僕のJAZZの愉しみ方
僕の一日の愉しみのひとつに、夜な夜な、オーディオを聴くことがある。子どもが寝静まったあとで、ウィスキーをやりながら、音楽を聴いている時間が、とても落ち着く。最近は、もっぱらジャズ。これである。
オーディオのリモコンを握りながら、40年~50年前の名ライブ演奏に耳を傾け、その場を想像することが、結構楽しい。
すべては僕の「想像」の世界である。
50年前の、あるライブハウスでの演奏に、たまたま居合わせたお客たちは、まさか、自分たちの笑い声やくしゃみ、食器を重ねる音が、後世の人たちに、何度も聞かれることになろうとは、思わなかっただろう。
演奏によっては、わずか10名程度の客しかはいっていないこともある。よもや、その10名は、自分が「世紀の名演」に立ち会っているとは思わなかっただろう。僕は、この10名をとても羨ましく思う。あなたは、歴史的な一瞬を目にしているのだ、と言いたくなる。
目を閉じる。
名演を聴きながら、僕の「想像」は果てしなく広がる。名演といわれるライブが開催された場所、そこに居合わせた人々、その場の空気や匂い・・・「どんな場だったのだろう」・・・思いを馳せる。これもジャズの愉しみ方のひとつである、と僕は思う。
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僕のジャズの愉しみ方には、もうひとつの側面がある。
プレーヤーが奏でる音楽もさることながら、プレーヤーが「何を打ち壊し、何を創造しようとしたのか」に思いを馳せることである。いずれにしても、「思いを馳せる」であることが、笑える。
たとえば、誰でも知っているジョン=コルトレーン。彼は、いったい何を「創造」しようとしたのか。
周知のように、コルトレーンは、当時、ジャズ批評家たちによって酷評されていた。
「こんなものはジャズではない」
「無意味な音の連続はやめてほしい」
「コルトレーンの音楽はノイズにあふれすぎている」
コルトレーンの歴史は、そうした批評家たちとの闘いの歴史でもあった。
しかし、彼は「実験」をやめなかった。当時は理解されなかったとしても、志を貫いた。彼は、こんな言葉を残している。
僕は常に実験しつづけなければならない。
まだはじまったばかりだからだ。
僕は、自分が手にしたいと思っているものの
一部は手にしているが、
これはすべてではないんだ
(ジョン=コルトレーン)
「学び」とは「創造」と「破壊」を繰り返すことである。そして、そのプロセスに、終わりはない。コルトレーンは「Learner」であった。
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たとえば、キース=ジャレット。
彼は、コンサートすべてをインプロヴィゼーション(即興)で演奏するという新ジャンルを打ち立てた。
彼のコンサートに楽譜はない。そして、それは再現できない。「そういうもの」としてコンサートを彼は位置づけようとした。
このアルバムの意図は単純である。
ここに演奏されたものは、
私が以前に一度も演奏をしたものではない。
今後もこの通りに演奏するものでもない
これは、今までにつくられたことのない
種類の音楽であり、やがて一般化されるのが
望ましい音楽である。
(キース=ジャレット)
ケルン、ブレーメン、ローザンヌ、東京。世界の様々な場所でインプロヴィゼーションのソロコンサートを成功させていく。
ディスクに残されている、彼の名演奏のひとつケルンコンサートを聴く。インプロヴィゼーションは、一瞬の迷いや間違いも許されない。指がとまれば、そこには静寂しかない。恐ろしいほどの集中力や気迫が伝わってくる。
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今日の夜はモンクを聴こう。
モンクのピアノは、不均衡ではちゃめちゃなリズム、急激なアップダウンのあるメロディ展開で、よく「酔っぱらい」にたとえられる。
しかし、彼もまた、何かに憤り、何かを壊し、何かを創造することを試みた人である。
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僕が好きなのは、結局、Learnerなのである。
追伸.
今日は、御用納めです・・・一年が終わった。
今年も素晴らしい方々との出会いやコラボレーションがありました!
大変ありがたいことです。
皆さん、また来年お逢いしましょう!
よいお年をお迎えください。