質問とは「贈り物」であり、「知性」をうつしだす鏡である
ちょっと前のことになるけれど、NPO法人 アクションラーニング協会の主催するシンポジウムで、パネルディスカッションのパネラーを仰せつかった。
会場には、ワシントン大学大学院人材開発学部教授のマイケル=マーコード先生がいらっしゃっていた。
マーコード先生とはほんの少ししか話す暇はなかったけれど、印象的だったのは、
「質問とは贈り物である」
という言葉であった。
お互いに、「オープンエンドな質問」を「贈り物」として、おくりあう。それをふまえて、自分がわかり、自分の考えていることがわかる。質問を通して、アイデアを練り、気づき、発信する。そんなウィットに富んだ「贈り物」ができたら、最高だと思う。
ちなみに、贈り物のメタファが秀逸なのは、それが「相互に与え合うこと」を喚起する点にもある。
贈り物を人からもらってお返しを返さないのは、非社会的行為とラベリングされる可能性が高い。だから、贈り物は、常にインタラクティヴなものである。いったんオープンエンドな質問が効果的に送られると、それを受け取った人も、よい贈り物をしてくれる可能性が格段に高くなる可能性が高い。
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しかし、現実社会の会議が、すべてそううまくいくとは限らない。
自分の「立場」「利害」「立ち位置」とは異なるものを徹底的に排除しようとする「贈り物」。
「わかっている人」が「わかっていない人」を責め立てて、「誰が上で、どちらが下なのか」を理解させようとする「贈り物」。
そういう「はた迷惑」で、1ミクロンの生産性もないような「贈り物」 - つまりは自分の権力を守り、維持し、強化しようとする質問 - が跳梁跋扈しているのが、現状である。
敢えて皮肉をこめて「贈り物」と書いたけど、こういう「贈り物」はインタラクティヴな贈り物のやりとりにつながらない。
そんな「贈り物」をもらっても、もらった本人は全く感謝しないだろうから、その後には、字義通りの「贈り物」などおくらない。
そこでなされるものは何か。
言うまでもなく「復讐」である。これはお互いにとって、あまりメリットはもたらさない。さらに最悪なのは、いったん口火が切られたら、それは、なかなか終わらないことにある。
場はどんどんと凍える。
人々はどんどんとシラケていく。
そういう場にだけは、1秒たりともいたくない。
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僕が、いつも思っていることだが、
質問は、その人の"知性"をうつしだす鏡である
その人がする「質問のクオリティ」を聞けば、だいたい、その人がどういう「知性」の持ち主かはおのずとわかってしまう。
相手に贈り物を与えるのか、それとも爆弾を投げつけるのか、という選択は、結局、「自分も相手からの贈り物をもらい、そのことで成長したいと願う」のか、それとも、「相手からの攻撃をひたすらかわし、さらに攻撃するその後を歩むのか」ということを選ぶことでもある。
個人的には、前者の生き方の方が、「自分が賢くなり、さらに自分のまわりにいる人も賢くなる」という意味において、魅力的である。そういうあり方を、僕は「知性的」とよぶ。
よい質問がしたい。
そして、自分も「よい質問」に囲まれたい。
僕は願う。