代のたくわえを次世代に伝えるためには、世界の見え方を伝承するための特別な実践が必要になる。そのことをわたしたちは、教育と呼んでいる。
自分たちの世代の世界の見えを次世代に伝え、この世界の見えを再生産するために、私たちは教えと学びという営みを必要とする。
動物とは違う拡張された現実を生きる以上、動物とは異なる後天的な伝承のプロセスを種として必要とするのである。種の存続の基本条件として、学習のプロセスを埋め込んだ存在が人間ということになる。
なぜ学ばなければならないのか、子どもや初心者は問うだろう。それは人間を維持するためである。
(p198より引用)
人はなぜ学ぶのか - それは、人が「徒手空拳」の中で問題解決をおこなったり、行為をする存在ではないことに由来する。
人は、文化的、歴史的に構築した人工物、環境を、自分たちが生きていくために、デザインしつづけ、秩序を構成してきた。
そして、これを後世に継承していく社会的装置が「教育」であり、人間が人間として生きていく限りにおいて、「学ぶこと」は、常に「そこにある」、、、というより「なければならない」。
よく教育業界では、
「これから目指すのは、教育なのか、学習なのか」
「それは教育であって、学習ではないからダメだ」
といった問いや主張が繰り返される。もちろん、ここでいう「教育」は「強制的で、画一的なもの」、ここでいう学習とは「自律的で、独自なもの」という前提がある。前者を否定して、後者を称揚することが、今もなお、繰り返される。
本書を読めば、こうした二者択一の議論が、いかに浅薄で、くだらないか、が理解できると思う。
▼
第五の読み方 - これは実際に手にとって、中をご一読いただけるとおわかりいただけると思うが、本書が「遊び心」に満ちている本だということである。
文面はシリアスでありつつも、様々に「遊び心」をデザインしている。この「はずし」「くずし」は、一般の専門書にないものである。非常に心惹かれた。
こうしたデザインを施した理由は、本書が冒頭にかかげた問い - 「誰として誰に向けて書くのか」に関係しているものと思われる。
ここは僕の類推の域を出ないが、本書は「世界の成り立ちを理解したいと考える、若いマインドをもった読者)」に書かれたものであるからだと思う。
※「若い」ではなく「若いマインド」と書いたことに注意。世の中には「若いマインドをもったジイサン」もいる。反面、「ジイサンみたいな若者」もいる。サムエル=ウルマンの詩ではないが、「人は年をとっただけで老いない。理想を失ったとき、人は老いる」
▼
というわけで、つらつらと書いてきたが、おすすめの一冊である。最後に、知的にエキサイティングで、愉快な時間をプレゼントしてくれた有元先生、岡部先生に感謝する。ありがとうございました。
---
追伸.
今日は、これからシンポジウムに登壇である。今年1年、富士ゼロックス総合教育研究所と、中原、小樽商科大学の松尾先生とで、「他者とのかかわりを通して学ぶ」ということに関して、共同研究をおこなってきた。
今日は、富士ゼロックスの小林陽太郎さん、日本ベーリンガーインゲルハイムの早川さんらが参加して、その成果発表のシンポジウムが開催される。
共同研究成果
http://www.fxli.co.jp/data/pdf/081211_odpweb.pdf
東京の方は、もう満席ですが、大阪はまだ空いているようです。もしよろしければぜひどうぞ。
大阪
http://www.fxli.co.jp/data/pdf/090129odpWeb.pdf